植物はどうして光のある方に曲がるのか
土の中から、植物の芽が出てきました。芽は光に向かってどんどん伸びていきます。
しかし、もしこれが、上からおおいがかぶせられているところで出てきた芽だとしたらどうなるでしょう。芽は、まっすぐ上に伸びるのではなく、光の差し込む方に体を曲げて伸びていきます。
植物の芽が伸びる方向を決めているのは、植物ホルモンです。
麦の芽の先の方に、オーキシンという植物ホルモンが作られます。このオーキシンは、光が普通に当たっているときは、芽の下の方に移動して芽を伸ばしていきます。
しかし、光が例えば左側からしか当たらないところでは、陰になっている右側の方に移動します。すると、植物の芽の右側だけが成長して伸びていくので、植物は次第に左側に曲がっていきます。こうして、植物は光の当たっている左側に向かって成長するようになるのです。
オーキシンには、下の方に移動するという性質もあります。植物が横に倒れると、オーキシンは倒れた植物の下の方に移動します。すると、植物の地面に近い方だけが成長して伸びていくので、植物は次第に起き上がってきます。こうして、植物は倒れても自然にまっすぐ起き上がるようになっているのです。
「どっこいしょっと」
「あれ、オーキシン君、何してるの」
「横にたおれちゃったから、オッキしてんの」
森林の移り変わり
山火事やがけ崩れなどで、植物がなくなり土の地面がそのまま出てくるところがあります。
そこに最初に生えてくるのは、栄養がなくても成長できるコケです。
そのコケがだんだんと地面に栄養をあたえていくと、次に生えてくるのは背の低い草です。
その草がくさってだんだんと地面の栄養を豊かにしていくと、次に生えてくるのは低い木です。
低い木は更に地面の栄養を豊かにしていきます。また低い木は太陽の光をさえぎらないので、次には光の好きな高い木が生えてきます。光の好きな木には、クヌギ、ナラ、シイ、イチョウ、マツなどがあります。明るいところに生えている木です。
高い木はもっと地面の栄養を豊かにしていきます。高い木は太陽の光をさえぎるので、次に生えてくるのは光の弱い方が好きな高い木です。弱い光の好きな木には、ブナ、アオキ、ヒイラギ、マサキ、ヤツデ、スギなどがあります。暗いところに生えている木です。
では、次に生えてくるのは何でしょうか。弱い光の好きな高い木の下に生えてくるのは、やはり弱い光の好きな高い木です。
こうして、森林は、弱い光の好きな高い木になって安定していくのです。
「あれ、アオキ君、元気がないね」
「うん、がけ崩れで周りの木がなくなったら、急に明るくなっちゃたんでね」
「そうかあ。アオキ君、光が苦手だったもんね」
「もう、青息吐息だよ」
「そんなこと言わないで。ヒッカリしてよ」
花の咲く時期
花は、葉っぱの変化したものです。植物は、葉をしげらせて成長します。しかし、ある時期になると、葉をしげらせることをやめて、葉のかわりに花を作るようになります。
この時期は、植物によって違います。一つは、日が長くなる冬から春にかけて花を咲かせるアブラナやヒメジオンなどの植物で、もう一つは、日が短くなる夏から秋にかけて花を咲かせるアサガオやキクなどの植物です。
植物は、夜の長さがどれだけ長いかによって、花を咲かせる時期を知ります。これを利用して、アサガオを暗いところに置き夜を長くすると、まだ小さいうちに花を咲かせるようになります。
また、キクの夜の時間にときどき明るい電気をつけて、夜が短いように思わせると、キクは冬になってからやっと咲くようになります。
植物には、日の長さに関係なく、温度によって咲く時期を決めるタンポポやヒマワリなどもあります。
では、人間は何によって花を咲かせる時期を決めるのでしょうか。
「うーん。うちのお母さんはいつも笑ってばかりいるから、年中花が咲いているみたいだなあ」
「ゼラニウムみたいなお母さんだね」
体を守る仕組み
人間の体は皮膚によって守られています。食べ物でも、真空パックされたものは長持ちします。それは外から細菌が入り込めないからです。同じように、皮膚も人間の体の中に細菌が入り込めないようにぴったりと体全体をおおっています。
しかし、人間の体にはぴったりおおえないところもあります。それが呼吸をするための鼻やのどや肺と、食べ物を消化するための口や胃や腸です。また、怪我をしたところも、皮膚が破れて外から細菌が入りこみやすくなります。
皮膚のないところから進入した細菌は、条件がいいとねずみ算式に増えていきます。人間の体の中には細菌と戦う細胞がありますが、その細胞が増えるよりも早く細菌がどんどん増えると、人間は病気になってしまいます。しかし、時間がたつとだんだんと戦う細胞が増えてくるので、やがて病気から治っていくのです。
いったん細菌と戦った体には、その戦いを記憶する細胞ができます。その記憶する細胞があると、同じ細菌がやってきてもすぐに戦う細胞を増やすことができます。こうして、人間は病気にかかって治る経験を繰り返すうちに、どんどん強くなっていくのです。
「人間の体ってすごいんだね」
「うん。細菌なんてばいきんみたいなもんだよ」(そのままだけど)
「でも、インフルエンザは手ごわいね」
「そうだなあ。細菌も、最近さあ、いい気んなってんからなあ」
「インフルエンザは細菌じゃなくてウイルスでしょ」
「まあ、そうウイルスぁいこと言わないで」
今回の森リン大賞の発表で、ベストテンの表示をどのようにするか考えました。
小学校1、2年生の生徒については、順位の表示をはずすことにしました。しかし小学校3年生以上でも、順位の表示をすることにはやはり抵抗がありました。
確かに、競争がゲームを楽しくする効果を持つことも理解できます。私が高校生のとき、定期テストの上位十数名がそれぞれの教科ごとの職員室の前に張り出されるようになっていました。それを見るときの感覚は、競争というよりも明るくフェアなコミュニケーションというようなものでした。
しかし、高校生のように自分というものが確立して、競争というものを相対化して見ることができる時期であれば問題はありません。小中学生のころは、本人の自覚なしに競争の枠組みに追い込まれるという面があります。しかも、ちょうどそのころは、競争に燃えやすい時期でもあるのです。
競争の中で自分を見られている子供は、たとえその子が競争の上位にいたとしても、その子自身がやはり競争の目で社会を見るようになります。
相対化され意識化された競争は向上のバネになりますが、無意識のうちに持つ競争的な世界観は、人間をあまり幸福にするようには見えません。
そこで、競争に頼らない意欲とはどのようなものかと考えました。それが、発表の喜びになると思います。
次回の森リン大賞は、得点上位の表示ももちろんしますが、それ以上に全員の発表という要素をもっと打ち出したものにしたいと思っています。
(この文章は、構成図をもとにICレコーダーに録音した原稿を音声入力ソフトでテキスト化し編集したものです)