天外伺朗氏の「教育の完全自由化宣言!」を読みました。
アメリカのサドベリー・バレー・スクールという学校では、子供が自分で勉強したくなるまで自由に過ごすそうです。しかしやがて子供たちは、自ら学ぶことを欲するるようになります。同じような勉強法は、シュタイナー学校でも行われています。子供たちの自主性を尊重した教育を行っているのです。
しかし、私は、これがもちろん理想的な学校のスタイルだというのではないと思います。サドベリーの学校では、あまりに方法論がなさすぎます。すぐれた教師が指導の負担をいとわずに子供たちを教えるのでなければ、うまく運営できません。また、シュタイナー学校は、天外氏も述べているように、シュタイナーの個人的な独創によって運営されているために、その後の改良が難しいのではないかと思います。
しかし、他律的な勉強ではなく、自らの意思で取り組む勉強というのは、教育を考える場合の最も根本的な前提になります。
昔の子供たちは、自ら学ぶ意欲を持つまで自由に過ごすという点では、ほとんどがそうでした。現に天外氏も、小学3年生のときに神奈川県の茅ヶ崎に引っ越してから、中学2年生まで遊び放題の生活をしたそうです。また、高校でも大学でも、ジャズとグライダーに熱中し、そのため卒業するときの成績は下から2番目だったといいます。それが卒論だけはいいものを書いたので、当時まだ有名ではなかったソニーに入社できました。その後の天外氏の独創的な業績は、多くの人が知っているところです。
先日、SAPIXのすぐれた授業が紹介されている本を読みました。SAPIXでは、高度な質問と早いテンポで知的なゲームをしているような楽しい授業が行われているそうです。しかし、SAPIXの卒業生が、よく小学校6年生の受験のときがいちばん楽しかったという述懐をしているのを見ると、勉強というものをそういうゲーム的なものとして消化した体験がその後の勉強観に影響しているのだと思います。
昔の四谷大塚は、日曜テスト形式という勉強法で、家庭で学習をしたものを日曜日にテストするという形でした。しかしその後、学習塾に勉強をすべて任せるスタイルの教室が出てきました。学習塾によっては、家では何もしなくていいので、その代わり、夜遅くまで塾で勉強するという教え方をしているところもあります。
学習塾で勉強をして、家庭は食べて寝るだけ、というのは一見能率的に見えますが、しかし長い目で見ると、子供たちの全人的な成長にはマイナスになります。家庭学習の文化と結びついて、初めて教室や学校での勉強が生きてくるのです。
言葉の森で今考えているのは、(1)教室での勉強(2)家庭での自習(3)そして教室と家庭を結ぶ発表の場、という三角形の中で子供たちを育てていくことです。
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受験に作文を課す学校が増えています。受験作文は、最初の年は単純な題名課題で始まることが多いようです。例えば、「これまでの学校生活での思い出」とか「私がこれまでにがんばったこと」などの題名です。
こういう題名でも、受験生の作文力には差が出ますが、すぐに受験生が課題に対して準備をしてくるようになります。すると、ほとんどの受験生の実力が向上するので、採点する側は点数をつけるのが大変になります。
そこで、次第に難しい課題になります。題名課題よりも難しいのは感想文課題です。文章を読ませてそれに対して感想を書かせる形は読解力も要求されるので、題名課題のときよりも書くのが難しくなります。しかし、それでも要領のいい生徒は、課題文のキーワードを引用しつつ自分なりに準備してきた材料で書いていくことができます。
本当は、作文の課題を一つだけではなく複数出すようにすれば、実力の差はもっとはっきり出てきます。しかし、そのやり方では採点の負担が大きくなりすぎます。昔、東大の後期試験で小論文課題を出していたことがありました。最初は単純な課題でしたが、だんだん文章を読ませる複雑な形になり、複数の小論文を書かせる形になりました。しかり、やはり採点者の負担が大きすぎたのでしょう。この小論文試験は廃止になりました。
感想文の課題をもっと難しい形にしたものが、複数の文章を読ませて感想を書かせる感想文です。Aの文章とBの文章を読ませて、その両者に共通する点と相違する点を自分なりに整理してかくのですから、内容を理解していないと書けません。また、ただ一つの文章を読ませる感想文課題では、キーワードを入れれば何とか書けますが、複数の文章課題ではキーワードだけではなく複数の文章の内容を組み合わせないと書けません。この複数の文章による感想文課題が、受験作文の主流になっています。
しかし、これも、実は採点する側にとっては負担の大きい試験なのです。600字ぐらいの短い受験作文の答案を次々と読んでいると、人間は、長いひとまとまりの文章を読んでいるときよりもはるかに疲労します。それを、文章の表現力についてだけではなく、そこに盛り込まれている内容が課題に合っているかどうかまで含めて読むとなると、その負担は更に大きくなります。
私が考えるいちばんいい方法は、受験で作文を書かせるのではなく、あらかじめ作文検定のようなもので作文力を認定しておくというものです。
しかし、その作文検定は客観的な評価が出せるものでなければなりません。そこで使うのは、文章の自動採点ソフト「森リン」です。ソフトが採点するのですから、ソフトの裏をかいて点数を上げようとする人が必ずいます。しかし、そういう弊害はソフトを改良することによってすぐに対応することができます。
人間の採点は、裏をかくようなことはしにくいのですが、採点する人の主観によって大きな差が出ます。同じ人が気分が違うときに採点するだけでも違いが出てきます。正確さを期そうとすれば、1人の採点者が同じ日に数百人の採点をまとめてする必要がありますが、そういうことはまず不可能です。
ソフトの採点による誤差は、試験の回数を重ねれば、無視していいぐらいのものになっていきます。作文検定で何級を取得したかということが入試の基準になれば、作文小論文の導入はもっと容易なものになっていくと思います。
さて、複数の感想文課題に対する書き方はどのようにしたらいいのでしょうか。以下の説明は、ちょっとレベルの高い書き方です。
AとBの二つの文章があったとします。
二つの文章が共通している話題をCと考えます。
┏━C━┓
┃A・B┃
┗━━━┛
Cという分野に関して自分の考えcを決めます。
Aの文章のキーワード(又はキー概念)をaとします。
Bの文章のキーワードををbとします。
作文は、自分の考えであるcを通常の題名課題を書くのと同じ要領で、「説明→展開1→展開2→まとめ」と書いていきます。
その展開1と展開2の部分にaとbを盛り込みます。
つまり、作文の中心になるのは自分の考えcであり、そのcを補強するものとしてaとbを使うという考え方です。
こういう書き方はレベルが高いので、採点する側にそのように書いたということがわかるようにする必要があります。そのために、AとBの文章のキーワードを意識的に使っていくのです。
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暗唱の自習や音読の自習は、親がかつて子供時代にしたことのないものです。これが、九九などの学習との違いです。このため、子供の実態に合わないやり方をしてしまいがちです。
特に暗唱は、その暗唱という言葉から、覚えることが目的だと思われがちです。覚えることが目的で、その方法として反復があると考えてしまうのです。すると、反復という方法は、手段であって、何しろ覚えればいいということになります。そして、理屈で覚えようとしてなかなか覚えられないから挫折するというのが、中学生高校生や大人に多いパターンです。
また、小学校の低中学年に多いパターンとして、やさしい文章で短ければ数回で覚えられるので、それで覚えて終わりとしてしまうことです。このような音読の仕方では、暗唱した文章はすぐに忘れてしまい身につきません。また、逆に難しい文章になると、これまでと同じように簡単にはできないので、読むことが嫌になってしまうということが起こります。
暗唱の意義は、四つ考えられます。
第一は、記憶力を高める面があることです。暗唱していると、長く難しい内容でも自分には覚えられるという自信がつきます。これが、その後の勉強にとって大きなプラスになります。しかし、これは暗唱の二義的な意義です。
第二の最も大事な意義は、理解力を高めることです。比喩的にいうと、これまで、スモールステップの学習で、小骨を抜いて、火にかけて、やわらかくして、味つけをしたものを少しずつしか食べられなかった子供が、骨ごと丸ごとバリバリと食べる咀嚼力を身につけるというような理解力がついてくるのです。これが、英語、数学、国語などすべての教科の学習に通じていきます。
第三に派生的な効果として、理解のための語彙が、暗唱の反復によって表現のための語彙に進化するということがあります。読んで理解はできるが、自分では到底書くことも思いつかないというような言葉が、自分の表現として自然に使えるようになるのです。
第四にもう一つの派生的な効果として、発想力が豊かになるということが挙げられます。暗唱がスムーズにできるようになると、左脳で理解して音読していた言葉が、右脳に蓄積されたイメージから引き出されるようになります。このような暗唱をしていると、左脳では限定されていた単独の言葉が、右脳ではいろいろな異なるイメージに干渉されて豊かになってくるのです。ちょうど夢を見ているときのような自由奔放なイメージが言葉と一緒に出てきます。これが発想力です。
これらの意義を実現するために大事なことは、暗唱を、記憶することを目的とするのではなく反復することを目的として取り組むことです。その反復の回数の目安は、経験的に言うと100回です。しかし、100回同じ文章を音読するということは、現代ではなかなかできません。
言葉の森の暗唱の方法は、毎日10分間やっていくと、30回を1日、10回を4日、4回を7日から10日読むことになるので、結局900字のどの文章も100回ぐらい読むことになります。
最初から900字の文章を単純に100回読むということももちろんできなくはありませんが、それでは、子供にとってはかなり苦しい勉強になってしまいます。毎日10分間の勉強で1ヶ月で900字が暗唱できるという方法でやっていくことで、無理なく反復の学習ができるのです。
(この文章は、構成図をもとにICレコーダーに録音した原稿を音声入力ソフトでテキスト化し編集したものです)
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アメリカのドル印刷は、いずれ破綻を迎えると言われています。アメリカでは、ドルの崩壊と並行して、ハイパーインフレとデノミが起こる可能性があります。アメリカの国債を大量に保有している日本と中国は、どうなるのでしょうか。そのとき日本と中国は、アメリカのデノミに対して、連鎖的なデノミで対応するというのが一つのシナリオです。この結果、金融工学で作られたバブルは吹き飛び、あとには、傷ついた地道な経済が残る社会が到来します。
世界中がこのようなバブルの再崩壊に直面しているのに、日本は今、国内の財政赤字の帳尻を合わせることに汲々としているように見えます。日本は、世界の取り組みを上回る大きな勝負に打って出る必要があります。
そのための条件の一つは、国内の当面の団結です。民主党政権の政策には、外国人参政権の導入など疑問の残る点はありますが、現在すでに民主党政権が存在しているのであれば、その政権に協力していくことが国民のできることです。少なくとも、政策以外のことで政治家を失脚させるような暴走を認めてはならないと思います。また、民主党自身もマニフェストに明記していない法案を闇の法案として通すのではなく、公開の場で論議していく必要があります。そのために大事なことは、インターネットの自由な情報がもっと活用されることです。
さて、バブル再崩壊後の社会は、どのようになるでしょうか。長い混乱を経て、より人間的でより自給的な社会は来るでしょう。しかし、大事なのはその長い混乱の期間をどう生きるかです。
アメリカの衰退と入れ替わる形で、中国、インド、ブラジルが台頭すると言われています。中国の台頭の理由は、13億人という人口の需要があることです。これは、インドもブラジルも同様です。しかし、そこで作られる需要は、すでに欧米日の先進国でかつて作られたことがあった過去の需要です。
テレビ、パソコン、自動車、エアコンなどが、すでに日本で1億人のために作られたことのある商品ならば、それがその後13億人のために作られるというのは、旧時代の仕上げとしての意味しかありません。アメリカに代わって中国が台頭すると言いますが、それは、旧時代の中での覇権の交代に過ぎないのです
新時代は、新しい創造的な需要によって作られます。旧時代の3Cなどが主導する経済とは異なるもの、それは文化が主導する経済です。ここで連想するのは、江戸時代に育った日本の独特の高度な文化です。歌舞伎、浮世絵、陶磁器、アサガオの栽培、ウズラの飼育など、日本はユニークな文化を閉ざされた島国の中で発達させました。それらの文化を支えたものは、学力と個性を兼ね備えた人材の大衆的な教育でした。
これまでの時代は、例えば自動車が新しい需要を創造するという時代でした。自動車産業が創造的であった時代には、他社に負けない創造的な技術開発を行い、大きな創造的利益を得ることもできました。しかし、これからの自動車産業は、既存の部品を組み合わせれば作れるようなコモディティ化された商品になりつつあります。ここでは、限界的なぎりぎりの利益で商品が作られるようになります。そのような需要がたとえ13億人分あっても、それは広く薄い利益をかき集める少数の巨大な企業に担われることになるでしょう。それは、創造的な私企業というよりも社会のインフラを担う公企業のようなものになるはずです。
それに対して、文化の需要は、創造的であればその価値が限りなく高くなる可能性があります。この価値の高い創造する文化を作り出すところが、次の新時代を先導する活力のある地域になります。そこにいちばん近いのが日本です。
この新時代に向けて意識的に歩みを進めるために必要な第一のことは、文化への投資を促すことです。道路や橋を作るような公共投資ではなく、創造的な文化を奨励する文化オリンピックのようなものに投資する必要があるのです。
もちろん、建造物への投資であっても、日本の領海に多数のメガフロートを浮かべて日本の領土を広げるというような創造的な投資であれば価値はあります。大事なことは、これまでにない予測もつかないような創造的な投資を行うことです。それが財政投資を意味あるものにします。
文化オリンピックにおける金メダルのような呼び水によって、これから無数の才能が開花していけば、文化的な創造は次第に高度化していきます。そして、それらはやがて本物の創造文化として確立していきます。
これは例えば日本のアニメ文化の確立に見られるのと同じパターンです。日本のアニメは、すでに芸術の一つのジャンルを形成しています。同じようなことがこれから、植物の栽培、動物の飼育、新しい芸術の創造など、今の社会にまだ生まれていない分野で続々と生まれる可能性があります。これがバブルの崩壊した旧時代のあとに来る新時代のイメージです。
とすると、今緊急に行う第二のことは、創造性を育てる教育を広げていくことです。これからの知識産業時代における創造性は、学力の裏づけのある創造性でなければなりません。豊かな知識と技能、優れた理解力、そして個性的な創造性を育てるような教育がこれから求められてくるのです。これは、これまでの競争に勝つための教育ではなく、発表する喜びを感じるための教育です。
2010年の言葉の森の作文指導は、この学力と創造性を育てる教育に向けて作り上げていきたいと思っています。
(この文章は、構成図をもとにICレコーダーに録音した原稿を音声入力ソフトでテキスト化し編集したものです)
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天外伺朗(てんげしろう)さんの「GNH」という本を読みました。GNHとはグロス ナショナル ハッピネス(国民総幸福度)のことです。その中に、外発的動機ではなく内発的動機で学ぶ(又は遊ぶ)ことの大切さが書かれていました。
外発的動機の中には、競争したり強制したりすること以外に「褒める」ことも含まれます。褒めて、親や先生の求める方向に誘導するというのも、子供にとっては外発的動機で学ぶことなのです。
言葉の森では、生徒を「褒める」ことの大切さを述べています。この「褒める」は、天外さんの本に書いてある「褒める」と言葉は同じですが、中身がちょっと違います。
よく、生徒のお母さんに、「もっと『褒めて』(A)あげてください」と言うと、「でも、『褒める』(B)ところがないときはどうするんですか」と聞かれることがあります。
Aの「褒める」は、「認めてあげる」という意味の「褒める」です。Bの「褒める」は、いいことをした報酬としての「褒める」です。
よくできたから褒めるのであればだれでもやっています。しかし、その裏側には、あまりできないから叱るという発想があります。できているから褒めるのではなく、できていなくても褒める、つまりその子がそこにいることをそのままでいいと認めてあげることが本当の「褒める」なのです。
人間は、自分についてはどんなことをしていても、その自分を認めています。しかし、他人に対しては「○○してほしい」と要求し、その要求が満たされないと認めてあげることができないというところがあります。そうではなく、他人に対しても、自分を認めているのと同じように認めてあげることが褒めることなのです。
生徒の作文に関して言うと、先生の言ったことができていればもちろん褒めます。しかし、全然できていなくても褒めます。
書いている途中に近くを通りかかり、「おっ、もうそんなに書いたんだ」というのも褒め言葉です。それがただ2、3行書いている場合でもそうです。
「今日は元気そうだね」というのも褒め言葉です。
「字をていねいに書いているね」でも「おもしろそうな題名だね」でも、何でもいいのです。しかし、それは、字がていねいでなければ注意するとか、つまらない題名なら注意するとかいうことの反対にある褒め言葉ではありません。「君がそこにそうしていること自体が、先生は(又はお母さんは)すごくうれしいよ」というメッセージとしての褒め言葉なのです。
では、そういう褒め言葉だけで、みんな上達するのでしょうか。
そのとおりです。で終わってしまってもいいのですが(笑)、それではものたりないので、もう少し付け加えると、褒めることと並行してやっていくことは、力をつける工夫をすることです。言葉の森の作文指導の場合、それは読書や暗唱の自習です。褒めることと自習をさせることの両方を並行してやっていけば、勉強の仕方としては完璧です。
人間には、もともとよくなりたいという内的な動機があります。その内的な動機を発揮させるためには、その子をそのまま認めてあげて、更に実行しやすい方法を教えてあげればいいということなのです。
では、自習をさせるということは強制にはならないのか、というややこしい話が出てくる可能性があるので、そのことに関して説明すると、一つは、躾に関しては強制でも強要でも何でもありなのです。朝起きたらあいさつするとか、ご飯を食べるときはテレビは見ないとか、それぞれの家庭で決めたルールは強制しても守らせなければなりません。しかし、それは決めたルールを守るということですから、家庭によっては食事はテレビを見ながら楽しく食べるというルールにしているところもあるかもしれません。その場合は、それでいいのです。大事なことは、人間的な生活をするために決めたことは厳しく守らせるということです。「躾は厳しく、勉強(の結果としての成績について)は甘く」というのが、家庭教育で最も大切な原則です。
もう一つは、子供の様子を親が自分の目でよく見ていれば、何が必要で何が必要でないかは自ずからわかるということです。そうすれば、それが必要な強制か不要な強制かも自然にわかってきます。
ときどき、保護者の方からの相談で、「学校の先生にこう言われたのですが」「テストの成績がこうだったのですが」「作文の項目ができないのですが」「宿題が多くて大変なのですが」などと聞かれることがあります。先生もテストも宿題も勉強の目標も、すべて子供の外側にあるものです。そういう外側の枠だけを見て、肝心の子供自身を見ずにその外側の枠に子供をあてはめようとしている人が多いのです。
親が子供をよく見ていれば、「先生にどう言われても、成績がどうでも、宿題なんてできなくて、あなたは今のままで大丈夫」と自信をもって言えるようになります。また逆に、「だれからもどこからも言われないけど、このことに関してはあなたは絶対にこうしなきゃだめ」ということも自信をもって言えるようになります。その自信は、その子をよく見ることから始まるのです。
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「家庭でできる作文指導」ということを考えると、何度考えても出てくる結論は同じです。「家庭では、作文指導はしない方がいい」です。
作文は、他の教科よりも教える側の個性が強く出てきます。算数や数学で子供を教えていて、子供がなかなか理解しないのでつい怒ってしまったというようなことが一度でもある人は、作文の指導はまずしない方がいいと思います。
といっても、作文の指導は、最初の数回だけに限ればだれでも結構うまくできる面があります。
ちょっとしたアドバイス、例えば、「会話を入れる」「書き出しを工夫する」「擬声語や擬態語を使ってみる」「結びを工夫する」などテクニックを教えて、そのとおりに子供が書いてそれなりに上手に書けると、うまく教えられるように思います。
しかし、これが一ヶ月、二ヶ月と続くと、途中で教える側にも教わる側にも限界が出てきます。教える側は、新しいテクニックを教えることがなくなるので、次第に重箱の隅をつつくような「直す」アドバイスを始めるようになります。子供も、最初はものめずらしさで書いていたのが、次第に同じパターンに飽きてだんだんやる気がなくなってきます。その上に、「直す」指導ですから、そのうちに書くこと自体が嫌になってきます。
作文指導に熱心な先生に教わったクラスほど、作文嫌いの子が増えるという例があります。直す方は意気揚々と直すのですが、直される方はなぜ直されるのかわからない、そして、自分とは違う上手な子の作文ばかりが褒められる、となれば、やる気がなくならない方がおかしいのです。
では、家庭では何をしたらいいのでしょうか。
作文については、「教える」「直す」という発想で取り組むと、ほとんどの場合「教えすぎ」「直しすぎ」になり、教える方もくたびれ、教わる方も作文嫌いになります。
作文の力をつけるいちばん大事な方法は、「褒める」「読む力をつける」の二つなのです。
「褒める」はある意味で単純です。どんな文章を書いても、誤字があっても、ひたすらいいところを見て褒めてあげることです。実は、これが自分の子供になるとなかなか難しく、大体の親は、真っ先に間違いを直そうとします。間違いは、そんなに焦って直さなくていいのです。なぜ間違えたかというと、これまでの読む経験が浅いために間違って覚えているのですから、書いた結果を直すのではなく、読む経験を増やす方が先なのです。
作文は、植物で言えば「花」のようなものです。大人はつい「花」という結果だけを見て、その「花」をどうにかしたいと考えがちですが、実はその花が咲く前の葉の茂り方、根の張り方にいちばんの問題があるのです。
では、読む力をつけるためには、どうしたらいいのでしょうか。
一つは、読書です。毎日読書をしている子は、いざ作文を書くというときに、その読書で身につけた語彙や表現を自然に使うことができます。ですから、上達も早いのです。
小学校4年生までは、学校の宿題や塾の勉強などよりも優先して読書に取り組むことが必要です。読書によって読む力をつけた子は、勉強を始めるとその吸収力が違います。小学4年生までの勉強などは、読書力さえあればいつでも簡単に取り戻せます。
と言っても、読書の欠点は、あまりに読書というものの幅が広く、その結果にあてがないように見えることです。
そこで、読書と並行して行う家庭学習として、言葉の森では音読ということをすすめてきました。
ところが、この音読を学校などでも行うようになると、弊害がだんだんと出てきました。音読のいちばんの欠点は、子供が飽きるということです。音読は、同じものを繰り返し読むことに意義がありますが、子供が飽きないように、次々と新しい文章を音読させるようになると、結局ただ声を出して読んでいるだけで音読の効果は何もありません。それぐらいなら、黙読でたくさん読んだ方がずっといいのです。
そこで、言葉の森では音読ではなく暗唱をするようにしました。
暗唱は、音読と比べて達成感があります。しかし、これもやり方を工夫しないと、子供に負担を与えるだけの結果になります。暗唱のいちばんの問題点は、今の親や先生の世代が自分自身で子供時代に何かを暗唱したという経験がないために、子供に暗唱をさせようとすると見当違いの無理強いをしてしまうことがあることです。
(私の父はもう90近い年齢ですが、先日話のついでに、「今教室で子供たちに暗唱をさせているんだ」と言うと、「それはいい」というようなことを言っていました。たぶん、昔の人は、勉強の仕方の一つとして暗唱ということをごく自然に行っていたので、その仕方も無理がなかったのだと思います)
暗唱の方法は、言葉の森が考案した暗唱用紙を使う方法がいちばんやりやすいと思います。この方法ならば、紙1枚だけで簡単に暗唱の回数を数えることができます。1日10分の暗唱で、1ヶ月で1000字近い文章をすらすら暗唱できるようになります。
年齢でいうと、小学校2、3年生ぐらいまでは、文章を数十回音読するだけですぐに暗唱ができるようになります。小学校4、5年生になると、大人と同じように理屈で覚えようとするのでなかなかスムーズに暗唱できなくなります。しかし、それでも回数を繰り返すことでだれでもできるようになるというのが暗唱という勉強法の長所です。
子供に暗唱をさせる場合は、親も自分の好きな文章を選んで一緒に暗唱をしてみるといいと思います。大人が暗唱の勉強をすると、子供の暗唱とはまた違って、発想が豊かになってくる面があります。これは、実際に体験してみると実感できると思います。
さて、小学生までは、読書や暗唱を中心に読むことに力を入れていけばいいのですが、中学生や高校生になると、子供自身が作文を評価してほしくなると思います。
今の教育のいちばんの問題は、文章を書くことがいちばん要求される中学生、高校生のころに文章を書く勉強がなくなることです。その理由は、先生が文章を評価する時間がとれなくなるからです。試みに、高校生が何十人も一生懸命書いた文章を評価する仕事を想像してみるとわかると思います。とても日常的にそういう仕事はできないとわかるはずです。
では、どうしたらいいかというと、一つの鍵は、文章の自動採点ソフトを使う方法です。言葉の森が開発した作文小論文自動採点ソフト「森リン」は、小論文の上手さを数値で評価します。日本ではまだ文章採点ソフトを中学や高校の作文小論文指導に使っているところはないようですが、これからこういう勉強法がもっと取り入れられるようになると思います。
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9月から生徒の清書を自動採点ソフト「森リン」で採点して表示しています。
これは、父母アンケートで、「作文力がどのくらい向上しているか知りたい」というご要望があったためです。
11月の清書について、各学年の森リン点が1位の生徒(その生徒がまだ1回しか森リン点を出していない場合はその次の順位の生徒)の点数推移グラフを見てみました。
その結果、10人中9人の生徒の作文力が向上していました。また点数が低下していた生徒についても、9月から11月の成績に限って見てみると、やはり作文力が向上していました。
森リンの点数における作文力の向上は、全生徒を平均すると年間2ポイントぐらいですから、短期間ではなかなか文章力の上達を実感しにくいと思います。しかし、これらのグラフを見ていただくとわかるように、真面目に勉強している子は作文力が確実に向上しています。
特に作文力の向上と相関が高いのが素材語彙の点数です。
これは、作文に書く語彙の種類が増えていることを示しています。
※森リン(もりりん)は、言葉の森が開発した作文小論文の自動採点ソフトで、人間の評価との相関が高いことで知られています。
▽小1の4位の生徒(グラフの赤い折れ線が総合点。以下同じ)
▽小2の1位の生徒
▽小3の1位の生徒
▽小4の1位の生徒
▽小5の1位の生徒
▽小6の1位の生徒
▽中1の1位の生徒
▽中2の1位の生徒
▽中3の1位の生徒
▽高の1位の生徒
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昨日の記事の続きです。
11月の森リン大賞(中2の部79人中)
玉露の語り
おむふ
姿を変えぬものが世にあるであろうか。朝、露草に淡くついていたはかなげな玉露も昼になり、陽光が強く照る刻限となるとどうだろうか。澄んだ灯明のごとき玉露はその名残すら残さず今そこに構えているのは青々とした太陽の息吹である。空のおぼろ月も、香炉の霞のような香りもいずれにせよ美しいとされるものはおぼつかずはかなげである。さらには、人の織り成した産物などにおいてはもはや幼き文鳥のよう。いくら飛べたといえどももろくはかなきものであろう。流行もまた同様のものなのではなかろうか。ちょっとした苗からたちどころにあらわれ道化師のようにひょうきんに広がり世に新参する。関心という富をおそろしくたくわえたいわば関心の金満家。そうして実った流行という穂とてこれまたはかないものである。風に煽られそよぐうちに気づいたら朽ち果て滅んでゆく。後にあるのは夜気のようなむなしき気。元来からこの穂にはなかみなどなかったのだ。関心というかりそめの想いであろう。 これぞ流行の行く末である。幾度もこの流行は吹き上がり、燃えに燃え灰となったのだ。本といったものも同じなのであろうか。もちろんそうであるが一口にそうともいえないのだ。古典というものがある。
ドストエフスキー、ファーブルだれもが一度は必ず耳にしたことがあるだろう。こういった古典こそ良きものである。古典は古いものといった意味ではない。昔から多くの人からの人気を博し長い間したしまれてきたものである。それ故、中身が豊穣につまった珠玉のものである。流行が移り行く川ならば古典はそのかわの源泉の清水とでもいおうか。その上流行をおってばかりではならないだろう。こういった話がある。星新一のものだ。ある新しい物好きな男がいた。彼はたいへんな財産家でもあり新しいものが作り出されたとなるとすぐさまとびついていた。中に入れるテレビ、などなど次々に取り入れていたのだ。そしてその集めた新しいものを自慢するのがなによりの生きがいだったのだ。そんな中でも彼はある一つに飛びついた。人を冷凍保存することによりはるか未来までその人を保存することができるというものである。いずれ、時がたてばこの冷凍マシンから出してもらい当人にとっては未来へ来たようなもの。彼はこれまたすぐさま飛びつき早速そのマシンに入ったのだ。そしてはるか未来にたどりついたのだ。だがそこは文明もおそろしく進んでいる。彼の生きがいである自慢がなにひとつできないのだ。それから何日か未来文明を彼が少し知った後、自分の後に冷凍マシンに入った人たちが今目覚めたという一報を耳にした。彼らにならこの未来文明を知っているということを自慢できるだろう。そうたかをくくっていたがこれまた失敗である。彼の入った冷凍マシンは彼が入った後改良され記憶装置といったものがついたのだ。それは冷凍マシンに入った人が目覚めた後時代に立ち遅れないように随時文明や世界の動きを眠っている間にも脳に送り込むというものである。すなわち彼はこの世で最も遅れた人となってしまったわけだ。 ここにあるようにすぐさま流行に飛びつくというのもあまり良いことではない。
だがこういったことわざがある。流れる水は腐らぬ。あまりに古典にこだわっていては感受性が腐ってしまうであろう。流行のものにも多大な価値があるだろう。いわば古典はふるいしきたりである。あまりに良質なものを求めていては流行の新たな世界観に目を向けることはできないだろう。その上流行のものというのは人をつなぐ潤滑油ともなりえる。流行の話を元に会話が広がったりと共通の話題をもつことができるだろう。古典ではだれもが知っているというのもごくわずかである。流行なら時代時代に様々なことをつくりあげていけるのだ。
今古典と流行のものをどちらが読むに値するか考えている自分が急にあほらしく思われてきた。自分はどうかしていたのだろうか。古典にも、流行にも述べてきたように多くの良さがある。だが本来選択すべきは自分が気にいったものなのではなかろうか。流行にせよ古典にせよ自分の気に入ったものを読むのがなによりだろう。それこそが真に心の泉となるはずだ。
順位 | 題名 | ペンネーム | 得点 | 字数 | 思考 | 知識 | 表現 | 文体 |
---|
1位 | ●玉露の語り | おむふ | 93 | 1713 | 76 | 83 | 100 | 84 |
2位 | ●交話機能の使い方 | 音楽大好き少年 | 85 | 1297 | 53 | 64 | 75 | 89 |
3位 | ●人間の会話 | サニー | 84 | 1102 | 54 | 66 | 76 | 87 |
4位 | ●古典は新しい! | いちごサクラ | 82 | 1209 | 52 | 59 | 68 | 90 |
5位 | ●適切な保護や管理 | ハーマイオニー | 81 | 1447 | 51 | 100 | 95 | 80 |
6位 | ●存在するもののつながり | 嵐ちゃん | 81 | 1897 | 54 | 69 | 87 | 83 |
7位 | ●生活とのバランス | 夏みかん | 81 | 979 | 51 | 68 | 72 | 89 |
8位 | ●心の交流と本題 | ショウ | 81 | 1015 | 52 | 60 | 67 | 93 |
9位 | ●保護を適切に使用しよう。 | コーギー | 79 | 1116 | 43 | 65 | 82 | 83 |
10位 | ●言葉の役割 | ポンピー | 79 | 1512 | 39 | 56 | 76 | 92 |
11月の森リン大賞(中3の部43人中)
人生の先輩
マロン
昔話には類話というものがあり,類話の多様性は人生の問題の解決方法の多様性を示している。人によっていろいろな生き方があり,それはそれなりに面白いものだ,と昔話の知恵は我々に語りかけてくるのである。
私は昔話からいろいろなことを学べるような生き方をしたい。「かさこじぞう」という昔話がある。売れ残った傘をおじいさんが地蔵にかけてあげる話だが,これは思いやり,優しさの大切さを示している。このように昔話は,人生において必要なことをたくさん含んでいるのだ。
また,日本の昔話によく登場するお年寄りの話は,人生のヒントになるようなものばかりである。「亀の甲より年の功」というように長年の経験を尊び,昔話を生かしていきたい。
そのためには,まず昔話から人生の教訓を読み取るように心がけることが挙げられる。
昔話は小さな子どもが読む,幼稚なものだと思われがちであるが,実はそうではない。昔話は一つの教科書であると私は思う。私は,「桃太郎」では仲間の大切さを,「赤いくつ」では謙虚な気持ちの大切さを学んだ。このように私たちは物語を読んでいくことによって,知らず知らずのうちに道徳的なことが身についてくるのである。だから昔話はもっと見直されるべきである。
日本では最近,昔話を広める動きも見られる。例えば,テレビアニメやバラエティー番組でも昔話は取り上げられているし,お菓子のおまけで小さな絵本がついていたりもする。せっかくのこうした動きを無駄にするのではなく,子どもも大人もそれを生かしていくべきではないだろうか。
また,昔話だけでなく,価値がないと考えられがちの古いものにも多くの意味がある。やはり,日本の伝統や知恵を身につけることは日本人として生きていくうえでの基本であると思う。その地方でつくられたものを売る「道の駅」では,お年寄りの作った和菓子が人気である。海外で学んだパテシェの作るケーキもおいしいが,伝統のあるお団子は,懐かしい味がして食べると落ち着く気がする。私は,昔話から,またお年寄から学ぶことは大切であり,先の代まで受け継いでいくべきだと思った。
第ニの方法としては,昔話の文化をしっかり保存していくことが挙げられる。近年,日本は小家族化が進み,お年寄と一緒に暮らしていない若者が増えている。これでは伝統が伝わりづらい。だから,学校や社会が,昔のことを生かせるような仕組みを作っていくことが必要である。私の小学校には茶道や詩吟の先生が来て教えてくれたし,通っていた珠算教室では,休み時間に先生がお手玉やけんだまで一緒に遊んでくれた。このように学校や会社も文化,技術の継承を積極的に取り入れるべきである。
「古代への情熱」の著者であり,ドイツの考古学者のシュリーマンは,子どもの頃に絵本で読んだトロイ戦争を信じ,独力でトロイの都や遺跡を発掘した。私たちも子どもの頃読んだ昔話やそこから学んだことを忘れてはならない。
確かに現代の最新の知識や技術を生かすことは大事である。医学などはそうでないと全く進歩しないし,流行の本を読むことは楽しく,新しいものは合理的で便利である。しかし一つ一つの昔話,お年寄りの話にはそれぞれ伝統と昔ながらの知恵,メッセージが詰まっている。「読書は人間を豊かにし,討議は人間を役立つようにし,文章を書くことは人間を正確にする」という言葉があるように,私たちはもっと昔話から生き方を学んでいくべきではないだろうか。昔話は私たちの人生における先輩であり,昔話の数だけ人生があるのである。
順位 | 題名 | ペンネーム | 得点 | 字数 | 思考 | 知識 | 表現 | 文体 |
---|
1位 | ●人生の先輩 | マロン | 89 | 1464 | 59 | 79 | 85 | 90 |
2位 | ●環境を守る前に | ☆shooting st | 86 | 901 | 69 | 78 | 86 | 92 |
3位 | ●自分の生きる意味 | きへあ | 83 | 1102 | 53 | 63 | 69 | 90 |
4位 | ●デジタル的、アナログ的 | 野球小僧 | 81 | 1055 | 57 | 91 | 99 | 83 |
5位 | ●模倣 | ゆうちゃり~ | 81 | 1042 | 46 | 72 | 72 | 93 |
6位 | ●清書 | うずら | 79 | 1057 | 49 | 82 | 89 | 87 |
7位 | ●昔話は道徳の本 | ゆりん | 79 | 917 | 47 | 60 | 71 | 86 |
8位 | ●思い出の引き立て役 | とまと | 78 | 984 | 47 | 59 | 64 | 87 |
9位 | ●才能の数 | ちこちこ | 77 | 859 | 47 | 61 | 69 | 84 |
10位 | ●まね | ちな | 75 | 769 | 46 | 59 | 68 | 90 |
11月の森リン大賞(高1高2高3社の部120人中)
方法への抵抗
PINK
レイジ・アゲインスト・ザ・マシーンというバンドは、あらゆる権力や制度に対して抵抗することをメッセージとしている一軒古臭いロックの定義を持ち続けているロックバンドだ。戦う相手は権力の末端で起こる暴力や、組織化された内部の理不尽な事態であり、またそれらを「機械」と名づけているのだ。ヴァレリーは「方法」が支配し偉大な個性は不要になると書いている。「方法」は誰にとっても反復不可能なものであり、その「方法」さえ用いれば、同じような結果に辿り着くのだ。我々の細部まで浸透しきった機械が、我々から個性を剥奪する方法なのだ。我々は、方法に抵抗し個体性を持ち続けるべきだ。
そのための方法として第一に、いわゆるマニュアルに頼らないことだ。たいていどんな物にも事にも、「取扱説明書」或いは「見本」たる物がついてくる。しかし、その手本や見本に頼りすぎると、自由に発想を広げ、試していく応用力や創造力が養われなくなってしまう。勉強でも、教科書に書いてある通りの解法を使えば問題が解けるのは当たり前だが、自分の脳味噌をフルに使用し、捻りに捻って考え出した解き方を実践してみるほうが後々自分の力となり返ってくるに違いない。そもそも、とりあえず数学の公式を覚えて当てはめてみたら合っていた、などという思考自体が頼り過ぎている。社会に出れば、公式に当てはまることばかりではないのだ。時には自分で考えて行動したり、計画を立てなければならない場合もあるだろう。マニュアルはあってないようなもので、個々に合わせて応用して(あるいは変えて)いかなければならない。料理においても、レシピ本に載っていた通りに作れば確実な味は作り出せるかもしれないが、いつまでたってもその一つ上の段階へ進むことが出来ない。「我が家の味」であったり、コクがあるいつもと違った美味しさなど、自力で辿り着く味があるはずだ。今でこそ自分が考えたレシピをインターネット上で公開するサービス等も存在するが、「オリジナル」を作り出す努力も必要なのだ。お手本にもたれ掛ったままでは、いつまで経っても成長が見られないのは言うまでも無いだろう。
第二の方法として、正しい結果よりも、そこに辿り着くまでの過程を重要視する社会を築くことだ。それが例え偶然であれ、結果が出ればそれで良しとする今までの社会の風潮を変えていかなければならない。世の中は結果を評価することに慣れすぎて、それまでの試行錯誤した過程を評価することにはなんら関心を抱いていない。競争化社会が当たり前の世の中はいわゆる「結果主義」なのである。大学受験でも、某有名国立大学に合格すれば賞賛され、失敗すれば慰められる。その「合格」という目標に向かって努力した姿勢は評価される割合が少ないのである。不合格は不合格で、いくらその人が「頑張りました」と言っても結果が変わってくるわけではない。だが、人間として大きく成長できたことに間違いは無いだろう。その成長を正当に受け止め、評価し合える社会にしていかなければならない。歴史に名を残す偉大な発明家エジソンは、「1+1はなぜ2になるのか」という疑問を持ったが、自分なりに考える生徒や若者を大事にする社会を作っていくことが必要なのだ。
確かに、今までの知識を活用していく事も効率を上げることに関しては重要かもしれない。結果を出すことも、企業や受験生らにとっては悩ましい問題でもあり目標でもあるだろう。しかし、我々は、ゴールに到達するために努力するのではなく、ゴールまでのプロセスにこそ真の目標があるのだ。(自作名言)方法に飲まれて個性を見失うくらいなら、自分らしさを大事にして生きていくほうがよっぽど人間らしい生き方なのだと私は思う。
順位 | 題名 | ペンネーム | 得点 | 字数 | 思考 | 知識 | 表現 | 文体 |
---|
1位 | ●方法への抵抗 | PINK | 91 | 1532 | 63 | 79 | 86 | 92 |
2位 | ●その広告は | ターミネーター | 88 | 1377 | 58 | 69 | 78 | 95 |
3位 | ●謙虚 | いすも | 87 | 1342 | 66 | 67 | 73 | 90 |
4位 | ●見せかけの道徳心 | キューピー | 86 | 1451 | 54 | 69 | 82 | 92 |
5位 | ●お家に仕えよ | カエル | 84 | 1059 | 62 | 61 | 74 | 96 |
6位 | ●古典と流行 | しんご | 83 | 1057 | 51 | 70 | 76 | 90 |
7位 | ●経験は最良の教師 | おめか | 82 | 1119 | 52 | 66 | 72 | 92 |
8位 | ●井から一歩飛び出せ | ピカチュウ | 80 | 923 | 49 | 74 | 79 | 84 |
9位 | ●昔話の研究を(感) | まいう | 79 | 1400 | 52 | 102 | 111 | 87 |
10位 | ●創造することば | コッペパン | 79 | 1006 | 48 | 59 | 68 | 87 |
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