10月の森リン大賞は、それぞれの学年で100人ぐらいの生徒のうち、約10分の1の10名をベストテンとし、「題名」「名前(ペンネーム)」などを掲載しています。
また、そのベストテンの10名の中で3~8名の生徒は「作文」も掲載しています(スペースの関係で低学年は多く、高学年は少なくなっています)。
ベストテンの基準は、森リンの総合得点ですが、総合得点が同じ場合は表現点の高い方が上位になります。表現点も同じ場合は、表示されていない小数点以下の表現点の差で上位が決まります。
表現点を上げるコツは豊富な語彙を使うことで、作文中に同じ語彙が何度も出てくる場合は語彙を多様に変化させると点数が高くなります。
例えば、「くたびれた」という言葉が何度も出てくる場合は、「疲れた」「足が重くなった」「体力を使い果たした」などいろいろに変化させると点数が高くなります。しかし、その高くなる割合はほんのわずかです。
点数を上げる主なコツは、
1、学年の200倍以上の字数を目標にする(小4なら800字。小6以上は1200字)
2、漢字で書けるものは漢字で書く(ただし漢字が不自然に多すぎると点数が低くなります)
3、語彙の種類を多くする
などです。
今回の森リン大賞はベストテンの表示だけでしたが、こういう形だとベストテンに載らなかった子はせっかく書いたものが表示されないので張り合いがないと思います。
今後は、ベストテンのようなものだけでなく、自分が過去3ヶ月でどういうふうな得点と作品だったかというようなことがわかるものも載せていきたいと思います。
「山のたより」には、同学年のベストテンしか掲載していませんが、下記のページには全学年のベストテンが掲載されています。
https://www.mori7.net/oka/moririn_seisyo.php
なお、今回の森リン大賞のうちの最高点は、中2のハーマイオニーさんの91点でした。
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勝ち負けより大切なこと
ハーマイオニー
先日、私の学校で体育祭が開催され、わが白組は、見事優勝した。私は、別に何も勝利に貢献していないが(笑)、応援には燃え、優勝が決まった瞬間には、文字通り狂喜乱舞した。考えてみれば、白組で実際に活躍した人のほとんどは、私の直接の友人でもなければ知り合いですらない。ただ、自分と同じ白い鉢巻を巻いていた人たちである。それだけで、その人たちが得点競技で上位に入ると自分の手柄のように、もしかしたら、それ以上に喜んだ。自分と同様に応援している人が自分の隣りにもその隣りにもいる。そうすると、そのパワーは何倍というより何乗にも増強されるようだった。
スポーツには、勝ち負けが付きものだ。勝ち負けに執着するからこそ、競技者も、また応援する人も熱狂する。スポーツは勝ち負けがあるからこそ面白いと言える。少し前の話だが、ワールドベースボールクラッシックの感動と興奮は忘れられない。どの試合も、どの選手のプレーも皆素晴らしかったが、それはしかし、優勝という結果があったからこそ、そう思えるのだとも言えるのではないか。言うまでもないが、WBCの選手たちも、私の友達や親戚ではない。侍ジャパンをあれほど必死に応援していたのは、彼らが私と同じ日本人だからである。白組だから応援したのと同じ感覚だ。それが拡大したものが国対国の戦いに熱狂する気持ちなのだろう。まさに「戦争の代用品としてのスポーツ」の意義が納得できる。
イソップの昔話にコウモリの話がある。獣たちの前では自分は獣だと言い、鳥たちの前では自分は鳥だと言う。処世術としてはありかもしれないが、そのような立場では、この喜びは味わえないであろう。要するに、所属の意識がポイントなのである。
しかし、勝敗にこだわらず、技術の向上や体力の増進など、スポーツをすることそのものを楽しむという考え方もある。私は、運動部に入っているわけでもなく、スポーツをするのは、もっぱら体育の時間か趣味のダンス系の運動だ。身体を動かすこと自体が楽しい、気持ちいい、という感覚と、人と競うわけでなく美しく踊りたいという気持ちだ。前述した体育祭では、私は、この学校での中二伝統の『メイポール』に力を入れていた。練習ではなかなかうまくいかず、途方に暮れたこともあった。本番一週間くらい前になって、やっと成功するようになり、本番では、途中危ない場面もあったが、中二全員、12本全てのポールが倒れることなく美しく編みあげられた。終わったときは、先輩方も歓声を上げてくれた。採点競技ではないということもあるが、皆が一丸となってやり遂げた達成感と充実感は、快い疲労感を残してくれた。誰も彼もと仲良く肩を組みたいような気分だった。
確かに、勝ち負けにこだわることには良い面も悪い面もある。しかし、大事なことは勝ち負けがよいか悪いかを決めることではない。「ライオンは、一匹のウサギを倒すためにも、全力を尽くす」という言葉がある。最も大切なことは、堂々と相手にぶつかり、または自分にぶつかり、持てる力を出し切ることではないだろうか。勝ち負けは結果だ。結果は大事にちがいないが、それよりも、そのために何をどのようになし得たのかが重要なのだ。そして、その中で自分が向上し、また次の勝負に向かっていければよいと思う。
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言葉の森は、作文小論文指導が出発点です。他の国語関係の教室では、作文指導は最終到達点のようなものになっていると思います。
言葉の森では、最初から作文(特に大学3、4年生に対する作文)を教えていましたが、その土台となる、漢字力、読解力、国語力などは、基本的に学校で済ませているものと見なしていました。国語力の土台は、学校、家庭、又は独学で十分だと考えていたからです。
しかし、小中学生の生徒の中には、国語力の土台を求めるニーズもかなりありました。また、実際に子供たちに作文を教えていると、読む力の土台ができていて初めて作文力が伸びるということも分かってきました。
そこで現在、作文指導のほかに、音読、暗唱、付箋読書、問題集読書、漢字書き取りなどのオプション教材を開発しています。これらの国語力の土台を今後強化していくと、それは作文にとどまらず、日本語教育ということになってきます。
すでに中国や韓国の人から、言葉の森で日本語を受講したいという問い合わせが何件も来ています。しかし、言葉の森の教材は日本語が母語でないと勉強は難しいとしてそのつどお断りしてきました。
一方、韓国や中国以外に、オーストラリアやニュージーランドでも、近年日本語学習熱が盛んになっています。なぜ外国の人が日本語を学ぶ学びたいかというと、日本にそれだけの文化的発信力があるからです。例えば、アニメの文化、ブログの情報、出版物の情報などです。また、日本の科学技術力や経済力も、日本文化の魅力となっています。
更に最近わかってきたことですが、日本語における表意文字と表音文字の混在が理解力と創造力を高める言語的OSになっているのではないかということがあります。日本では、幼児期に英語のRとLの区別をする力をつけるための英語教育が行われているところがあります。同じように、世界の各地で今後、頭をよくするための言語的OSとして、子供のころから日本語を学ばせるという動きが出てくることも考えられます。
このように考えると、世界にわかりやすく日本語を広めることが日本語教育のこれからの役割の一つになるのではないかと思いました。
言葉の森は現在日本で作文教室を運営していますが、将来は世界で日本語作文教室を広めるような展望を考えています。
春と夏は日本で勉強をして、秋と冬は暖かいオーストラリアで勉強する、というようなことができれば個人的には理想です。なんだか渡り鳥みたいですが。
(この文章は、構成図をもとにICレコーダーに録音した原稿を音声入力ソフトでテキスト化し編集したものです)