子供は、ほうっておけば楽な方に走る、というのが、小学生の普通の姿です。小学生のうちから、苦しい方を選ぶという子がいたら、むしろ問題があると言ったほうがいいかもしれません。もちろん、得意分野については、苦しいことも進んでやるということはありますが、自分自身を向上させるというような抽象的な目標で、あえて苦しいことに選ぶという小学生は、いません。
自分自身という抽象的なものにめざめるのは中学3年生ぐらいからで、それ以前は、もっと具体的な目標がないとがんばることはできません。小学生のころの具体的な目標は、親や先生にほめられること、または友達に自慢できることといった身近な人間関係を媒介にしています。ですから、小学生に対する教育の方針は、がんばったところをほめながら、がんばっていないところを注意する、ということになります。
読書について言えば、いい本を読んでいたらほめる、マンガばかりを読んでいたら注意する、ということをこまめにやっていけば、しっかりした読書をするようになります。ところが大抵の家庭では、読書については勉強について言うときに比べて、あいまいな言い方しかしていないようです。「マンガばかり読んでいないで、たまには本を読んだら?」「はあい」という言葉のうえのやりとりだけでは、子供を読書に向かわせることはできません。
「マンガは読んでもいいけど、読み終わったら見えないところにかたづけようね」「今日は、勉強のあとに、ここにある本の中からひとつを選んで50ページ以上読もうね」ということを、ごく普通にさらりと、しかし妥協なく親が言えるようになれば、子供は本を読むようになります。そして、本を読んで読書力がついてくれば、親が「本を読みなさい」とわざわざ言う回数も少なくなります。
読書の習慣は、家庭の躾のようなものです。いわば、顔を洗ったり歯を磨いたりすることと同じ次元の話です。習慣がつくまでは何度も何度も飽きずに注意してあげることが必要です。
そして、小学生のころの読書と同じように大事なのが、中学生以降の読書です。中学生や高校生になると、読書は本人まかせになり、それに応じて、読書も次第に軽い内容のものに傾斜していくという傾向があります。読書に対するアドバイスは、中学生以降も継続していく必要があります。
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小学校低学年のころは、学力の差はそれほどはっきりしたものではありません。どの子も同じようにのびのびと勉強しています。
しかし、小学校高学年から、思考力を要求される勉強が増えてくると、学力のある子とない子の差が次第にはっきりしてきます。小学校低中学年の勉強は、時間をかければだれにでもできるようになる勉強です。この時期に、漢字や計算の練習をしていれば確かに成績はよくなります。しかし、ここで目に見える成績を上げることにとらわれるあまり、本を読んだり自分で考えて行動したりする機会を少なくしてしまうと、肝心の考える力が育ちません。
今、小学校高学年の生徒を見ていて共通して感じるのは、難しい本を読む力のない子が年々多くなっているということです。読む力を育てることは、学校の勉強の成績を上げるよりもずっと大切なことです。逆に、読む力がしっかりついてさえいれば、高学年になって成績を上げることは容易にできます。
あふれる受験情報に流されず、大人が勉強の本質をしっかりつかんで子供たちを育てていきましょう。
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中学生や高校生の文章を読んでいて、ふと「この子は、日記を書いているんだろうなあ」と思うときがあります。それは、体験実例の書き方に内省的なものが感じられるときです。
小学生のころの日記は、事実の描写が中心になるので、文字どおり日々の記録にすぎませんが、中学生や高校生になってから書く日記は、事実よりも自分を振り返る内容のものになってきます。日記を書くことに目覚めた子は、だれに言われるわけでもなく、何の得をするわけでもなく、ただ自分自身を確認するためだけに日記を書き続けます。多感な中学生や高校生の時期に、このように日記をつける習慣を持った子は、ものの見方に陰影を持つようになってきます。ものの見方に対する微妙さは、現代の社会ではほとんど評価されていません。現実の社会で評価されているものは、成績や姿形などの外見に出たものです。しかし、たぶん、内面の深みはその人の生き方を何重にも豊かなものにしているはずです。
今の若い人たちが、昔に比べて日記を書かなくなったように思われるのは、日記を書くという時間の過ごし方があること自体を知らないためだと思います。携帯電話やインターネットで他人との交流をするための言葉は豊富になりました。しかし、そういう言葉とともに、自分自身と対話する言葉も人間には必要なのだと思います。
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国語の勉強は、ほかの教科の勉強とは違い、易しいものをいくらたくさんやっても力はつきません。難しい教材をその生徒の力に応じてわかりやすくかみくだいて指導するところに言葉の森の指導の特徴があります。
生徒の作文のうち、よく書けたものは、本人の希望に基づいて朝日小学生新聞や毎日小学生新聞に送っています。これは子供たちの作文に発表の機会を与えるためのもので、決して入選を目的としたものではありません。しかし、それにもかかわらず、多くの生徒がこの作品欄に入選しています。
中学生の作文は、あまり発表の機会がありませんが、現在、言葉の森で勉強している中学生の一部は、すでに大学受験小論文にも対応できる力をつけています。
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言葉の森の勉強の目的は、作文を書くことを通して、個性・知性・感性を育てることです。したがって、私たちは、ただ点数を上げるためだけの勉強はしません。
しかし、それにもかかわらず、中学受験をした小学6年生の多くの生徒が、ほかの塾の勉強よりも言葉の森の勉強で国語の力がついたと言っています。
言葉の森の勉強は、点数を上げる勉強ではなく考える力をつける勉強です。このため、小学生時代から始めて、中学入学後も、高校入学後も、さらには大学に入学したあとも、言葉の森の学習に魅力を感じて継続している生徒が多いのです。
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中学受験や高校受験でも、文章力が評価される機会が増えてきました。それに伴い、学習塾などでも作文指導を行なうところが増えています。
言葉の森とほかの作文教室との違いは、その内容にあります。言葉の森の教材はすべてオリジナルで、小学生から高校生まで継続して勉強することを前提にして作られています。この長期間にわたる学習ができるかどうかが作文教室を評価するいちばん大きなポイントです。
言葉の森の受講生の保護者の中には、自身が学習塾を経営していたり、全国的にもトップクラスに入る塾や予備校の国語の教材製作部門を担当している方もいらっしゃいます。このことは、私たちの作文指導が他には見られない優れた内容のものであることを示しています。
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●書き出しの工夫 —会話・色・音・情景で書き出す —
書き出しに、会話、色、音、情景を入れて、読み手を引きつけるような効果を出します。
例:赤い夕日が西の空を染めている。やっと練習が終わった。
例:窓の外から広い公園が見える。私の部屋は二階にある。
● 予測問題の主題 —将来Aが問題になる—
社会問題の主題の練習をしたあと、それを更に発展させて考える練習です。 考え方としては、今の社会問題に対する対策が進むと逆に別の問題が起こってくるだろいう形です。
例:(日本人の島国意識は問題だという社会問題が課題になっている場合)しかし、この島国根性を捨ててグローバル化を目指すあまり、むしろ逆に日本人の根を見失う傾向が今後問題になってくるのではないだろうか」
社会問題の反対の予測問題がどうしても考えにくいときは、社会問題を発展させて考えてもよいとします。その場合は、社会問題の主題とほぼ同じ内容になりますが、できるだけ自分なりに新しい問題の要素を加味して考えていくようにします。
● 複数の対策一 —…の対策としては第一に—
● 複数の対策二 —…の対策としては第二に—
意見文の展開部分に対策を書きます。必ずしも具体的な対策である必要はなく、対策の方向を指示するだけで充分です。対策を考えるヒントは、自主、民主、公開、発明です。
例:(地球温暖化をどうするかという課題について) 外部の規制を待つのではなく、まず私たち一人ひとりが自分のできるところから小エネルギーの生活を作っていく必要がある。(自主)
既に工業化を達成した先進国のペースで考えるのではなく、発展途上国の意見も反映させて考えていく必要がある。(民主)
密室で論議するのではなく、まず、地球温暖化が現在どのぐらいのペースで進んでいるかということを正確に情報公開していく必要がある。(公開)
排出権取引のように、資本主義の論理を利用して自然保護を図る仕組みを考案していく必要がある。(発明)
対策に正解はありません。自分のオリジナルな対策を考えていくこと自体が練習です。
● 体験実例 —自分らしい体験実例を書く—
対策を裏づける体験実例を書いてみましょう。
● ユーモア表現 —ユーモアのある表現(笑)—
読み手を笑わせるような表現を入れます。自分の失敗談を書いたり、物事を大袈裟に書いたりするとよいでしょう。
● 反対意見への理解 —確かにBもよいが、しかしAが—
四段落構成の結びの四段落目に、自分の意見とは反対の考えに対する理解を入れて書きます。 およそ意見というものは、どんなに正しいように見えても必ず反対の立場というものがあります。中学生や高校生のころはまだ視野が狭いので、自分が心から正しいと思っている意見を書くときは、反対意見を全面否定するような形になることが多いものです。 しかし、意見は一方的に書けば書くほど説得力を失う面があります。自分がどれほど正しいと思った意見でも、結びの段階で反対意見への理解に言及するようにすると、かえって説得力が増してきます。 反対理解を書くことは、意見文の鉄則です。 書き方で注意することは二つあります。 一つは、反対理解をじっくり書きすぎると、意見が分裂したような印象になることです。反対理解は必要最小限にとどめてさらりと書くことが必要です。 もう一つは、弱い反対理解を書いて済ませてしまう場合や、反対意見への理解ではなく反対事実の紹介で済ませてしまう場合があるということです。 例えば、弱い反対意見の理解の例としては、「(漫画はよいか悪いかで悪いという意見を述べたあと)確かにくだらない漫画を読みたくなる気持ちもわかるが……」というような書き方です。漫画がよいという積極的な意見への理解ではなく、消極的な意見への理解になっています。 反対事実の紹介の例としては、「(漫画はよいか悪いかで悪いという意見を述べたあと)確かにおもしろい漫画もあるが……」というような書き方です。 キーワードは、「確かに」ですが、ほかに「もちろん」「なるほど」「もっとも」なども考えられます。
● 自作名言 —…はAでなくBである —
自作名言とは、自分で作った名言です。本当は、これがいちばん大事なのですが、最初から「自分で名言を作る」と言ってもわかりにくいので、中学生のころは、名言集から名言の引用を行なって練習をしています。
名言は、「○○はAでなくBである。」というかたちの文です。名言集の多くの名言も、このようなスタイルを持っています。「出口のないトンネルはない」→「人生はトンネルのようにどんなに暗く見えようとも、行き止まりではなく、必ず出口がある」。「民主主義は教科書には書かれていない」→「民主主義は、教科書のように既にできあがったものではなく、自分たちで日々作っていくものだ」。
Aは世間で一般に思われている常識、Bは逆説に見える真理、という位置づけです。かたちだけ「○○はAでなくBである」と書いてあっても◎にしますが、「夏は、寒いのではなく、暑い」のように当たり前のことを書いている場合は、名言ではありません。
名言の効果が出るのは、文章の結びの5〜10行です。できるだけ結びの5行に、決めの言葉を書いていきましょう。
● 75分以内 —書き始めから書き終わりまで75分で—
長文を読む時間、構成メモを考える時間などは入れずに、書き始めから書き終わりまでを75分以内で書いていきます。 時間のかかる人は、全体で75分とだけ考えずに、段落ごとに途中経過時間の目安を決めておきましょう。
https://www.mori7.com/mine/nae.php?yama=nnga">ガジュマロの苗
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言葉の森では、小学1年生から、中学生、高校生、大学生、社会人まで幅広い年齢層の人が勉強をしています。学校や塾で今行なっている勉強の多くは、受験が終わればそれで終了してしまいます。文章を書く勉強は、学生時代に身につけた知識を基礎にして、その人の思考力の発達に応じて生涯向上していくものです。
言葉の森では、現在、言葉の森の卒業生を中心に、そのときどきの話題でディスカッションをするサークルを作っていく予定を立てています。具体的には、インターネットのメーリングリストなどを利用して、毎日、話し合いのできる場を設け、年に数回は一同に集まって話し合いをするというかたちのものです。
文章を書く勉強は、対話と結びつくことによって生涯続けられる勉強になっているのです。
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