「12歳までに『絶対学力』を育てる学習法」という本があります。本の内容は、基本的に賛同できます。例えば、高速計算のような単純な作業ではなく考える勉強を、テレビのニュースはできるだけ見ない、絵をかいてイメージで考える、などです。
しかし、音読や暗唱も、高速単純計算と同じ扱いで書かれていたので、この本の内容について一言説明を書いておきたいと思います。
まず第一に、高速計算の批判の対象となっている公文式や百ます計算についてです。
公文式や百ます計算などの勉強法は、歴史的な意味があって登場しました。それは、理解教育(個性教育)の行き過ぎに対する反省です。理解教育の偏重によって基礎となる技能が習得できてない子供たちに対して、習熟教育(模倣教育)を提案したという意義が公文式や百ます計算などの教育にはあります。しかし、それがその後、行き過ぎてきたのです。
ところが、習熟教育を否定して理解教育を優先するだけでは、また同じような過去の歴史に戻るおそれがあります。
習熟と理解を対立させるのではなく、理解のための習熟という考えをしていく必要があります。
インド式九九なども習熟教育です。しかし、インド人に数学の得意な人が多いというのは多くの人の認めるところです。それは、インドの長い伝統の中で、習熟が自己目的化しない形で教育が行われているからです。
もし、インド式九九という習熟教育が自己目的化すると、例えば次のような競争になるでしょう。「うちは、20×20までの九九ができる」「それならこっちは30×30だ」「こちらは10分で九九が言える」「では、うちは5分で言ってみせる」など。
このような競争の仕方が、習熟自体の自己目的化です。高速教育は、高速が目的化しがちですが、それは伝統が浅いからです。これからは節度のある習熟教育が理解教育と共存するようになると思います。
第二に、一律反復の教育ではなく、個別理解の教育の重要性ということを著者は述べています。しかし、この発想は、先生の力量に左右される教育で能率が悪くなる面があるのです。
個別理解教育は、人のコストがかかります。それに対して一律反復の教育は教材のコストがかかるだけなので、能率を上げる工夫をすることができます。
能率が悪い個別理解教育は、一斉指導になりやすいという矛盾を抱えています。つまり、学年別、能力別のクラス編成にして一斉に教えるような形でないと、多くの生徒を個別理解教育で教えることができないのです。それがこれまでの学校の一斉指導でした。この一斉指導に限界があったために、教材で個別化を図るという一律反復の教育が出ててきたのです。
江戸時代の寺子屋教育も、一律反復の教育という形を取っていました。だから、世界でも類を見ないほど教育を普及させることができました。
今後求められるのは、一律反復の教育を土台にした個別理解教育という、両方の教育の長所を統合する発想です。それが言葉の森の指導だとまでは、まだ言いませんが。(^^ゞ
第三に、著者は、スポーツや音楽では反復は大事だが、勉強では反復は思考力を損なうと述べています。
しかし、これに対して、言葉の森では、言語に関する技能はスポーツや音楽と同じだといつも述べています。言語、つまり語彙や文章を身につけることが、自分で考えるための材料になり土台になります。そのために必要な一つの方法が反復です。
反復教育が問題になるのは、バラバラになった死んだ知識や語彙を蓄積することが目的になってしまう場合です。例えば、作者名と作品名をつなげるような知識、漢字の書き取りの知識、ことわざの知識など、要するにクイズ的な知識というものは、そのためにわざわざ長い時間を割けて覚えるようなものではありません。
これらの知識をバラバラの知識ではなく、文章の文脈の中で理解するというのが大事です。例えば、漢字の場合でも、文章の中で漢字を書いたり読んだりする、ことわざでも文章の中でことわざを読んだり書いたりする、という勉強の仕方が大事なのです。しかし、文章が大事だといっても、それを読んで理解するだけでは勉強の内容として不十分です。そこで言葉の森では文章を自分の血や肉として身につける暗唱の指導を取り入れるようにしているのです
第四に、言葉で考えるのではなくイメージで考える、ということ著者は述べています。しかし、こういう考え方自体が言葉でなければ考えにくいように、物事が高度になると、イメージよりも言葉の重要性が増してきます。
犬や猫もある意味でイメージで考えています。イメージで考えるのが効果的なのは、考える対象が具象的な時期の間です。例えば、算数の文章題で、「ドングリの数の2倍のクリがあり、クリよりも3つ少ないリンゴがありました」などという文章のときはいいのです。作文で言えば、「今日の朝ご飯」というような生活作文は絵になります。絵をかけばそれがそのまま文章になる時期の作文としてはこれで十分なのですが、小学校高学年からの考える作文になったときには、絵にはかけない話が増えてきます。ここでやはり言葉の力というものが必要になってくるのです。
(この文章は、構成図をもとにICレコーダーに録音した原稿を音声入力ソフトでテキスト化し編集したものです)
著書の糸山氏より、この記事に対する反論をいただきましたので、併せてご紹介します。
2009/11/4
http://homepage.mac.com/donguriclub/kotobanomori.html
貴重なご意見ありがとうございました。
その後、言葉の森とどんぐり倶楽部の勉強法の比較について読者の方からご質問をいただきましたので追加します。
2010/1/19
上記の紹介ページに書かれている批判は、論点があまり整理されていないように思いました。
ですから、ここでは特に返事を書かず、言葉の森のホームページで「反復教育と理解教育」についての記事を追加しました。
https://www.mori7.com/index.php?e=742
小学校の高学年で、「ことわざの引用」という項目があります。
小学生のころは、ことわざを引用することによって感想が深まる面がありますが、高校生ぐらいになると、ことわざの引用はかえってありきたりの表現になってしまうことがあります。
そこで、練習するのがことわざの加工です。
これは、多くの人によく知られていることわざを、別の場面にあてはめたり別の表現に言い換えたりして発展させる使い方です。
例えば、「瓜のつるになすびはならぬ」ということわざは多くの人に知られているので、それを利用して、「瓜のつるになすびがなることもある」などと書きます。これは、不可能に見えたことも技術革新などによって可能になるなどという話のときに使えます。バイオテクノロジーの話題などで出てきそうです。
「サルも木から落ちる」であれば、「木から落ちるサルはめったにいない」などと言い換えます。自分のよく慣れたことはめったに失敗しないものです。
「ブタもおだてりゃ木に登る」であれば、「どんなにおだてても、ブタは木には登れない」です。能力を超えたことは、やはりできません。
西堀栄三郎さんの著書のタイトルは、「石橋を叩けば渡れない」でした。
ことわざは、世の中の真実を鋭くついた言葉ですから、それだけに正反対の言葉も真実になるのです。