暗唱の自習や音読の自習は、親がかつて子供時代にしたことのないものです。これが、九九などの学習との違いです。このため、子供の実態に合わないやり方をしてしまいがちです。
特に暗唱は、その暗唱という言葉から、覚えることが目的だと思われがちです。覚えることが目的で、その方法として反復があると考えてしまうのです。すると、反復という方法は、手段であって、何しろ覚えればいいということになります。そして、理屈で覚えようとしてなかなか覚えられないから挫折するというのが、中学生高校生や大人に多いパターンです。
また、小学校の低中学年に多いパターンとして、やさしい文章で短ければ数回で覚えられるので、それで覚えて終わりとしてしまうことです。このような音読の仕方では、暗唱した文章はすぐに忘れてしまい身につきません。また、逆に難しい文章になると、これまでと同じように簡単にはできないので、読むことが嫌になってしまうということが起こります。
暗唱の意義は、四つ考えられます。
第一は、記憶力を高める面があることです。暗唱していると、長く難しい内容でも自分には覚えられるという自信がつきます。これが、その後の勉強にとって大きなプラスになります。しかし、これは暗唱の二義的な意義です。
第二の最も大事な意義は、理解力を高めることです。比喩的にいうと、これまで、スモールステップの学習で、小骨を抜いて、火にかけて、やわらかくして、味つけをしたものを少しずつしか食べられなかった子供が、骨ごと丸ごとバリバリと食べる咀嚼力を身につけるというような理解力がついてくるのです。これが、英語、数学、国語などすべての教科の学習に通じていきます。
第三に派生的な効果として、理解のための語彙が、暗唱の反復によって表現のための語彙に進化するということがあります。読んで理解はできるが、自分では到底書くことも思いつかないというような言葉が、自分の表現として自然に使えるようになるのです。
第四にもう一つの派生的な効果として、発想力が豊かになるということが挙げられます。暗唱がスムーズにできるようになると、左脳で理解して音読していた言葉が、右脳に蓄積されたイメージから引き出されるようになります。このような暗唱をしていると、左脳では限定されていた単独の言葉が、右脳ではいろいろな異なるイメージに干渉されて豊かになってくるのです。ちょうど夢を見ているときのような自由奔放なイメージが言葉と一緒に出てきます。これが発想力です。
これらの意義を実現するために大事なことは、暗唱を、記憶することを目的とするのではなく反復することを目的として取り組むことです。その反復の回数の目安は、経験的に言うと100回です。しかし、100回同じ文章を音読するということは、現代ではなかなかできません。
言葉の森の暗唱の方法は、毎日10分間やっていくと、30回を1日、10回を4日、4回を7日から10日読むことになるので、結局900字のどの文章も100回ぐらい読むことになります。
最初から900字の文章を単純に100回読むということももちろんできなくはありませんが、それでは、子供にとってはかなり苦しい勉強になってしまいます。毎日10分間の勉強で1ヶ月で900字が暗唱できるという方法でやっていくことで、無理なく反復の学習ができるのです。
(この文章は、構成図をもとにICレコーダーに録音した原稿を音声入力ソフトでテキスト化し編集したものです)
アメリカのドル印刷は、いずれ破綻を迎えると言われています。アメリカでは、ドルの崩壊と並行して、ハイパーインフレとデノミが起こる可能性があります。アメリカの国債を大量に保有している日本と中国は、どうなるのでしょうか。そのとき日本と中国は、アメリカのデノミに対して、連鎖的なデノミで対応するというのが一つのシナリオです。この結果、金融工学で作られたバブルは吹き飛び、あとには、傷ついた地道な経済が残る社会が到来します。
世界中がこのようなバブルの再崩壊に直面しているのに、日本は今、国内の財政赤字の帳尻を合わせることに汲々としているように見えます。日本は、世界の取り組みを上回る大きな勝負に打って出る必要があります。
そのための条件の一つは、国内の当面の団結です。民主党政権の政策には、外国人参政権の導入など疑問の残る点はありますが、現在すでに民主党政権が存在しているのであれば、その政権に協力していくことが国民のできることです。少なくとも、政策以外のことで政治家を失脚させるような暴走を認めてはならないと思います。また、民主党自身もマニフェストに明記していない法案を闇の法案として通すのではなく、公開の場で論議していく必要があります。そのために大事なことは、インターネットの自由な情報がもっと活用されることです。
さて、バブル再崩壊後の社会は、どのようになるでしょうか。長い混乱を経て、より人間的でより自給的な社会は来るでしょう。しかし、大事なのはその長い混乱の期間をどう生きるかです。
アメリカの衰退と入れ替わる形で、中国、インド、ブラジルが台頭すると言われています。中国の台頭の理由は、13億人という人口の需要があることです。これは、インドもブラジルも同様です。しかし、そこで作られる需要は、すでに欧米日の先進国でかつて作られたことがあった過去の需要です。
テレビ、パソコン、自動車、エアコンなどが、すでに日本で1億人のために作られたことのある商品ならば、それがその後13億人のために作られるというのは、旧時代の仕上げとしての意味しかありません。アメリカに代わって中国が台頭すると言いますが、それは、旧時代の中での覇権の交代に過ぎないのです
新時代は、新しい創造的な需要によって作られます。旧時代の3Cなどが主導する経済とは異なるもの、それは文化が主導する経済です。ここで連想するのは、江戸時代に育った日本の独特の高度な文化です。歌舞伎、浮世絵、陶磁器、アサガオの栽培、ウズラの飼育など、日本はユニークな文化を閉ざされた島国の中で発達させました。それらの文化を支えたものは、学力と個性を兼ね備えた人材の大衆的な教育でした。
これまでの時代は、例えば自動車が新しい需要を創造するという時代でした。自動車産業が創造的であった時代には、他社に負けない創造的な技術開発を行い、大きな創造的利益を得ることもできました。しかし、これからの自動車産業は、既存の部品を組み合わせれば作れるようなコモディティ化された商品になりつつあります。ここでは、限界的なぎりぎりの利益で商品が作られるようになります。そのような需要がたとえ13億人分あっても、それは広く薄い利益をかき集める少数の巨大な企業に担われることになるでしょう。それは、創造的な私企業というよりも社会のインフラを担う公企業のようなものになるはずです。
それに対して、文化の需要は、創造的であればその価値が限りなく高くなる可能性があります。この価値の高い創造する文化を作り出すところが、次の新時代を先導する活力のある地域になります。そこにいちばん近いのが日本です。
この新時代に向けて意識的に歩みを進めるために必要な第一のことは、文化への投資を促すことです。道路や橋を作るような公共投資ではなく、創造的な文化を奨励する文化オリンピックのようなものに投資する必要があるのです。
もちろん、建造物への投資であっても、日本の領海に多数のメガフロートを浮かべて日本の領土を広げるというような創造的な投資であれば価値はあります。大事なことは、これまでにない予測もつかないような創造的な投資を行うことです。それが財政投資を意味あるものにします。
文化オリンピックにおける金メダルのような呼び水によって、これから無数の才能が開花していけば、文化的な創造は次第に高度化していきます。そして、それらはやがて本物の創造文化として確立していきます。
これは例えば日本のアニメ文化の確立に見られるのと同じパターンです。日本のアニメは、すでに芸術の一つのジャンルを形成しています。同じようなことがこれから、植物の栽培、動物の飼育、新しい芸術の創造など、今の社会にまだ生まれていない分野で続々と生まれる可能性があります。これがバブルの崩壊した旧時代のあとに来る新時代のイメージです。
とすると、今緊急に行う第二のことは、創造性を育てる教育を広げていくことです。これからの知識産業時代における創造性は、学力の裏づけのある創造性でなければなりません。豊かな知識と技能、優れた理解力、そして個性的な創造性を育てるような教育がこれから求められてくるのです。これは、これまでの競争に勝つための教育ではなく、発表する喜びを感じるための教育です。
2010年の言葉の森の作文指導は、この学力と創造性を育てる教育に向けて作り上げていきたいと思っています。
(この文章は、構成図をもとにICレコーダーに録音した原稿を音声入力ソフトでテキスト化し編集したものです)