言葉の森の通学の小学校5年生以上の生徒は、もう何年も前からほぼ全員がパソコンで作文を書いています。また、通信でも、かなりの生徒がパソコンで作文を書くようになりました。
しかし、次に来るのは、新しい手書きの時代だと思います。それはなぜでしょうか。最大の理由は、手書きの方が、文章と人間が一体化しているからです。書く内容が高度で微妙になるほど、その差ははっきりしてきます。
パソコン入力の一番の問題点は、変換する必要があることです。それが、道具と人間の間に隙間を生み出します。理想の道具は、身体と一体化したものでなければなりません。
もう一つの理由は、パソコン入力は1次元が中心になっていることです。それに対して手書きは2次元です。つまり、構成図を書くような図形的な書き方も手書きであればそのまま対応できます。
第三の理由は、手書きは、アナログ的なところに個性が出せるということです。
確かに、文章には、読む人を意識した読みやすさという要素もあります。パソコン入力の最大の利点は、デジタル化されたテキストという普遍性を持っているということです。この普遍性の故に、編集が可能になり、他人との共有が可能になり、検索が可能になっています。
では、将来手書きはどういう方向に進んでいくのでしょうか。一つは草書のような速書きの方向です。もう一つは、OCR化しやすい文字の書き方という方向です。
未来のOCRは文脈解析能力を持つので、手書きの草書体の文字もすぐに活字化されるというようになっていくと思われます。
(この文章は、構成図をもとにICレコーダーに録音した原稿を音声入力ソフトでテキスト化し編集したものです)
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作文指導は従来、主観的感覚的に行われている面が強くありました。例えば、指導や評価の方法でも、「自分らしく」「心をこめて」「深く考えて」などというあいまいな言葉がよく使われていました。
それに対して言葉の森は、客観的合理的な作文指導を心がけててきました。その指導の技術が、一段落しつつある今、改めて心の教育に取り組む必要があると考えています。
作文に限らずあらゆる教育に言えることですが、同じように教えても、生徒の出来不出来というものは常にあります。先生は、それをやむを得ないことと考えて点数をつけます。同じように教えても、90点の子もいれば、60点の子もいれば、30点の子もいます。
教育を技術的なものと考えると、人間の能力には差があることは当然のように見えます。確かに、2、3年あるいは4、5年という短い期間で言えば、能力の差はすぐには埋まるようには思えません。
しかし、20年、30年、あるいはもっと長い期間を考えてみると、どの子もいつか自分の人生で100点をつけられるようなときが来ます。小学生のときに30点しかとれなかったことも、その100点の一部になるような時期が来るのです。
その可能性に確信を持つことが、心の教育です。それは、生徒が学ぶことを当然の前提として点数をつける教育ではなく、何のために学ぶのか、あるいは何のために教えるのかを常に自問する教育でもあると思います。
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よく「国語の成績を上げるにはどうすればいいのですか」と聞く人に、問題集の問題文を繰り返し読む問題集読書の方法を説明してきました。しかし、この方法を実行できる人はあまり多くいませんでした。単純すぎて物足りない勉強法だからです。また、成果が形として残らない勉強でもあるからです。
やったあとが形に残らないので、始めてはみたものの結局しばらくやって飽きてしまい、続かなくなってしまいます。そして、問題集を解くような形に残る勉強をしてしまうのです。
問題集を解く勉強がよくないわけではありません。しかし、解く勉強は時間がかかります。問題集を解く時間をただ読むだけの時間にあてれば、5倍から10倍も勉強がはかどります。
そこで手順をもっとわかりやすくして、先生のチェックが入る方法にすれば、この問題集読書も実行しやすいのではないかと考えました。
方法は、まず昨年の全国の入試問題集を買ってもらいます。国語という教科は英語、数学などの他の教科と違って、高校1年生でも大学入試の問題文を読むことができます。同様に、中学1年生でも高校入試の問題文を読むことができ、小学校5年生でも中学入試の問題文を読むことができます。
用意した問題集をまずバラバラにします。これは1冊丸ごとのまま利用すると、結局問題集が重くて持ち運べないからです。その結果、問題集を家に置いていくことになります。すると、勉強の方法は本人任せになり、実行できなくなってしまいます。
買ってきた問題集を1ページごとバラバラにして、それを3枚ぐらいにまとめてホッチキスなどでとじます。3枚の中には、だいたい2、3編の問題文が載っているので、全部黙読で読むと10分ぐらいかかります。毎日10分読んで1週間読んだ分を教室に持ってきます。(通信の場合は、別のやり方になります)。先生が検印を押して返却します。そして、1年間の間にどのページも4回以上繰り返して読むといいう仕組みにしていきます。(まとめるのは1日3枚でなく、1週間20枚という形でもかまいません)
文章を読むときに大事なことは、面白いところ、よくわかったところに線を引くことです。
そして、線を引きながら読むだけでなく、その読んだ文章の中の一つを選んで、4行で感想を書くという練習をすれば更に深い読み方ができます。通信の場合は、この4行の感想を提出するという形にすることができます。
小学4年生までの生徒は、入試問題の問題集読書をするのではなく、普通の読書をしていきます。この読書は、付箋をはりながらの読書で、読み終えたあとにやはり4行で感想を書きます。先生には、その感想を提出するという形になります。
現在、通信でも実行きる方法を考えているところです。
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反復学習が問題になるのは、それがまだ不徹底のときと、反復そのものが自己目的化してしまうときです。
消化された反復学習は、知識が自分の手足のように自然に使えるようになるという点で理解や思考の土台となります。
しかし、言葉と体験に関しては、言葉が先行しすぎないように常に豊かな体験で言葉を補っていく必要があります。
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記憶や反復や音読や暗唱が、理解や思考と相反するという考えに多くの人がとらわれています。例えば、丸暗記という言葉には、自分で考えない、表面的な知識だけ、というニュアンスがあります。暗唱も、この丸暗記と同じようなものだと多くの人が考えていると思います。
しかし、記憶が、思考に対して弊害になるのは、その記憶が徹底していないときです。つまり生兵法の記憶、一夜漬けの記憶のときに記憶が弊害になるのです。消化され自分のものになった記憶は、思考を深める役割があります。
例えば、九九というものを考えてみるとわかるように、ほとんどの人は、九九を消化しているので弊害というものを感じません。しかし、九九を覚えかけているときは、九九を使うことによって実感よりも劣る面が出ていたこともあったはずです。
同様に、言葉も、覚えかけのときの言葉は、実感よりも劣る面があります。未消化の言葉によって、体験がかえって浅くなる時期があるのです。しかし、言葉が消化されたあとは、体験は言葉によって深くなります。
暗唱は、言葉による物の見方感じ方考え方を蓄積することです。
しかしもちろん、暗唱以外にも、言葉を蓄積する方法はあります。例えば、たくさんの話を聞くこと、たくさんの本を読むことです。多くの話を聞いたり多くの本を読んだりすることによって同じ文章に触れる機会を増やすことができます。つまり、同じ文章や同じ文脈に何度も触れることによって、理解するための言葉が表現するための言葉になっていくのです。
この表現語彙と理解語彙には、大きな違いがあります。例えば、英語を読む力を10とすると、ほとんどの人の英語を書く力は1程度のはずです。誰でも名作を読んで感動することができますが、同じような名作を書ける人はほとんどいません。理解語彙のレベルと表現語彙のレベルは大きく異なるのです。
消化された表現語彙を蓄積する方法として、日本人は暗唱というやり方があることを知っていました。九九、百人一首、いろはガルタ、素読などは、日本人が開発した教育の方法でした。
しかし、この百人一首などに見られるような記憶反復の伝統は、戦後急速に失われ、それまでの記憶や反復の学習に取って代わったものは理解と思考の教育でした。ところが、理解と思考の教育は、能率の悪い一斉指導に結びついていたために基礎学力の低下を生み出しました。その学力低下に対する批判として、公文式や100ます計算のような記憶反復の方法が登場したのです。しかし、新しい記憶反復の方法は歴史が浅かったために、その方法が万能であるかのような行き過ぎも生み出しました。
この記憶反復の方法と理解思考の方法を統合するのが、読書、作文、暗唱を結びつけた学習になると思います。言葉の森の学習ですが(笑)。
さて、暗唱の本当の目的は、実は記憶ではありません。勉強を進めるための方便として覚えることを目標としていますが、覚えることそのものは決して重要なことではないのです。記憶力を高めることや記憶量を増やすことは、暗唱の副産物にすぎません。
世間には、暗記や暗唱というものを、役立つ知識や文化的な伝統に結びつける傾向があります。例えば、「○○の首都は□□」というような知識を増やすような暗記や、平家物語や枕草子の一部を覚えるような暗唱です。むしろ暗唱を表現語彙として役立てようとするのであれば、自分がこれから書く作文に結びつくような現代文の事実文、説明文、意見文を中心に暗唱していく必要があります。
しかし、こういうことよりも、暗唱の真の目的は、反復練習によって物事を把握する力をつけることだと思います。塙保己一が般若心経の約300字を毎日100回ずつ1000日間暗唱し、しかも晩年にいたるまで折に触れて暗唱を続けたということを見てもわかるように、宗教的な面を抜きにすれば、これが決して単なる記憶の練習だったとは考えられません。将来この暗唱の仕組みが脳科学的に解明されるようになると思いますが、当面は暗唱の目的は、記憶よりも理解や思考の方にあると考えておくことが大事です。事実、大人の人が暗唱を始めると、記憶力がよくなるということよりも、発想が豊かになるという感覚を持つことが多いと思います。
ただし、どの学習にもバランスは必要です。言語と経験の間にもバランスというものがあります。ルソーは、子供時代に本を読みすぎて自分が言語先行型の人間になったことの反省から、自然教育の「エミール」を書きました。体験が伴わない時期に言語を吸収しすぎると、やはりバランスが崩れる場合があります。もちろん体験ばかり広がって言語が伴わない生活はあまり人間的とは言えませんが、言語が経験よりも大きくなることもやはり人間的な成長とは言えません。
言葉の森の暗唱の自習は1日10分ですから、このようなアンバランスを生み出す心配はありませんが、日常生活の心がけとして、言語的な学習と並行して家の仕事の手伝いなどの経験の時間を増やしていくことは大事なことだと思います。
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「12歳までに『絶対学力』を育てる学習法」という本があります。本の内容は、基本的に賛同できます。例えば、高速計算のような単純な作業ではなく考える勉強を、テレビのニュースはできるだけ見ない、絵をかいてイメージで考える、などです。
しかし、音読や暗唱も、高速単純計算と同じ扱いで書かれていたので、この本の内容について一言説明を書いておきたいと思います。
まず第一に、高速計算の批判の対象となっている公文式や百ます計算についてです。
公文式や百ます計算などの勉強法は、歴史的な意味があって登場しました。それは、理解教育(個性教育)の行き過ぎに対する反省です。理解教育の偏重によって基礎となる技能が習得できてない子供たちに対して、習熟教育(模倣教育)を提案したという意義が公文式や百ます計算などの教育にはあります。しかし、それがその後、行き過ぎてきたのです。
ところが、習熟教育を否定して理解教育を優先するだけでは、また同じような過去の歴史に戻るおそれがあります。
習熟と理解を対立させるのではなく、理解のための習熟という考えをしていく必要があります。
インド式九九なども習熟教育です。しかし、インド人に数学の得意な人が多いというのは多くの人の認めるところです。それは、インドの長い伝統の中で、習熟が自己目的化しない形で教育が行われているからです。
もし、インド式九九という習熟教育が自己目的化すると、例えば次のような競争になるでしょう。「うちは、20×20までの九九ができる」「それならこっちは30×30だ」「こちらは10分で九九が言える」「では、うちは5分で言ってみせる」など。
このような競争の仕方が、習熟自体の自己目的化です。高速教育は、高速が目的化しがちですが、それは伝統が浅いからです。これからは節度のある習熟教育が理解教育と共存するようになると思います。
第二に、一律反復の教育ではなく、個別理解の教育の重要性ということを著者は述べています。しかし、この発想は、先生の力量に左右される教育で能率が悪くなる面があるのです。
個別理解教育は、人のコストがかかります。それに対して一律反復の教育は教材のコストがかかるだけなので、能率を上げる工夫をすることができます。
能率が悪い個別理解教育は、一斉指導になりやすいという矛盾を抱えています。つまり、学年別、能力別のクラス編成にして一斉に教えるような形でないと、多くの生徒を個別理解教育で教えることができないのです。それがこれまでの学校の一斉指導でした。この一斉指導に限界があったために、教材で個別化を図るという一律反復の教育が出ててきたのです。
江戸時代の寺子屋教育も、一律反復の教育という形を取っていました。だから、世界でも類を見ないほど教育を普及させることができました。
今後求められるのは、一律反復の教育を土台にした個別理解教育という、両方の教育の長所を統合する発想です。それが言葉の森の指導だとまでは、まだ言いませんが。(^^ゞ
第三に、著者は、スポーツや音楽では反復は大事だが、勉強では反復は思考力を損なうと述べています。
しかし、これに対して、言葉の森では、言語に関する技能はスポーツや音楽と同じだといつも述べています。言語、つまり語彙や文章を身につけることが、自分で考えるための材料になり土台になります。そのために必要な一つの方法が反復です。
反復教育が問題になるのは、バラバラになった死んだ知識や語彙を蓄積することが目的になってしまう場合です。例えば、作者名と作品名をつなげるような知識、漢字の書き取りの知識、ことわざの知識など、要するにクイズ的な知識というものは、そのためにわざわざ長い時間を割けて覚えるようなものではありません。
これらの知識をバラバラの知識ではなく、文章の文脈の中で理解するというのが大事です。例えば、漢字の場合でも、文章の中で漢字を書いたり読んだりする、ことわざでも文章の中でことわざを読んだり書いたりする、という勉強の仕方が大事なのです。しかし、文章が大事だといっても、それを読んで理解するだけでは勉強の内容として不十分です。そこで言葉の森では文章を自分の血や肉として身につける暗唱の指導を取り入れるようにしているのです
第四に、言葉で考えるのではなくイメージで考える、ということ著者は述べています。しかし、こういう考え方自体が言葉でなければ考えにくいように、物事が高度になると、イメージよりも言葉の重要性が増してきます。
犬や猫もある意味でイメージで考えています。イメージで考えるのが効果的なのは、考える対象が具象的な時期の間です。例えば、算数の文章題で、「ドングリの数の2倍のクリがあり、クリよりも3つ少ないリンゴがありました」などという文章のときはいいのです。作文で言えば、「今日の朝ご飯」というような生活作文は絵になります。絵をかけばそれがそのまま文章になる時期の作文としてはこれで十分なのですが、小学校高学年からの考える作文になったときには、絵にはかけない話が増えてきます。ここでやはり言葉の力というものが必要になってくるのです。
(この文章は、構成図をもとにICレコーダーに録音した原稿を音声入力ソフトでテキスト化し編集したものです)
著書の糸山氏より、この記事に対する反論をいただきましたので、併せてご紹介します。
2009/11/4
http://homepage.mac.com/donguriclub/kotobanomori.html
貴重なご意見ありがとうございました。
その後、言葉の森とどんぐり倶楽部の勉強法の比較について読者の方からご質問をいただきましたので追加します。
2010/1/19
上記の紹介ページに書かれている批判は、論点があまり整理されていないように思いました。
ですから、ここでは特に返事を書かず、言葉の森のホームページで「反復教育と理解教育」についての記事を追加しました。
https://www.mori7.com/index.php?e=742
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参照ページをありがとうございました。
こちらで誤解しているところがあるかもしれませんので、あとでよく読んでお返事を書かせていただきます。
あとでお返事をと思っていましたが、上記の参照ページの批判内容があまり整理されていないので、そのままにしました。(^^ゞ
いずれ機会を見て「反復教育と理解教育」について書いておきたいと思います。
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小学校の高学年で、「ことわざの引用」という項目があります。
小学生のころは、ことわざを引用することによって感想が深まる面がありますが、高校生ぐらいになると、ことわざの引用はかえってありきたりの表現になってしまうことがあります。
そこで、練習するのがことわざの加工です。
これは、多くの人によく知られていることわざを、別の場面にあてはめたり別の表現に言い換えたりして発展させる使い方です。
例えば、「瓜のつるになすびはならぬ」ということわざは多くの人に知られているので、それを利用して、「瓜のつるになすびがなることもある」などと書きます。これは、不可能に見えたことも技術革新などによって可能になるなどという話のときに使えます。バイオテクノロジーの話題などで出てきそうです。
「サルも木から落ちる」であれば、「木から落ちるサルはめったにいない」などと言い換えます。自分のよく慣れたことはめったに失敗しないものです。
「ブタもおだてりゃ木に登る」であれば、「どんなにおだてても、ブタは木には登れない」です。能力を超えたことは、やはりできません。
西堀栄三郎さんの著書のタイトルは、「石橋を叩けば渡れない」でした。
ことわざは、世の中の真実を鋭くついた言葉ですから、それだけに正反対の言葉も真実になるのです。
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子「どうして、暗唱(あんしょう)するの」
母「あーん、しょれはね」
^_^「……」
自分(じぶん)の音読(おんどく)した声(こえ)が耳(みみ)に入ると、
脳(のう)が、「これはのどと耳の両方(りょうほう)から来ているから大事(だいじ)な言葉(ことば)だ」と思う。
だから自分の言っていないことは、右から左に抜(ぬ)けることも多い。
母「勉強(べんきょう)してるの?」
同じ言葉をくりかえしていると、言葉がイメージとなって脳の金庫(きんこ)に保管(ほかん)される。
しかも、イメージは、いくらつめこんでも大丈夫(だいじょうぶ)。
「パクパク」
母「そして、脳(のう)が丈夫(じょうぶ)になるのよ」
子「そうなのう」
江戸時代の寺子屋教育の基本は暗唱
寺子屋教育の基本は、百字の文章を百回読むことでした。この勉強法によって日本は当時世界一の識字率を達成していました。
(江戸時代の日本の識字率70~80%、同時代のヨーロッパの先進国の識字率20~30%)
ノーベル賞の湯川秀樹も小1から暗唱
湯川秀樹と3人の兄弟は、それぞれ5、6歳から四書五経の素読をさせられました。そして、全員が学者になりました。
そのときの勉強法は、論語を漢字のまま意味もわからないまま音読し暗唱するという方法でした。
(芳樹(兄、冶金学者、東大教授)、茂樹(兄、歴史学者、京大教授)、環樹(弟、中国文学者、京大名誉教授))
暗唱を生かした著名人
暗唱を自分の実際の勉強に生かした著名人には次のような人がいます。
□貝原益軒(1630-1714)……81歳のときに著した「和俗童子訓」で四書五経を毎日百字百回暗唱するという勉強法を提唱しました。益軒の影響は日本全国々に及び、江戸時代の日本の教育の大きな方向を決定しました。暗唱は子供だけでなく、大人にとっても価値があると述べています。
□塙保己一(1746-1821)……盲目でありながら当時日本全国に散らばっていた600冊以上の学術書を編纂するという偉業を成し遂げました。その伝記は、ヘレン・ケラーにも大きな影響を与えました。18歳のとき般若心経を1000日間暗唱するという誓いを立て、晩年まで折に触れて暗唱をしていました。
□シュリーマン(1822-1890)……独学で十ヶ国語以上をマスターしトロイアの都を発掘しました。そのときの勉強法が、外国語を辞書にも文法書にも頼らず大声で音読し暗唱するという方法でした。生まれつき弱かった記憶力が、この勉強法で改善したと述べています。
□本多静六(1866-1952)……林学博士。暗唱の勉強法で東京農林学校(今の東大農学部)を首席で卒業しミュンヘン大学経済学博士号を取得しました。大学1年生のとき数学で赤点を取りましたが、一念発起し数学も丸ごと暗唱するという方法で学年トップになりました。子供時代、家の仕事を手伝いながら文章を暗唱するという勉強法をしていました。大学には作文の点数がよくて合格できたと述べています。
□野口悠紀雄(1940-)……経済学者。自身の中学高校時代の経験から英語の勉強法として音読暗唱を提唱しています。高校時代、英語は教科書をただ音読するだけで好成績を維持し東大工学部に合格しました。しかし、そのように単純な方法なのに実践する人が少ないと述べています。
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