作文に書かれている内容の価値を評価しようとすると、評価は主観的になります。
一つには、内容は出来事の偶然性に左右されるからです。もう一つは、価値は見る人の力量や主観によって左右されるからです。
そこで、言葉の森では、客観的な評価を中心にして指導しています。具体的には、項目指導で、字数や表現や実例や感想を指示して書くという形です。項目指導では作文を書く方向がわかるので、どんな子でもすぐに書き出せるという効果があります。また、本人の努力がそのまま評価されるというのも利点です。
しかし、項目がすべてできたからといって、自動的に価値ある作文が生まれるわけではありません。あらゆる人間的な活動がそうであるように、技術を超えた世界というものが必ずあります。その技術の先にある世界に到達する方法は、意識を向けることです。
よりよいものを書きたいという人間の意識が、内容の価値を作り出します。この意識を育てるものもやはり、よりよいものを評価しようとする人間の意識です。これが心の教育という言葉の意味です。
もちろん、技術の教育の裏づけがなければ、心の教育はひとりよがりのものになってしまうでしょう。しかし、技術の教育だけでは、よりレベルの高い教育には進みません。
これからの指導の重点は、よりよいもの、価値あるもの、面白いものを書こうとする意識を育てていくことです。それは、個性を評価する教育、発表する教育につながっていくと思います。
(この文章は、構成図をもとにICレコーダーに録音した原稿を音声入力ソフトでテキスト化し編集したものです)
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よりよいものを書こうとする気持ちはどうしたら育つのでしょうか?
「作文を書いたら遊んでいいよ。」というと
遊びに行くのに気持ちが逸って、項目や字数をクリアすることだけに意識がいってしまうようです。そのようなやり方でも技術は身につくのでしょうけれど。
いい文章に出会って、その美しさを感じて、何回も暗唱するような経験がよりよいものを志向する気持ちを育てるのかなと親の経験からは思います。そう考えると子供の気持ちが乗らないときは無理強いしないで、文章以外の自然のものや、プラモデルや、絵などでも、美しさを感じる体験をすればそれでいいかなと思ったり、悩むところです。
一つは褒め言葉で、もう一つは継続です。
嫌がっていても無理にでも続けさせて、その一方で褒めるということを繰り返していると、やがて続けることが苦にならなくなってきます。
これは、作文も読書も同じです。
褒めるという方法だけでは不十分で、物事の始まりは必ず無理にでもがんばって続けさせるということが必要になります。
本当は、お父さんとお母さんが役割分担をして、一人ががんばって続けさせる役割、もう一人がひたすら褒める役割と分けられるとやりやすいと思います。
しかし、ほとんどの家庭は、どちらか一方(主に母親)が子供の教育を担当しているでしょうから、厳しくやらせつつ褒めるという両方の仕事をしていく必要があります。
褒めるだけでは、よいものを書こうとする気持ちは生まれません。ある程度無理矢理にでも継続させるということがあって、それで初めて褒めることが生きてくると思います。
なるほど。スポーツなどにも通じますね。やってみます。
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暗唱の自習は、確実に成果があります。覚える力がつくだけでなく、読解力、作文力がつきます。しかも、音読の自習に比べて、暗唱の自習は達成感があります。
今回の暗唱用紙を使った900字の暗唱は誰でも簡単にできる方法です。ポイントは、覚えようとするのではなく、指定の回数だけ早口で音読することです。
しかし、このやりやすい形でも、なかなか自習の時間がとれない人もいると思います。勉強を進めるうえで、いちばんよくないのは、できそうもないことを指導して、結局できないという結果を残すことです。
そこで、暗唱の自習は、オプション方式にすることにしました。暗唱オプションを選択した生徒には、11.4週から12.4週の暗唱の説明とチェックをします。また、1月からの暗唱の自習も指導します。
暗唱オプションを選択しない生徒には、次の週の課題を事前に準備しておくということだけに指導内容をとどめます。そのかわり、事前の準備は徹底してもらいます。
このオプションは、学期の途中で変更することもできます。また、オプションの有無による料金の差などはもちろんありません。
通学コースの生徒は、教室で10分程度のカバーが徹底できるので、受験生以外は全員必修とします。
11.4週に「暗唱の手引」の説明をする予定ですが、あらかじめ暗唱の自習ができないとわかっている場合は、その旨を先生にご連絡ください。
なお、オプション方式は、今後読書指導を日記指導等にも広げていく予定です。
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音声入力をしていて気がつくことがあります。構成図の段階では一応書く内容があるように見えることでも、心の中で、はっきりと納得できていないことは、やはり書くのに時間がかかります。考える力がないと、作文を書くことはできません。書くという力だけが独立してあるのではなく、考える力を表現するものとして書く力があるという仕組みになっているのです。
それでは、考える力とは、何なのでしょうか。
第一は、考える方法です。これは文章を書いたり図を書いたりすることによって、自分の考えを外化していくことです。構成図で考えるというのも、この考える方法の一つです。
第二は、考える内容です。内容とは知識のことですが、単に知っているとか理解できているという知識ではなく、自分の手足のように自由に使える知識です。
第三は、創造力です。作文小論文の入試では、受験する生徒の学年には難しすぎるような課題がよく出されます。しかし、実力のある子は、わからないながらも何とか書き上げてきます。
手持ちの知識が不足していても、その限られた材料と自分の想像力だけを頼りにまとめ上げる力というのは、子供のころの創造的な遊びによって築かれる能力です。
例えば、ただの木の切れ端を集めて自動車を作ったりお城作ったりして遊んだ子供は、お仕着せの組み立て玩具で遊んだ子よりも、創造性が発達するでしょう。スポーツでも、ルールのはっきりした競技よりも、○○ごっこのような自由度の高い遊びの方が創造性は発達します。可塑性のある遊びをどれだけしたかということが、その子の創造性の度合いを決めます。
作文というのは、考える楽しさを創造的に味わうような勉強です。それは、与えられた答えを見つける勉強とは違って、創造力を発達させるような勉強になる可能性を持っています。
しかし、どの作文もそうかといえばそうではありません。ただ朝起きて夜寝るまでの作文を書いても、創造力はあまり必要とはされません。
未知のものを埋める努力を要するような作文で、その努力が楽しくできるような作文が、創造力を育てる作文になるのです。
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言葉の森の通学教室では、しばらく前から付箋読書で本を読んで四行詩の感想書く練習をしていました。そして、せっかく書いた感想が蓄積されるように、読書ノートを各自に用意してもらうことにしました。
そのノートを読書ノートだけで終わらせるのではなく、今後、読書日記に発展させて行こうと考えています。やり方は、毎日、読んだ本の感想を四行詩で書いていくという形です。本の感想以外に日記のようなものでもよいとします。目的は、毎日文章を書いて書きなれることと、毎日ものを考えて考えなれることです
また、図書の貸出とは別に、入試問題集を40ページほどの小冊子にして問題集読書の貸出も始めようと考えています。問題集の問題文は、実力のある子には、かなり面白く読めるエッセイ集のようなものになるからです。
暗唱の自習だけだと、わずか10分で終わってしまうので、かえって勉強が中途半端になる面があります。暗唱のほかに、読書や日記と組み合わせて、20分から30分の時間が確保できれば、かえってやりやすい勉強になるのではないかと思っています。
しかし同時に、現代の子供たちは、このような形でいろいろな宿題を重ねているのだろうということも考えました。学校からは、各教科ごとに宿題が出され、塾からもまたいろいろな先生から宿題が出されます。これらの宿題をまともにやっていたのでは、時間が足りなくなるということもあります。
そこで、家庭の努力として大事なことは、大量の様々な宿題に抗して読書と対話の時間をしっかり確保することです。
言葉の森の暗唱と家庭での読書と対話が家庭学習の中心になっていれば、それだけで学力は十分に確保できると思います。
(この文章は、構成図をもとにICレコーダーに録音した原稿を音声入力ソフトでテキスト化し編集したものです)
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言葉の森の通学教室にペット犬のユメがいます。(ミニチュアシュナウザー メス4月10日生まれ)
トイレのしつけがやっとできるようになったので、これからお仕事開始です。
どういう仕事をするかというと、まず暗唱チェックです。子供たちが暗唱するのを聞いていて、上手に読めたら右手でお手をして、もう一息だったら首をかしげます。もう一つは、先生の手伝いです。先生が、「作文用紙を持ってきて」などと言うと、急いで取りにいきます。あと一つは、元気の出ない子を励ますことです。作文がなかなか書けない子の近くによって足をぺろぺろなめます。
以上の訓練をこれからやっていきます。できるかなあ。
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△教室のペット犬、名犬ユメ(7ヶ月)
国語はいろいろな教科の一つとして考えられています。しかし本当は、国語はOS(オペレーティングシステム)のようなものです。このOSの土台の上に、様々なアプリケーションソフトとしての各教科があるという構造です。
別の言い方で言えば、国語の本質は哲学です。哲学といっても、専門家が研究する哲学のような狭い意味の学問ではなく、ものの見方、感じ方、考え方の骨格を育てる学問としての哲学です。
世間では、国語の勉強のこのような本質が誤解されているために、国語の勉強の目指すところがはっきりしていません。例えば、読解の勉強について言うと、物語文、説明文、意見文などの先に古文や漢文があるようなカリキュラムが組まれていることがあります。また、作文について言うと、やはり物語文、説明文、意見文の先にビジネスで使う文書などが位置づけられていることがあります。そうではなく、考える学問としての国語という原点をはっきりさせておく必要があります。
学校で学ぶ教科の精選も、国語というOSを育てることを中心に行う必要があります。今の時代に役立つアプリケーションソフトは何かという視点で考えると、例えば金融の知識は役立つが漢文の知識は役立たないというような考えが出てきます。そうではなく、考えるための学力を育てる教育として何を優先させるのかということを考えていく必要があるのです。
国語は、学問のOSとしての性格上、勉強の時間によってあまり差がつかないという特徴を持っています。国語の実力は、勉強の度合いよりも知的生活の度合いに比例しています。これに対して、英語や数学は勉強の度合いに比例しているので、点数の差が大きくなりやすいという特徴を持っています。このために、テストの中で利用しやすい教科として英語や数学のウェイトが高まっています。
しかし、本当の学力の差は、国語力の差として表れます。その国語の実力を育てる方法を一言で言えば、難読と復読です。
(この文章は、構成図をもとにICレコーダーに録音した原稿を音声入力ソフトでテキスト化し編集したものです)
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△11月3日文化の日の朝
未来の世界における日本の役割を考えると、次のようなことがわかります。第一に、軍事力ではアメリカがトップの位置を占め続けるでしょう。第二に、経済力では、工業生産の分野での覇権は次第に中国やインドに移行するでしょう。また、金融の分野では、欧米に一日の長があるという状態が今後も続くでしょう。
このような中で日本が優位に立てる分野は、知力、技術力、精神力など文化力といわれるもので、この文化力が政治力や経済力に波及する未来というものを考えることができます。
日本文化のすぐれている点としてよく取り上げられるものに次のようなものがあります。江戸時代の識字率は当時の世界の最高水準の70-80%を達成していました。戦後、世界でもまれな一億総中流化という経済文化状況が生まれました。現在、格差は拡大したと言われながら大衆の知的水準の高さは世界の中でも際立っています。それは例えば、ごみ収集の方法の徹底などというところに表れています。また、世界の先進国の中で最も治安がよいというのも日本の長所としてよく言われるところです。一言で言えば、すぐれた庶民、一般大衆がいるというのが日本文化の特徴なのです。
この原因は、実は日本語にあります。よく言われる例ですが、日本語の特徴として左脳で自然の音を聞くということが挙げられます。このため日本語では擬声語や擬態語が発達し、自然を人間化して見るという見方が生まれました。この自然の人間化が、自然との一体感や自然を大切にする気持ちを生み出したと考えられます。
しかしそれ以上に大事なのが、漢字とかなが混在している日本語という特徴です。漢字が表意文字で主に絵として描けるような名詞を表すのに対し、かなは表音文字で主に動きや関係を示す助詞や助動詞を表すという役割分担が日本語では自然に行われています。
このことは一方では、日本語の複雑さの大きな要因になっています。一つの言葉に音読みと訓読みの両方があり、その音読みと訓読みにもまた多様な読み方があります。例えば「下」という一つの文字でも、「か」「げ」「した」「しも」「さ(がる)」など多くの読み方があります。しかし、他方では、この漢字かな混じりで多様な音読み訓読みという性格が、あとに述べるように日本語のすぐれた特徴にもなっているのです。
世界中のほとんどの言語は、英語に代表されるような表音文字の言語です。表音文字では、言葉が意味を示さないので、視覚の助けを借りて一目で理解するというようなことが得意ではありません。そのため、表音文字では論理の展開で物事を理解するという方法が主流になりました。
欧米流の三段論法では、A→BでB→CならばA→Cである、という理解の仕方をします。しかし、視覚の助けを借りられる表意文字の日本語では、A即Cというような見方を一瞬ですることができます。
「武士道とは死ぬことと見つけたり」(葉隠)というような言い方は、日本人ならば、その意見に対する同意不同意を別にすればそのまま理解することができます。しかし、表音文字の欧米人は、その意見に対して「WHY」という質問をするでしょう。
デカルトは、「我思う故に我あり」と言いました。葉隠の著者は、「武士道とは」に「WHY」と聞かれても途方に暮れるでしょう。「見つけたり」と言っているものに「WHY」と聞かれても答えようがないからです。しかし、デカルトは、「我思う」に「WHY」と聞かれれば、その理由をこと細かに説明したはずです。その説明が「方法序説」という著書でもあったのです。
物事を論理の展開を通してでなければ理解できない表音文字に対して、表意文字は物事を視覚的、空間的に一目で理解するという長所を持っています。これが、日本人が、理解力の点で欧米人よりもすぐれていたという一つの背景になっていたのです。
更に、世界の他の言語に比べて音素数が少ない日本語は同音異義語が多く、耳で話を聞いているときでも常に視覚的に言葉を思い浮かべなければなりません。それが日本人の視覚的発想の訓練にもなりました。言葉そのものではなく、思いやりや察し合いという文脈の中で言葉を理解することが得意なのも、この日本語の特徴によるものだと考えられます。
では、表意文字の本家である中国語はどうなのでしょうか。中国語は、全部が漢字なので、かなのような表音文字のある日本語に比べて漢字を操作しにくいという面があります。日本語では、助詞や助動詞のかながニュアンスの違いを表します。「国破れて山河あり」は、中国語では「国破山河在」です。これをもっと日本語的に言うならば、「国は破れてしまって山河がある」と詠嘆調に言うこともできますし、「国が破れても山河はある」と意志的に言うこともできます。日本語が、かなという水の上に漢字というタイルを浮かべているような水性の言語だとすると、中国語は、漢字のタイルがびっしりと敷き詰められた土性の言語だと言うことができます。このため、中国語はタイルを操作することが難しく、自由な発想を広げることが日本語に比べて行いにくいのです。このことは、中国語でダジャレというものがあまりないというところにも表れています。日本語は、全部が表意文字の中国語語に比べると、想像力に富んでいるということが特徴になっているのです。
日本語は、すべてが表意文字の欧米語に比べると理解力の点ですぐれていて、すべて表意文字の中国語に比べると想像力の点ですぐれている。これがこれまでだれも指摘しなかった日本語の秘密です。
理解力と想像力ですぐれているという日本語の特徴は、逆に言えば、漢字かなまじり文という複雑さと裏腹の関係にあります。漢字かなまじりの複雑さをわかりやすく整理して、日本語を世界の人にとって学びやすい言語にすれば、それは、世界の文化にとって大きな朗報となるに違いありません。
(この文章は、構成図をもとにICレコーダーに録音した原稿を音声入力ソフトでテキスト化し編集したものです)
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言葉の森の通学の小学校5年生以上の生徒は、もう何年も前からほぼ全員がパソコンで作文を書いています。また、通信でも、かなりの生徒がパソコンで作文を書くようになりました。
しかし、次に来るのは、新しい手書きの時代だと思います。それはなぜでしょうか。最大の理由は、手書きの方が、文章と人間が一体化しているからです。書く内容が高度で微妙になるほど、その差ははっきりしてきます。
パソコン入力の一番の問題点は、変換する必要があることです。それが、道具と人間の間に隙間を生み出します。理想の道具は、身体と一体化したものでなければなりません。
もう一つの理由は、パソコン入力は1次元が中心になっていることです。それに対して手書きは2次元です。つまり、構成図を書くような図形的な書き方も手書きであればそのまま対応できます。
第三の理由は、手書きは、アナログ的なところに個性が出せるということです。
確かに、文章には、読む人を意識した読みやすさという要素もあります。パソコン入力の最大の利点は、デジタル化されたテキストという普遍性を持っているということです。この普遍性の故に、編集が可能になり、他人との共有が可能になり、検索が可能になっています。
では、将来手書きはどういう方向に進んでいくのでしょうか。一つは草書のような速書きの方向です。もう一つは、OCR化しやすい文字の書き方という方向です。
未来のOCRは文脈解析能力を持つので、手書きの草書体の文字もすぐに活字化されるというようになっていくと思われます。
(この文章は、構成図をもとにICレコーダーに録音した原稿を音声入力ソフトでテキスト化し編集したものです)
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