アメリカのドル印刷は、いずれ破綻を迎えると言われています。アメリカでは、ドルの崩壊と並行して、ハイパーインフレとデノミが起こる可能性があります。アメリカの国債を大量に保有している日本と中国は、どうなるのでしょうか。そのとき日本と中国は、アメリカのデノミに対して、連鎖的なデノミで対応するというのが一つのシナリオです。この結果、金融工学で作られたバブルは吹き飛び、あとには、傷ついた地道な経済が残る社会が到来します。
世界中がこのようなバブルの再崩壊に直面しているのに、日本は今、国内の財政赤字の帳尻を合わせることに汲々としているように見えます。日本は、世界の取り組みを上回る大きな勝負に打って出る必要があります。
そのための条件の一つは、国内の当面の団結です。民主党政権の政策には、外国人参政権の導入など疑問の残る点はありますが、現在すでに民主党政権が存在しているのであれば、その政権に協力していくことが国民のできることです。少なくとも、政策以外のことで政治家を失脚させるような暴走を認めてはならないと思います。また、民主党自身もマニフェストに明記していない法案を闇の法案として通すのではなく、公開の場で論議していく必要があります。そのために大事なことは、インターネットの自由な情報がもっと活用されることです。
さて、バブル再崩壊後の社会は、どのようになるでしょうか。長い混乱を経て、より人間的でより自給的な社会は来るでしょう。しかし、大事なのはその長い混乱の期間をどう生きるかです。
アメリカの衰退と入れ替わる形で、中国、インド、ブラジルが台頭すると言われています。中国の台頭の理由は、13億人という人口の需要があることです。これは、インドもブラジルも同様です。しかし、そこで作られる需要は、すでに欧米日の先進国でかつて作られたことがあった過去の需要です。
テレビ、パソコン、自動車、エアコンなどが、すでに日本で1億人のために作られたことのある商品ならば、それがその後13億人のために作られるというのは、旧時代の仕上げとしての意味しかありません。アメリカに代わって中国が台頭すると言いますが、それは、旧時代の中での覇権の交代に過ぎないのです
新時代は、新しい創造的な需要によって作られます。旧時代の3Cなどが主導する経済とは異なるもの、それは文化が主導する経済です。ここで連想するのは、江戸時代に育った日本の独特の高度な文化です。歌舞伎、浮世絵、陶磁器、アサガオの栽培、ウズラの飼育など、日本はユニークな文化を閉ざされた島国の中で発達させました。それらの文化を支えたものは、学力と個性を兼ね備えた人材の大衆的な教育でした。
これまでの時代は、例えば自動車が新しい需要を創造するという時代でした。自動車産業が創造的であった時代には、他社に負けない創造的な技術開発を行い、大きな創造的利益を得ることもできました。しかし、これからの自動車産業は、既存の部品を組み合わせれば作れるようなコモディティ化された商品になりつつあります。ここでは、限界的なぎりぎりの利益で商品が作られるようになります。そのような需要がたとえ13億人分あっても、それは広く薄い利益をかき集める少数の巨大な企業に担われることになるでしょう。それは、創造的な私企業というよりも社会のインフラを担う公企業のようなものになるはずです。
それに対して、文化の需要は、創造的であればその価値が限りなく高くなる可能性があります。この価値の高い創造する文化を作り出すところが、次の新時代を先導する活力のある地域になります。そこにいちばん近いのが日本です。
この新時代に向けて意識的に歩みを進めるために必要な第一のことは、文化への投資を促すことです。道路や橋を作るような公共投資ではなく、創造的な文化を奨励する文化オリンピックのようなものに投資する必要があるのです。
もちろん、建造物への投資であっても、日本の領海に多数のメガフロートを浮かべて日本の領土を広げるというような創造的な投資であれば価値はあります。大事なことは、これまでにない予測もつかないような創造的な投資を行うことです。それが財政投資を意味あるものにします。
文化オリンピックにおける金メダルのような呼び水によって、これから無数の才能が開花していけば、文化的な創造は次第に高度化していきます。そして、それらはやがて本物の創造文化として確立していきます。
これは例えば日本のアニメ文化の確立に見られるのと同じパターンです。日本のアニメは、すでに芸術の一つのジャンルを形成しています。同じようなことがこれから、植物の栽培、動物の飼育、新しい芸術の創造など、今の社会にまだ生まれていない分野で続々と生まれる可能性があります。これがバブルの崩壊した旧時代のあとに来る新時代のイメージです。
とすると、今緊急に行う第二のことは、創造性を育てる教育を広げていくことです。これからの知識産業時代における創造性は、学力の裏づけのある創造性でなければなりません。豊かな知識と技能、優れた理解力、そして個性的な創造性を育てるような教育がこれから求められてくるのです。これは、これまでの競争に勝つための教育ではなく、発表する喜びを感じるための教育です。
2010年の言葉の森の作文指導は、この学力と創造性を育てる教育に向けて作り上げていきたいと思っています。
(この文章は、構成図をもとにICレコーダーに録音した原稿を音声入力ソフトでテキスト化し編集したものです)
天外伺朗(てんげしろう)さんの「GNH」という本を読みました。GNHとはグロス ナショナル ハッピネス(国民総幸福度)のことです。その中に、外発的動機ではなく内発的動機で学ぶ(又は遊ぶ)ことの大切さが書かれていました。
外発的動機の中には、競争したり強制したりすること以外に「褒める」ことも含まれます。褒めて、親や先生の求める方向に誘導するというのも、子供にとっては外発的動機で学ぶことなのです。
言葉の森では、生徒を「褒める」ことの大切さを述べています。この「褒める」は、天外さんの本に書いてある「褒める」と言葉は同じですが、中身がちょっと違います。
よく、生徒のお母さんに、「もっと『褒めて』(A)あげてください」と言うと、「でも、『褒める』(B)ところがないときはどうするんですか」と聞かれることがあります。
Aの「褒める」は、「認めてあげる」という意味の「褒める」です。Bの「褒める」は、いいことをした報酬としての「褒める」です。
よくできたから褒めるのであればだれでもやっています。しかし、その裏側には、あまりできないから叱るという発想があります。できているから褒めるのではなく、できていなくても褒める、つまりその子がそこにいることをそのままでいいと認めてあげることが本当の「褒める」なのです。
人間は、自分についてはどんなことをしていても、その自分を認めています。しかし、他人に対しては「○○してほしい」と要求し、その要求が満たされないと認めてあげることができないというところがあります。そうではなく、他人に対しても、自分を認めているのと同じように認めてあげることが褒めることなのです。
生徒の作文に関して言うと、先生の言ったことができていればもちろん褒めます。しかし、全然できていなくても褒めます。
書いている途中に近くを通りかかり、「おっ、もうそんなに書いたんだ」というのも褒め言葉です。それがただ2、3行書いている場合でもそうです。
「今日は元気そうだね」というのも褒め言葉です。
「字をていねいに書いているね」でも「おもしろそうな題名だね」でも、何でもいいのです。しかし、それは、字がていねいでなければ注意するとか、つまらない題名なら注意するとかいうことの反対にある褒め言葉ではありません。「君がそこにそうしていること自体が、先生は(又はお母さんは)すごくうれしいよ」というメッセージとしての褒め言葉なのです。
では、そういう褒め言葉だけで、みんな上達するのでしょうか。
そのとおりです。で終わってしまってもいいのですが(笑)、それではものたりないので、もう少し付け加えると、褒めることと並行してやっていくことは、力をつける工夫をすることです。言葉の森の作文指導の場合、それは読書や暗唱の自習です。褒めることと自習をさせることの両方を並行してやっていけば、勉強の仕方としては完璧です。
人間には、もともとよくなりたいという内的な動機があります。その内的な動機を発揮させるためには、その子をそのまま認めてあげて、更に実行しやすい方法を教えてあげればいいということなのです。
では、自習をさせるということは強制にはならないのか、というややこしい話が出てくる可能性があるので、そのことに関して説明すると、一つは、躾に関しては強制でも強要でも何でもありなのです。朝起きたらあいさつするとか、ご飯を食べるときはテレビは見ないとか、それぞれの家庭で決めたルールは強制しても守らせなければなりません。しかし、それは決めたルールを守るということですから、家庭によっては食事はテレビを見ながら楽しく食べるというルールにしているところもあるかもしれません。その場合は、それでいいのです。大事なことは、人間的な生活をするために決めたことは厳しく守らせるということです。「躾は厳しく、勉強(の結果としての成績について)は甘く」というのが、家庭教育で最も大切な原則です。
もう一つは、子供の様子を親が自分の目でよく見ていれば、何が必要で何が必要でないかは自ずからわかるということです。そうすれば、それが必要な強制か不要な強制かも自然にわかってきます。
ときどき、保護者の方からの相談で、「学校の先生にこう言われたのですが」「テストの成績がこうだったのですが」「作文の項目ができないのですが」「宿題が多くて大変なのですが」などと聞かれることがあります。先生もテストも宿題も勉強の目標も、すべて子供の外側にあるものです。そういう外側の枠だけを見て、肝心の子供自身を見ずにその外側の枠に子供をあてはめようとしている人が多いのです。
親が子供をよく見ていれば、「先生にどう言われても、成績がどうでも、宿題なんてできなくて、あなたは今のままで大丈夫」と自信をもって言えるようになります。また逆に、「だれからもどこからも言われないけど、このことに関してはあなたは絶対にこうしなきゃだめ」ということも自信をもって言えるようになります。その自信は、その子をよく見ることから始まるのです。