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記事 726番  最新の記事 <前の記事 後の記事> 2024/11/28
新年の夢―作文文化を作り育てる as/726.html
森川林 2010/01/01 00:00 


 今年の夢の一つは、通学の言の葉クラブを全国展開することです。これは、暗唱暗写、短作文、付箋読書を中心にした寺子屋風の教室です。


 この教室の特徴は、単に教室で授業をするだけでなく、一つは、家庭学習と連携をしていくことです。だから、当然作文の勉強以外の全教科のアドバイスもすることになるでしょう。家庭での生活や勉強全体の中で位置づけて初めて暗唱や読書の自習が長続きするからです。


 そして、もう一つは、教室が地域と連携をしていくことです。具体的には、子供たちを地域ごとに紅白に分け、年に数回作文の発表会を行います。

 この作文の発表会では、子供たちがそれまでに書いたいちばんいい作文に、音楽、絵、写真、パフォーマンス、笑いなどを盛り込み、それを子供たちがみんなの前で作文スピーチとして発表します。このスピーチは当然子供たちが暗唱したものを発表するので、ただ原稿を棒読みするような形ではなく、いろいろな工夫ができます。紅白に分けるのは、それぞれの組の先輩が後輩に演出をアドバイスするためです。

 発表会は、晴れた日に近くの公園で、ちょうどお花見のような感じで行います。父母や近所の人が集まって酒盛りをする中(酒盛りはしなくてもいいのですが)、子供たちが一人ずつ自信の作文を発表します。そして、最後に、子供たち全員にその作文の内容に合ったユニークな賞状を渡します。


 作文教育によって、国語力もつき、作文力もつき、読書力もつき、学力も向上します。しかし、それらは作文の勉強の副産物です。作文教育の本当の価値は、日本に作文文化を作ることにあります。

 学ぶことが、いい成績を取ったり試験に合格するためのものであった時代は終わりつつあります。それらは結果として実現することであって、学ぶことの本当の意義は、人間の幸福、向上、創造、貢献を実現することにあるのです。その一つの形として、作文文化を日本に作り、育てていきたいと思っています。


 今年は、通信の言葉の森と並行して、通学の言の葉クラブを運営してくださる方を募集する予定です。

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記事 725番  最新の記事 <前の記事 後の記事> 2024/11/28
未来の心身教育 as/725.html
森川林 2009/12/31 11:06 


 これからの教育は、教室を出て、家庭や社会と連携する必要があります。家庭における家庭学習の文化と、社会における学習発表の文化に結びつく必要があるのです。これは、教育というよりも教育文化というものになるでしょう。


 教育の分野も、新しい定義で再編成されます。第一は、哲学です。これは、現在の作文や国語の教科に対応します。ものごとを考える力を育てる分野です。第二は、科学です。これは、現在の英語、数学、理科、社会などほとんどすべての知識的な教科に対応します。理科や社会は、物理、化学、生物、日本史、世界史、地理、政治経済などに分ける必要はありません。科学として全部まとめて学んでいけばよいのです。第三は、工学です。これは、現在の音楽、美術、技術家庭などに対応します。さまざまな道具を自分の手足のように自由に使う技能を身につける分野です。第四は、心身です。これは、人間の心と体を対象とするもので、現在の保健、体育と、昔の修身などに対応します。


 この心身の教育について考えてみます。

 心身の教育の目的は、健康と幸福です。健康で幸福でいつも元気に明るく生きる力を育てるのがこの教育の目指すものです。


 人間は、現実の中で生きています。人間にとっての現実とは、自分、身体、感情、感覚、言語、知識などです。

 これらの現実はあまりにも身近に密着しているものなので、普段は現実という意識なく過ごしています。言わば、現実があらゆる面で意識を上回っているので、すべてが現実であるかのように生きているのです。

 乳幼児のころは、現実がまだ弱く小さいので現実と意識は同じような水準にあります。しかし、人間は成長するにつれて、現実だけが意識以上の速度で強くたくましく成長していきます。そして、やがて現実がすべてであるような状態になり、安定した生き方をするようになるのです。

 しかし、年をとるにつれて、現実は次第に速度を弱めていきます。やがて、現実の速度に意識が追いつくようになり、意識と現実が再び同じような水準で共存していくようになります。


 心身の教育の方法は、現実に翻弄されずに、意識が現実に追いつき時には現実を超えるような力を身につけることです。

 例えば、「自分」という現実を超えるとは、どういうことでしょうか。それは、自分個人の小さいエゴイズムを超えて、他との調和の中で生きることです。それは、形式的な道徳教育が目指すような滅私奉公の倫理観ではありません。自分の意思としてごく自然に、自分を大事にするのと同じように他人や自然を大事にする気持ちを持つことです。

 「身体」「感情」「感覚」「言語」「知識」を超えるということも、同じように、それらに翻弄されずに、逆にそれらを自由にコントロールして生きる力を身につけることです。


 比喩的に言うと、心身の教育の目指す具体的な模範は、子犬のように生きる力をつけることです。子犬は、不眠症になったり、うつ病になったり、アルコール依存症になったり、何かを恨みに思ったり、後悔したり、絶望したり、生きることに不安を感じたりはしません。いつも、自分のありのままの状態に満足して生きています。主人が来れば喜び、遊んでくれれば更に喜び、えさに喜び、散歩に喜び、晴れていても雨が降っていてもただ今いること自体を喜んで生きているように見えます。この子犬の境地になることが、人間の目指す意識のあり方なのです。それは、別の比喩で言えば、高僧や仙人のような心境で生きるということと言えるかもしれません。


 では、高僧や仙人のような心境になれるなら、教育の目標はそれだけでもよいではないかという人がいるかもしれません。

 そうではありません。言語による哲学、知識による科学、道具と手足による工学は、人間が人間らしく生きていくのに欠かすことができないものです。なぜなら、この言語、知識、道具と身体という不自由さの中に、リアルの創造があるからです。


 今、人類は大きな転換期にいるように思えます。

 かつて、クジラがモトクジラ(元クジラ)から進化したときのことを考えてみると、次のような状況が推測できます。。陸で生きていたモトクジラが、たまたま海に遊びに行って「海もいいか」と思って海に入ったわけではありません。ある朝起きてみると、モトクジラの周りの世界がすべて海になっていたのです。だから、モトクジラにはほかの選択肢など考えようもなく、一挙にクジラへと進化していったのです。


 今、人間の周りには海が広がっているように見えます。その海は、暴力と汚染と貧困と無知によるレッド・オーシャンの海です。そのことに人間が気がついたときに、その解決の可能性に向かって人間は大きく進化するように思えてなりません。

 しかし、そのような進化にいたるまでには多くの犠牲もあるでしょう。そこに、進化の前段階として意識的な教育の役割があるのです。

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記事 724番  最新の記事 <前の記事 後の記事> 2024/11/28
ハワイの「あお」先生から教室新聞 as/724.html
森川林 2009/12/29 16:30 
 ハワイで作文教室を開いている「あお」先生から、教室新聞が届きました。
 みなさんの中にも、ハワイでお正月を迎える方がいるかもしれませんね。


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記事 723番  最新の記事 <前の記事 後の記事> 2024/11/28
放任と干渉の間にある方法の教育 as/723.html
森川林 2009/12/29 10:21 


 かたや、サドベリー・スクールに見られるような放任の教育があります。もちろんこの放任は、自主性のための放任ですが。

 かたや、SAPIXの授業に象徴的に見られるような上手な授業があります。優れた教師による優れた授業で生徒を引っ張るという点で、これを干渉の教育と呼びます。もちろん、この干渉は生徒の意欲を引き出すための干渉ですが。


 この放任と干渉の間にあるのが、方法の教育です。

 江戸時代は、この方法の教育によって、全国に多数の寺子屋を生み出しました。全国に多数という点で、この方法の教育が必ずしも優れた教師や優れた授業を必要としていなかったことがわかります。

 また、当時の日本は世界最高の識字率を誇っていました。世界最高という点で、この方法の教育は優れた教育でした。優れていない教師による優れていない授業によって優れた教育が生まれるというのが方法の教育の特徴です。


 この方法は、マニュアルという考えに近いものですが、実は大きな違いがあります。


 天外氏の本で面白いことが書いてありました。オペレーターの教育で、従来の方法は応答の仕方を知識として教え、その方法を実際のビデオなどで見せて研修させるものだったそうです。しかし、こういうマニュアル的なやり方よりも、はるかに高い効果を上げたのが、オペレーターが相手の声に注意を集中して応答することだったそうです。

 マニュアルは、ある水準まで全員の力をすぐに引き上げることができます。しかし、そのマニュアルによる方法では、ある程度以上は顧客の満足度を上げられません。マニュアルの限界を超える方法は、心の持ち方のようなところにあるのです。


 江戸時代における方法の教育の具体的な形は、素読や暗唱や筆写などでした。この方法は現代でも同じように有効です。

 しかし、現代は江戸時代と違って、この方法の教育を阻害する要素がきわめて大きくなっています。その阻害するものは、人工的な環境です。

 江戸時代の子供たちは、勉強以外の時間で、鬼ごっこをしたり虫捕りをしたり家の仕事の手伝いをしたりして過ごしていたでしょう。このような環境は自然の環境です。自然と関わることによって人間は成長します。

 現代の子供たちは、勉強以外の時間で、ゲームをしたりテレビを見たり漫画を見たりしています。この環境は人工のバーチャルな環境です。バーチャルな環境は、面白さという点では自然の環境に似ているか、時には自然の環境以上に魅力的なものですが、人間は人工的なものとの関わりによってはあまり成長しないのです。

 なぜかと言えば、人工的な環境はその見た目の豊かさに比べてきわめて底の浅いものだからです。例えば、実際の魚つりであれば、なかなか釣れない単調な時間があるものの、人間の工夫は無限に広がります。ゲームの魚つりではこの反対に、次々といろいろなものが釣れる刺激はありますが、人間の工夫はゲームのプログラムで作られた狭い範囲のところまでしかできません。

 この人工的な環境がマニュアルの環境です。方法が自然の環境を前提としたものであるのに対し、マニュアルは人工の環境を前提にしたものです。もちろん、この区別は相対的なものですから、より自然に近い人工的な環境というものは当然あります。しかし、大きく分ければ、方法の教育とマニュアルの教育があり、方法の教育を阻害するものは、この方法によく似たマニュアルの教育なのです。そして、このマニュアルの教育の一つが、問題集やドリルという教材に依拠した勉強です。


 昔の子供たちは、学校から帰るとすぐに遊びに行きました。日曜日などは朝から晩まで一日中遊んでいました。今の子供の多くは、学校から帰ったあとも、塾に行ったり家で勉強をしたりしています。しかし、その勉強はほとんどすべて人工的な環境によるマニュアル的な勉強です。だから、今の子供たちは昔の子供たちに比べて、勉強の量だけが増えて、頭がよくなってはいないのです。


 対策は、次のようなものになると思います。


 まず、人工的な環境を制限することです。これは、テレビやゲームやインターネットの時間をコントロールすることです。禁止するということではなく、子供が自らコントロールするということが大事です。そして、この人工的な環境には、人工的な勉強も入ります。特に低学年における問題解答方式の勉強は、ゲームと同じような人工的な要素を持っています。

 その一方で、方法の教育を行うということです。単なる放任でもなく、塾に任せる干渉の教育でもない方法の教育とは、家庭における読書、対話、暗唱などの教育です。

 この二つの取り組みによって、子供たちの生活はもっとゆとりのある楽しいものになり、同時に子供たちは今よりももっと確かな学力をつけていくと思います。

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教育論文化論(255) 

記事 722番  最新の記事 <前の記事 後の記事> 2024/11/28
教育の三角形―家庭での自習→教室での勉強→発表の場 as/722.html
森川林 2009/12/28 11:08 


 天外伺朗氏の「教育の完全自由化宣言!」を読みました。

 アメリカのサドベリー・バレー・スクールという学校では、子供が自分で勉強したくなるまで自由に過ごすそうです。しかしやがて子供たちは、自ら学ぶことを欲するるようになります。同じような勉強法は、シュタイナー学校でも行われています。子供たちの自主性を尊重した教育を行っているのです。

 しかし、私は、これがもちろん理想的な学校のスタイルだというのではないと思います。サドベリーの学校では、あまりに方法論がなさすぎます。すぐれた教師が指導の負担をいとわずに子供たちを教えるのでなければ、うまく運営できません。また、シュタイナー学校は、天外氏も述べているように、シュタイナーの個人的な独創によって運営されているために、その後の改良が難しいのではないかと思います。

 しかし、他律的な勉強ではなく、自らの意思で取り組む勉強というのは、教育を考える場合の最も根本的な前提になります。

 昔の子供たちは、自ら学ぶ意欲を持つまで自由に過ごすという点では、ほとんどがそうでした。現に天外氏も、小学3年生のときに神奈川県の茅ヶ崎に引っ越してから、中学2年生まで遊び放題の生活をしたそうです。また、高校でも大学でも、ジャズとグライダーに熱中し、そのため卒業するときの成績は下から2番目だったといいます。それが卒論だけはいいものを書いたので、当時まだ有名ではなかったソニーに入社できました。その後の天外氏の独創的な業績は、多くの人が知っているところです。


 先日、SAPIXのすぐれた授業が紹介されている本を読みました。SAPIXでは、高度な質問と早いテンポで知的なゲームをしているような楽しい授業が行われているそうです。しかし、SAPIXの卒業生が、よく小学校6年生の受験のときがいちばん楽しかったという述懐をしているのを見ると、勉強というものをそういうゲーム的なものとして消化した体験がその後の勉強観に影響しているのだと思います。


 昔の四谷大塚は、日曜テスト形式という勉強法で、家庭で学習をしたものを日曜日にテストするという形でした。しかしその後、学習塾に勉強をすべて任せるスタイルの教室が出てきました。学習塾によっては、家では何もしなくていいので、その代わり、夜遅くまで塾で勉強するという教え方をしているところもあります。

 学習塾で勉強をして、家庭は食べて寝るだけ、というのは一見能率的に見えますが、しかし長い目で見ると、子供たちの全人的な成長にはマイナスになります。家庭学習の文化と結びついて、初めて教室や学校での勉強が生きてくるのです。

 言葉の森で今考えているのは、(1)教室での勉強(2)家庭での自習(3)そして教室と家庭を結ぶ発表の場、という三角形の中で子供たちを育てていくことです。

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記事 721番  最新の記事 <前の記事 後の記事> 2024/11/28
受験作文の傾向は、題名課題から感想文課題へ as/721.html
森川林 2009/12/27 10:59 


 受験に作文を課す学校が増えています。受験作文は、最初の年は単純な題名課題で始まることが多いようです。例えば、「これまでの学校生活での思い出」とか「私がこれまでにがんばったこと」などの題名です。

 こういう題名でも、受験生の作文力には差が出ますが、すぐに受験生が課題に対して準備をしてくるようになります。すると、ほとんどの受験生の実力が向上するので、採点する側は点数をつけるのが大変になります。

 そこで、次第に難しい課題になります。題名課題よりも難しいのは感想文課題です。文章を読ませてそれに対して感想を書かせる形は読解力も要求されるので、題名課題のときよりも書くのが難しくなります。しかし、それでも要領のいい生徒は、課題文のキーワードを引用しつつ自分なりに準備してきた材料で書いていくことができます。

 本当は、作文の課題を一つだけではなく複数出すようにすれば、実力の差はもっとはっきり出てきます。しかし、そのやり方では採点の負担が大きくなりすぎます。昔、東大の後期試験で小論文課題を出していたことがありました。最初は単純な課題でしたが、だんだん文章を読ませる複雑な形になり、複数の小論文を書かせる形になりました。しかり、やはり採点者の負担が大きすぎたのでしょう。この小論文試験は廃止になりました。

 感想文の課題をもっと難しい形にしたものが、複数の文章を読ませて感想を書かせる感想文です。Aの文章とBの文章を読ませて、その両者に共通する点と相違する点を自分なりに整理してかくのですから、内容を理解していないと書けません。また、ただ一つの文章を読ませる感想文課題では、キーワードを入れれば何とか書けますが、複数の文章課題ではキーワードだけではなく複数の文章の内容を組み合わせないと書けません。この複数の文章による感想文課題が、受験作文の主流になっています。

 しかし、これも、実は採点する側にとっては負担の大きい試験なのです。600字ぐらいの短い受験作文の答案を次々と読んでいると、人間は、長いひとまとまりの文章を読んでいるときよりもはるかに疲労します。それを、文章の表現力についてだけではなく、そこに盛り込まれている内容が課題に合っているかどうかまで含めて読むとなると、その負担は更に大きくなります。


 私が考えるいちばんいい方法は、受験で作文を書かせるのではなく、あらかじめ作文検定のようなもので作文力を認定しておくというものです。

 しかし、その作文検定は客観的な評価が出せるものでなければなりません。そこで使うのは、文章の自動採点ソフト「森リン」です。ソフトが採点するのですから、ソフトの裏をかいて点数を上げようとする人が必ずいます。しかし、そういう弊害はソフトを改良することによってすぐに対応することができます。

 人間の採点は、裏をかくようなことはしにくいのですが、採点する人の主観によって大きな差が出ます。同じ人が気分が違うときに採点するだけでも違いが出てきます。正確さを期そうとすれば、1人の採点者が同じ日に数百人の採点をまとめてする必要がありますが、そういうことはまず不可能です。

 ソフトの採点による誤差は、試験の回数を重ねれば、無視していいぐらいのものになっていきます。作文検定で何級を取得したかということが入試の基準になれば、作文小論文の導入はもっと容易なものになっていくと思います。


 さて、複数の感想文課題に対する書き方はどのようにしたらいいのでしょうか。以下の説明は、ちょっとレベルの高い書き方です。

 AとBの二つの文章があったとします。

 二つの文章が共通している話題をCと考えます。


┏━C━┓
┃A・B┃
┗━━━┛


 Cという分野に関して自分の考えcを決めます。

 Aの文章のキーワード(又はキー概念)をaとします。

 Bの文章のキーワードををbとします。

 作文は、自分の考えであるcを通常の題名課題を書くのと同じ要領で、「説明→展開1→展開2→まとめ」と書いていきます。

 その展開1と展開2の部分にaとbを盛り込みます。

 つまり、作文の中心になるのは自分の考えcであり、そのcを補強するものとしてaとbを使うという考え方です。

 こういう書き方はレベルが高いので、採点する側にそのように書いたということがわかるようにする必要があります。そのために、AとBの文章のキーワードを意識的に使っていくのです。

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記事 720番  最新の記事 <前の記事 後の記事> 2024/11/28
暗唱の目的は記憶ではなく反復 as/720.html
森川林 2009/12/25 12:41 


 暗唱の自習や音読の自習は、親がかつて子供時代にしたことのないものです。これが、九九などの学習との違いです。このため、子供の実態に合わないやり方をしてしまいがちです。

 特に暗唱は、その暗唱という言葉から、覚えることが目的だと思われがちです。覚えることが目的で、その方法として反復があると考えてしまうのです。すると、反復という方法は、手段であって、何しろ覚えればいいということになります。そして、理屈で覚えようとしてなかなか覚えられないから挫折するというのが、中学生高校生や大人に多いパターンです。

 また、小学校の低中学年に多いパターンとして、やさしい文章で短ければ数回で覚えられるので、それで覚えて終わりとしてしまうことです。このような音読の仕方では、暗唱した文章はすぐに忘れてしまい身につきません。また、逆に難しい文章になると、これまでと同じように簡単にはできないので、読むことが嫌になってしまうということが起こります。


 暗唱の意義は、四つ考えられます。

 第一は、記憶力を高める面があることです。暗唱していると、長く難しい内容でも自分には覚えられるという自信がつきます。これが、その後の勉強にとって大きなプラスになります。しかし、これは暗唱の二義的な意義です。

 第二の最も大事な意義は、理解力を高めることです。比喩的にいうと、これまで、スモールステップの学習で、小骨を抜いて、火にかけて、やわらかくして、味つけをしたものを少しずつしか食べられなかった子供が、骨ごと丸ごとバリバリと食べる咀嚼力を身につけるというような理解力がついてくるのです。これが、英語、数学、国語などすべての教科の学習に通じていきます。

 第三に派生的な効果として、理解のための語彙が、暗唱の反復によって表現のための語彙に進化するということがあります。読んで理解はできるが、自分では到底書くことも思いつかないというような言葉が、自分の表現として自然に使えるようになるのです。

 第四にもう一つの派生的な効果として、発想力が豊かになるということが挙げられます。暗唱がスムーズにできるようになると、左脳で理解して音読していた言葉が、右脳に蓄積されたイメージから引き出されるようになります。このような暗唱をしていると、左脳では限定されていた単独の言葉が、右脳ではいろいろな異なるイメージに干渉されて豊かになってくるのです。ちょうど夢を見ているときのような自由奔放なイメージが言葉と一緒に出てきます。これが発想力です。


 これらの意義を実現するために大事なことは、暗唱を、記憶することを目的とするのではなく反復することを目的として取り組むことです。その反復の回数の目安は、経験的に言うと100回です。しかし、100回同じ文章を音読するということは、現代ではなかなかできません。

 言葉の森の暗唱の方法は、毎日10分間やっていくと、30回を1日、10回を4日、4回を7日から10日読むことになるので、結局900字のどの文章も100回ぐらい読むことになります。

 最初から900字の文章を単純に100回読むということももちろんできなくはありませんが、それでは、子供にとってはかなり苦しい勉強になってしまいます。毎日10分間の勉強で1ヶ月で900字が暗唱できるという方法でやっていくことで、無理なく反復の学習ができるのです。


(この文章は、構成図をもとにICレコーダーに録音した原稿を音声入力ソフトでテキスト化し編集したものです)

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暗唱(121) 

記事 719番  最新の記事 <前の記事 後の記事> 2024/11/28
2010年の抱負―世界の未来と子供の教育 as/719.html
森川林 2009/12/24 02:25 


 アメリカのドル印刷は、いずれ破綻を迎えると言われています。アメリカでは、ドルの崩壊と並行して、ハイパーインフレとデノミが起こる可能性があります。アメリカの国債を大量に保有している日本と中国は、どうなるのでしょうか。そのとき日本と中国は、アメリカのデノミに対して、連鎖的なデノミで対応するというのが一つのシナリオです。この結果、金融工学で作られたバブルは吹き飛び、あとには、傷ついた地道な経済が残る社会が到来します。

 世界中がこのようなバブルの再崩壊に直面しているのに、日本は今、国内の財政赤字の帳尻を合わせることに汲々としているように見えます。日本は、世界の取り組みを上回る大きな勝負に打って出る必要があります。
 そのための条件の一つは、国内の当面の団結です。民主党政権の政策には、外国人参政権の導入など疑問の残る点はありますが、現在すでに民主党政権が存在しているのであれば、その政権に協力していくことが国民のできることです。少なくとも、政策以外のことで政治家を失脚させるような暴走を認めてはならないと思います。また、民主党自身もマニフェストに明記していない法案を闇の法案として通すのではなく、公開の場で論議していく必要があります。そのために大事なことは、インターネットの自由な情報がもっと活用されることです。

 さて、バブル再崩壊後の社会は、どのようになるでしょうか。長い混乱を経て、より人間的でより自給的な社会は来るでしょう。しかし、大事なのはその長い混乱の期間をどう生きるかです。

 アメリカの衰退と入れ替わる形で、中国、インド、ブラジルが台頭すると言われています。中国の台頭の理由は、13億人という人口の需要があることです。これは、インドもブラジルも同様です。しかし、そこで作られる需要は、すでに欧米日の先進国でかつて作られたことがあった過去の需要です。
 テレビ、パソコン、自動車、エアコンなどが、すでに日本で1億人のために作られたことのある商品ならば、それがその後13億人のために作られるというのは、旧時代の仕上げとしての意味しかありません。アメリカに代わって中国が台頭すると言いますが、それは、旧時代の中での覇権の交代に過ぎないのです

 新時代は、新しい創造的な需要によって作られます。旧時代の3Cなどが主導する経済とは異なるもの、それは文化が主導する経済です。ここで連想するのは、江戸時代に育った日本の独特の高度な文化です。歌舞伎、浮世絵、陶磁器、アサガオの栽培、ウズラの飼育など、日本はユニークな文化を閉ざされた島国の中で発達させました。それらの文化を支えたものは、学力と個性を兼ね備えた人材の大衆的な教育でした。

 これまでの時代は、例えば自動車が新しい需要を創造するという時代でした。自動車産業が創造的であった時代には、他社に負けない創造的な技術開発を行い、大きな創造的利益を得ることもできました。しかし、これからの自動車産業は、既存の部品を組み合わせれば作れるようなコモディティ化された商品になりつつあります。ここでは、限界的なぎりぎりの利益で商品が作られるようになります。そのような需要がたとえ13億人分あっても、それは広く薄い利益をかき集める少数の巨大な企業に担われることになるでしょう。それは、創造的な私企業というよりも社会のインフラを担う公企業のようなものになるはずです。

 それに対して、文化の需要は、創造的であればその価値が限りなく高くなる可能性があります。この価値の高い創造する文化を作り出すところが、次の新時代を先導する活力のある地域になります。そこにいちばん近いのが日本です。

 この新時代に向けて意識的に歩みを進めるために必要な第一のことは、文化への投資を促すことです。道路や橋を作るような公共投資ではなく、創造的な文化を奨励する文化オリンピックのようなものに投資する必要があるのです。
 もちろん、建造物への投資であっても、日本の領海に多数のメガフロートを浮かべて日本の領土を広げるというような創造的な投資であれば価値はあります。大事なことは、これまでにない予測もつかないような創造的な投資を行うことです。それが財政投資を意味あるものにします。

 文化オリンピックにおける金メダルのような呼び水によって、これから無数の才能が開花していけば、文化的な創造は次第に高度化していきます。そして、それらはやがて本物の創造文化として確立していきます。
 これは例えば日本のアニメ文化の確立に見られるのと同じパターンです。日本のアニメは、すでに芸術の一つのジャンルを形成しています。同じようなことがこれから、植物の栽培、動物の飼育、新しい芸術の創造など、今の社会にまだ生まれていない分野で続々と生まれる可能性があります。これがバブルの崩壊した旧時代のあとに来る新時代のイメージです。

 とすると、今緊急に行う第二のことは、創造性を育てる教育を広げていくことです。これからの知識産業時代における創造性は、学力の裏づけのある創造性でなければなりません。豊かな知識と技能、優れた理解力、そして個性的な創造性を育てるような教育がこれから求められてくるのです。これは、これまでの競争に勝つための教育ではなく、発表する喜びを感じるための教育です。

 2010年の言葉の森の作文指導は、この学力と創造性を育てる教育に向けて作り上げていきたいと思っています。


(この文章は、構成図をもとにICレコーダーに録音した原稿を音声入力ソフトでテキスト化し編集したものです)

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手書きの作文と講評はここには掲載していません。続きは「作文の丘から」をごらんください。

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●小1から始める作文と読書
●本当の国語力は作文でつく
●志望校別の受験作文対策

●作文講師の資格を取るには
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