船井幸雄氏は、「超プロ」になるための条件として、経験数の多さを挙げています。船井氏は、40年間5万件を超える経営コンサルティングを行うことで、一目見ればその会社をどうしたらよいかがわかるようになったそうです。
波多野誼余夫(はたのぎよお)氏と稲垣佳世子氏は、その著書の中で、やはり物事が得意になるには、3千時間から4千時間の時間をかけることが必要だと述べています。これぐらい時間をかければ、その分野のプロになれるということです。
読書にも似たようなところがあります。ある冊数を超えると、読書が習慣になってきます。
作文も同じです。毎日文章書いていて、書く量がある回数を超えると、書くことが生活の一部になってきます。毎日、日記をつけるような人は、このような習慣になっているのです。
文章の力をつけるためには、月に1回じっくり作文を書いて提出するというような勉強法だけではなく、毎日何かを書いていくというような勉強法が必要です。
そこで今考えているのは日記指導です。読書ノート使って読書日記という形で進めていくことを考えています。
(この文章は、構成図をもとにICレコーダーに録音した原稿を音声入力ソフトでテキスト化し編集したものです)
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10月の森リン大賞は、それぞれの学年で100人ぐらいの生徒のうち、約10分の1の10名をベストテンとし、「題名」「名前(ペンネーム)」などを掲載しています。
また、そのベストテンの10名の中で3~8名の生徒は「作文」も掲載しています(スペースの関係で低学年は多く、高学年は少なくなっています)。
ベストテンの基準は、森リンの総合得点ですが、総合得点が同じ場合は表現点の高い方が上位になります。表現点も同じ場合は、表示されていない小数点以下の表現点の差で上位が決まります。
表現点を上げるコツは豊富な語彙を使うことで、作文中に同じ語彙が何度も出てくる場合は語彙を多様に変化させると点数が高くなります。
例えば、「くたびれた」という言葉が何度も出てくる場合は、「疲れた」「足が重くなった」「体力を使い果たした」などいろいろに変化させると点数が高くなります。しかし、その高くなる割合はほんのわずかです。
点数を上げる主なコツは、
1、学年の200倍以上の字数を目標にする(小4なら800字。小6以上は1200字)
2、漢字で書けるものは漢字で書く(ただし漢字が不自然に多すぎると点数が低くなります)
3、語彙の種類を多くする
などです。
今回の森リン大賞はベストテンの表示だけでしたが、こういう形だとベストテンに載らなかった子はせっかく書いたものが表示されないので張り合いがないと思います。
今後は、ベストテンのようなものだけでなく、自分が過去3ヶ月でどういうふうな得点と作品だったかというようなことがわかるものも載せていきたいと思います。
「山のたより」には、同学年のベストテンしか掲載していませんが、下記のページには全学年のベストテンが掲載されています。
https://www.mori7.com/oka/moririn_seisyo.php
なお、今回の森リン大賞のうちの最高点は、中2のハーマイオニーさんの91点でした。
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勝ち負けより大切なこと
ハーマイオニー
先日、私の学校で体育祭が開催され、わが白組は、見事優勝した。私は、別に何も勝利に貢献していないが(笑)、応援には燃え、優勝が決まった瞬間には、文字通り狂喜乱舞した。考えてみれば、白組で実際に活躍した人のほとんどは、私の直接の友人でもなければ知り合いですらない。ただ、自分と同じ白い鉢巻を巻いていた人たちである。それだけで、その人たちが得点競技で上位に入ると自分の手柄のように、もしかしたら、それ以上に喜んだ。自分と同様に応援している人が自分の隣りにもその隣りにもいる。そうすると、そのパワーは何倍というより何乗にも増強されるようだった。
スポーツには、勝ち負けが付きものだ。勝ち負けに執着するからこそ、競技者も、また応援する人も熱狂する。スポーツは勝ち負けがあるからこそ面白いと言える。少し前の話だが、ワールドベースボールクラッシックの感動と興奮は忘れられない。どの試合も、どの選手のプレーも皆素晴らしかったが、それはしかし、優勝という結果があったからこそ、そう思えるのだとも言えるのではないか。言うまでもないが、WBCの選手たちも、私の友達や親戚ではない。侍ジャパンをあれほど必死に応援していたのは、彼らが私と同じ日本人だからである。白組だから応援したのと同じ感覚だ。それが拡大したものが国対国の戦いに熱狂する気持ちなのだろう。まさに「戦争の代用品としてのスポーツ」の意義が納得できる。
イソップの昔話にコウモリの話がある。獣たちの前では自分は獣だと言い、鳥たちの前では自分は鳥だと言う。処世術としてはありかもしれないが、そのような立場では、この喜びは味わえないであろう。要するに、所属の意識がポイントなのである。
しかし、勝敗にこだわらず、技術の向上や体力の増進など、スポーツをすることそのものを楽しむという考え方もある。私は、運動部に入っているわけでもなく、スポーツをするのは、もっぱら体育の時間か趣味のダンス系の運動だ。身体を動かすこと自体が楽しい、気持ちいい、という感覚と、人と競うわけでなく美しく踊りたいという気持ちだ。前述した体育祭では、私は、この学校での中二伝統の『メイポール』に力を入れていた。練習ではなかなかうまくいかず、途方に暮れたこともあった。本番一週間くらい前になって、やっと成功するようになり、本番では、途中危ない場面もあったが、中二全員、12本全てのポールが倒れることなく美しく編みあげられた。終わったときは、先輩方も歓声を上げてくれた。採点競技ではないということもあるが、皆が一丸となってやり遂げた達成感と充実感は、快い疲労感を残してくれた。誰も彼もと仲良く肩を組みたいような気分だった。
確かに、勝ち負けにこだわることには良い面も悪い面もある。しかし、大事なことは勝ち負けがよいか悪いかを決めることではない。「ライオンは、一匹のウサギを倒すためにも、全力を尽くす」という言葉がある。最も大切なことは、堂々と相手にぶつかり、または自分にぶつかり、持てる力を出し切ることではないだろうか。勝ち負けは結果だ。結果は大事にちがいないが、それよりも、そのために何をどのようになし得たのかが重要なのだ。そして、その中で自分が向上し、また次の勝負に向かっていければよいと思う。
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言葉の森は、作文小論文指導が出発点です。他の国語関係の教室では、作文指導は最終到達点のようなものになっていると思います。
言葉の森では、最初から作文(特に大学3、4年生に対する作文)を教えていましたが、その土台となる、漢字力、読解力、国語力などは、基本的に学校で済ませているものと見なしていました。国語力の土台は、学校、家庭、又は独学で十分だと考えていたからです。
しかし、小中学生の生徒の中には、国語力の土台を求めるニーズもかなりありました。また、実際に子供たちに作文を教えていると、読む力の土台ができていて初めて作文力が伸びるということも分かってきました。
そこで現在、作文指導のほかに、音読、暗唱、付箋読書、問題集読書、漢字書き取りなどのオプション教材を開発しています。これらの国語力の土台を今後強化していくと、それは作文にとどまらず、日本語教育ということになってきます。
すでに中国や韓国の人から、言葉の森で日本語を受講したいという問い合わせが何件も来ています。しかし、言葉の森の教材は日本語が母語でないと勉強は難しいとしてそのつどお断りしてきました。
一方、韓国や中国以外に、オーストラリアやニュージーランドでも、近年日本語学習熱が盛んになっています。なぜ外国の人が日本語を学ぶ学びたいかというと、日本にそれだけの文化的発信力があるからです。例えば、アニメの文化、ブログの情報、出版物の情報などです。また、日本の科学技術力や経済力も、日本文化の魅力となっています。
更に最近わかってきたことですが、日本語における表意文字と表音文字の混在が理解力と創造力を高める言語的OSになっているのではないかということがあります。日本では、幼児期に英語のRとLの区別をする力をつけるための英語教育が行われているところがあります。同じように、世界の各地で今後、頭をよくするための言語的OSとして、子供のころから日本語を学ばせるという動きが出てくることも考えられます。
このように考えると、世界にわかりやすく日本語を広めることが日本語教育のこれからの役割の一つになるのではないかと思いました。
言葉の森は現在日本で作文教室を運営していますが、将来は世界で日本語作文教室を広めるような展望を考えています。
春と夏は日本で勉強をして、秋と冬は暖かいオーストラリアで勉強する、というようなことができれば個人的には理想です。なんだか渡り鳥みたいですが。
(この文章は、構成図をもとにICレコーダーに録音した原稿を音声入力ソフトでテキスト化し編集したものです)
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10月の森リン大賞が決まりました。
11.4週の「山のたより」に、自分の学年の森リン大賞の清書作品が載っています。
全学年の分は、下記のページで見ることができます。
https://www.mori7.com/oka/moririn_seisyo.php
この清書作品は、テキストデータとして保存されているので、賞に入った作品の表示ばかりでなく、個人個人の清書の記録のような形で表示することもできます。
小学校低学年の生徒の清書をパソコンで入力していただいたお父さんお母さん方、どうもありがとうございました。
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作文に書かれている内容の価値を評価しようとすると、評価は主観的になります。
一つには、内容は出来事の偶然性に左右されるからです。もう一つは、価値は見る人の力量や主観によって左右されるからです。
そこで、言葉の森では、客観的な評価を中心にして指導しています。具体的には、項目指導で、字数や表現や実例や感想を指示して書くという形です。項目指導では作文を書く方向がわかるので、どんな子でもすぐに書き出せるという効果があります。また、本人の努力がそのまま評価されるというのも利点です。
しかし、項目がすべてできたからといって、自動的に価値ある作文が生まれるわけではありません。あらゆる人間的な活動がそうであるように、技術を超えた世界というものが必ずあります。その技術の先にある世界に到達する方法は、意識を向けることです。
よりよいものを書きたいという人間の意識が、内容の価値を作り出します。この意識を育てるものもやはり、よりよいものを評価しようとする人間の意識です。これが心の教育という言葉の意味です。
もちろん、技術の教育の裏づけがなければ、心の教育はひとりよがりのものになってしまうでしょう。しかし、技術の教育だけでは、よりレベルの高い教育には進みません。
これからの指導の重点は、よりよいもの、価値あるもの、面白いものを書こうとする意識を育てていくことです。それは、個性を評価する教育、発表する教育につながっていくと思います。
(この文章は、構成図をもとにICレコーダーに録音した原稿を音声入力ソフトでテキスト化し編集したものです)
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よりよいものを書こうとする気持ちはどうしたら育つのでしょうか?
「作文を書いたら遊んでいいよ。」というと
遊びに行くのに気持ちが逸って、項目や字数をクリアすることだけに意識がいってしまうようです。そのようなやり方でも技術は身につくのでしょうけれど。
いい文章に出会って、その美しさを感じて、何回も暗唱するような経験がよりよいものを志向する気持ちを育てるのかなと親の経験からは思います。そう考えると子供の気持ちが乗らないときは無理強いしないで、文章以外の自然のものや、プラモデルや、絵などでも、美しさを感じる体験をすればそれでいいかなと思ったり、悩むところです。
一つは褒め言葉で、もう一つは継続です。
嫌がっていても無理にでも続けさせて、その一方で褒めるということを繰り返していると、やがて続けることが苦にならなくなってきます。
これは、作文も読書も同じです。
褒めるという方法だけでは不十分で、物事の始まりは必ず無理にでもがんばって続けさせるということが必要になります。
本当は、お父さんとお母さんが役割分担をして、一人ががんばって続けさせる役割、もう一人がひたすら褒める役割と分けられるとやりやすいと思います。
しかし、ほとんどの家庭は、どちらか一方(主に母親)が子供の教育を担当しているでしょうから、厳しくやらせつつ褒めるという両方の仕事をしていく必要があります。
褒めるだけでは、よいものを書こうとする気持ちは生まれません。ある程度無理矢理にでも継続させるということがあって、それで初めて褒めることが生きてくると思います。
なるほど。スポーツなどにも通じますね。やってみます。
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暗唱の自習は、確実に成果があります。覚える力がつくだけでなく、読解力、作文力がつきます。しかも、音読の自習に比べて、暗唱の自習は達成感があります。
今回の暗唱用紙を使った900字の暗唱は誰でも簡単にできる方法です。ポイントは、覚えようとするのではなく、指定の回数だけ早口で音読することです。
しかし、このやりやすい形でも、なかなか自習の時間がとれない人もいると思います。勉強を進めるうえで、いちばんよくないのは、できそうもないことを指導して、結局できないという結果を残すことです。
そこで、暗唱の自習は、オプション方式にすることにしました。暗唱オプションを選択した生徒には、11.4週から12.4週の暗唱の説明とチェックをします。また、1月からの暗唱の自習も指導します。
暗唱オプションを選択しない生徒には、次の週の課題を事前に準備しておくということだけに指導内容をとどめます。そのかわり、事前の準備は徹底してもらいます。
このオプションは、学期の途中で変更することもできます。また、オプションの有無による料金の差などはもちろんありません。
通学コースの生徒は、教室で10分程度のカバーが徹底できるので、受験生以外は全員必修とします。
11.4週に「暗唱の手引」の説明をする予定ですが、あらかじめ暗唱の自習ができないとわかっている場合は、その旨を先生にご連絡ください。
なお、オプション方式は、今後読書指導を日記指導等にも広げていく予定です。
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音声入力をしていて気がつくことがあります。構成図の段階では一応書く内容があるように見えることでも、心の中で、はっきりと納得できていないことは、やはり書くのに時間がかかります。考える力がないと、作文を書くことはできません。書くという力だけが独立してあるのではなく、考える力を表現するものとして書く力があるという仕組みになっているのです。
それでは、考える力とは、何なのでしょうか。
第一は、考える方法です。これは文章を書いたり図を書いたりすることによって、自分の考えを外化していくことです。構成図で考えるというのも、この考える方法の一つです。
第二は、考える内容です。内容とは知識のことですが、単に知っているとか理解できているという知識ではなく、自分の手足のように自由に使える知識です。
第三は、創造力です。作文小論文の入試では、受験する生徒の学年には難しすぎるような課題がよく出されます。しかし、実力のある子は、わからないながらも何とか書き上げてきます。
手持ちの知識が不足していても、その限られた材料と自分の想像力だけを頼りにまとめ上げる力というのは、子供のころの創造的な遊びによって築かれる能力です。
例えば、ただの木の切れ端を集めて自動車を作ったりお城作ったりして遊んだ子供は、お仕着せの組み立て玩具で遊んだ子よりも、創造性が発達するでしょう。スポーツでも、ルールのはっきりした競技よりも、○○ごっこのような自由度の高い遊びの方が創造性は発達します。可塑性のある遊びをどれだけしたかということが、その子の創造性の度合いを決めます。
作文というのは、考える楽しさを創造的に味わうような勉強です。それは、与えられた答えを見つける勉強とは違って、創造力を発達させるような勉強になる可能性を持っています。
しかし、どの作文もそうかといえばそうではありません。ただ朝起きて夜寝るまでの作文を書いても、創造力はあまり必要とはされません。
未知のものを埋める努力を要するような作文で、その努力が楽しくできるような作文が、創造力を育てる作文になるのです。
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言葉の森の通学教室では、しばらく前から付箋読書で本を読んで四行詩の感想書く練習をしていました。そして、せっかく書いた感想が蓄積されるように、読書ノートを各自に用意してもらうことにしました。
そのノートを読書ノートだけで終わらせるのではなく、今後、読書日記に発展させて行こうと考えています。やり方は、毎日、読んだ本の感想を四行詩で書いていくという形です。本の感想以外に日記のようなものでもよいとします。目的は、毎日文章を書いて書きなれることと、毎日ものを考えて考えなれることです
また、図書の貸出とは別に、入試問題集を40ページほどの小冊子にして問題集読書の貸出も始めようと考えています。問題集の問題文は、実力のある子には、かなり面白く読めるエッセイ集のようなものになるからです。
暗唱の自習だけだと、わずか10分で終わってしまうので、かえって勉強が中途半端になる面があります。暗唱のほかに、読書や日記と組み合わせて、20分から30分の時間が確保できれば、かえってやりやすい勉強になるのではないかと思っています。
しかし同時に、現代の子供たちは、このような形でいろいろな宿題を重ねているのだろうということも考えました。学校からは、各教科ごとに宿題が出され、塾からもまたいろいろな先生から宿題が出されます。これらの宿題をまともにやっていたのでは、時間が足りなくなるということもあります。
そこで、家庭の努力として大事なことは、大量の様々な宿題に抗して読書と対話の時間をしっかり確保することです。
言葉の森の暗唱と家庭での読書と対話が家庭学習の中心になっていれば、それだけで学力は十分に確保できると思います。
(この文章は、構成図をもとにICレコーダーに録音した原稿を音声入力ソフトでテキスト化し編集したものです)
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