文章力は、客観的な評価がしにくいもので、採点者によって評価に差があることが当然と考えられてきました。
このため、作文指導は、教える側にとっては負担が大きく、教わる側の生徒にとっては学習の目標のつかめない、勉強しにくい教科となっていました。
言葉の森では、長年の作文指導の蓄積をもとに、文章力を自動的に採点するソフト「森リン」を開発しました。現在、米国では、やはり小論文の自動採点ソフトが中学の作文指導や高校の卒業試験などに使われています。森リンは、日本語の作文小論文を自動採点するソフトとしてこれから多くの教育機関で使われていくと思われます。
言葉の森の作文評価は、人間の手による評価を中心としつつ、この自動採点ソフト森リンの評価を併用して子供たちに客観的な目標を持たせるところに特徴があります。
毎月1回、言葉の森のほとんどの生徒が自分の作文をパソコンで入力し、この森リンによる評価を出します。ここで上位に載った作品は、文章力の点で優れていることはもちろんですが、内容的にも優れたものが多く、生徒の学習の励みとなっています。
https://www.mori7.net/oka/moririn_seisyo.php
特に、中学生や高校生は、学校で作文小論文の勉強をする機会がほとんどないの、自分の書いた文章がどれぐらいの実力かを見るのに森リンによる評価は大きな役割を果たしています。
作文指導を、自動採点ソフトのような客観的な指標にもとづいて行っている教室は、全国でも言葉の森だけです。
この本の紹介で「サイズ」と「時間」という一見何の交わりもなさそうな単語が、実は密接に関係していると書かれていた。サイズが違うと俊敏さが異なり、寿命も等しくならない。しかし、一生の間に心臓が打つ総数や体重あたりの総エネルギー数は、サイズによらず一定である。よって、生理的・感覚的な時間はいかなる生物においても等しいというのだ。私はその著者の主張に強い疑問を抱いた。我々人間が感じている時間は唯一絶対不変のものだと信じて疑わなかったからである。また1学期で学習した生物の知識を活かせばより深く、正確に内容を理解できると感じた。以上のようなことがきっかけとなり、この評論を選択した。
科学的な根拠を用いて論理的に生物の仕組みを導いていたこの本から、次のようなことを学んだ。まず時間は体重の1/4乗や体長の3/4乗に比例するということだ。また心臓が一回打つエネルギー量と一生の間の総エネルギー量は、体重に依存することなく一定である。よって、短命な命は激しく燃え尽きるといえる。これは、生物は各々のサイズに応じて、異なる時間の単位すなわち生理的な時間が存在することを意味している。我々には物理的な時間だけが絶対だという思い込みがあるが、それはいわば、人間だけの決めごとである。物理的な時間ではネズミはゾウよりずっと短命だ。ネズミは数年しか生きないが、ゾウは100年近く生きる。しかしもし心臓の鼓動を寿命の基準として考えるなら、ゾウもネズミも全く同じだけ生きて死を迎えることになる。物理的な寿命が短いといったって、一生を生き残った感覚はネズミもゾウも同じなのだ。
そして島に隔離されると、サイズの大きい動物は小さくなり、サイズの小さい動物は巨大化するという、島の法則がある。これは人の事象に当てはまりそうである。具体的には強靭な大思想が育ってきた大陸と、庶民のスケールが大きい日本という島国だ。
サイズを考えることは人を相対化して眺める効果がある。私たちの常識を当てはめて解釈してきたのが、これまでの科学や哲学であった。物理や科学はヒトなりの自然の解釈であり、また哲学は人間の頭の中を覗くばかりだから、当然相対化することはできない。しかし、生物学によって初めてヒトという生き物が自然の一部として扱われるようになった。そして結局は物理的な時間はヒトのエゴイズムであり、ヒトや他の生物の理解を妨げる可能性があると学んだ。
関東人の私が言うのもなんですが豊中や吹田に長年住んでいる人間がよもや堺市の場所も分からないという事は教養レベル云々の話を差し引いても普通は考えられないように思います。しかしその人の居住地が府の中心から北に結構離れている若い人なら、例えば難波などに遊びに行く途中の街の地名というだけで頭によく入っている場合もあろうかと思える一方 そこから更に遠ざかって行く方面の事は案外知らなかったりするのではないかと思いました。それが他府県から越して来たような人ならなおの事に私には思えます。
しかしこれが逆に関空をよく使う人間であれば堺市の場所がどこか知らないはずはないでしょう。関空はあくまで例えですが、自分が関わらない場所についての知識はたとえ同じ府県内の事であってもなんとなくボンヤリしてしまう事はあるのではないでしょうか。
蛇足ですが、堺市の「サカイ」という音から「境」「県境」を無意識に想像している人も地理のイメージがボンヤリしている人の中にはいたりしませんか。これは私が全然知識の無い関東の人間だったからなのかもしれませんが、自分が大阪に進学でやって来た当初本当に堺市のことを「境の市」だと頭の中でイメージしていた事がありました。
1月4日からいよいよ新学期の授業がスタートしました。
今年は、課題フォルダの中に、暗唱用の長文が入っています。
1月から、毎週、その生徒の暗唱の進み具合に応じて次の暗唱範囲を先生が指示するようにしました。また、暗唱の経過を山のたよりに表示するようにしました。これで、暗唱の自習も更にやりやすくなると思います。
12月4週現在の暗唱の取組状況を見てみると、新しい暗唱の方法で105人の生徒が900字暗唱を達成しています。暗唱の自習オプションを選択した人が生徒の約半数504人なので、選択した人の約20%の人がほぼ完璧に900字の暗唱ができたことになります。
12月は、毎週300字を暗唱するという固定的なペースで暗唱の練習をしたので、生徒によっては事情によってできなかった週もあったと思います。1週だけでもじっくり練習できなかった週があると、最後の900字暗唱も当然できません。その意味で、固定的なペースでの暗唱は、生徒にみなさんにとってかなり苦しかったと思います。しかし、その中でこの数字ですから、もう何週間かあれば900字暗唱が完璧にできたという人は、かなりの割合にのぼったと思います。
1日わずか10分の時間といっても、毎日その10分の時間を確保するのはかなり大変です。初めての900字暗唱に取り組んだ生徒、保護者、講師のみなさんの努力を、大いに評価したいと思います。
さて、1月の暗唱からは、もっと柔軟な取り組みになります。うまく暗唱できなかった週は、次の週にその暗唱の範囲を持ち越します。このやり方であれば、人によってかかる時間は違っても、ほぼ全員が900字暗唱を達成できるようになると思います。
現在、通学教室でも暗唱の自習を行っていますが、自習に取り組んでいるほぼ全員が900字暗唱を達成しています。
900字の暗唱をすると、生徒本人もちょっと感動します。また、聞いている先生も感心します。その点で、暗唱という勉強法は、音読という勉強法よりも達成感がある勉強になると思います。
では、暗唱にどういう効果があるかというと、それは、暗唱しにくい箇所を見てみるとよくわかります。
その学年の生徒にとって難しいと思われる語彙や表現は、なかなか暗唱できません。小1や小2の生徒の暗唱を聞いていると、例えば今回の長文で、「市民会館」などという言葉は出てきにくい面がありました。中学生の暗唱を聞いていると、「潜在的な」という言葉でつっかえる人がいました。
通学の中学生は、一時英文の暗唱をしていましたが、これは日本語の文章の暗唱の何倍も時間がかかるので、ほとんどの生徒が最後まで暗唱できませんでした。
暗唱できない言葉とは、読むときの理解はできるが、書くときの表現としては思い浮かばないという言葉です。それだけ、その語彙になじんでいないということです。暗唱というのは、日常生活ではなじんでいない言葉を、自分の自由に使える言葉にするという効果があるのです。
もちろん、ある文章を暗唱したから、すぐに作文が上手になるというわけではありません。読んだ文章のジャンルと書く文章のジャンルは、当然異なっているからです。しかし、暗唱した文章と同じようなテーマで作文を書くことになったときは、暗唱した文章の語彙や表現が自然に作文の中に生かされてくると思います。
昔は、使える語彙というものは、その子の長い読書生活や言語生活の中で、自然に成長していくという面がありました。
アメリカにグリーンバーグの開いた自由な学校があります。ここでは、子供たちには何も教えません。しかし、子供たちは自然に自分から学ぶ意欲を持つようになり、読み書きも計算も学習するようになるそうです。
しかし、現代の社会にこの自然の成長をそのままあてはめることはできません。それは、現代は人工的な環境があまりに大きくなっているからです。例えば、テレビ、ゲーム、漫画、インターネットの世界は、かなり長期間にわたって人間の自然な成長を停滞させることができます。
自然な環境では、どんな遊びでも熱中したあとは次第に飽きて、新しい遊びに進化していくという面があります。しかし、人工的な環境では、熱中していないのに飽きないという状態が長い期間続きます。
言葉の乏しい子は、「かわいい、ださい、きもい、うざい」など、言葉というよりも記号のようなもので自分の感情を表現することがあります。この言葉の貧困さの裏返しとして流行語が盛んに使われるようになります。
使える語彙の豊かさとは、絵をかくときの絵の具の豊かさのようなものだけではありません。絵の具の数が少なくても、その少なさに応じて上手な絵をかくことはできます。言葉もその使える数の少なさに応じて上手な文章を書くことはできます。
しかし、言葉には、表現の道具としての役割とともに、認識の道具としての役割もあります。使える言葉の数が少ないというのは、単に言い回しの数が少ないというだけではなく、ものを認識するときの見方が浅くなるということでもあるのです。
暗唱によって豊富な語彙を身につけた子は、今すぐには暗唱の効果が自覚できないとしても、やがてその語彙が必要になった場面に遭遇したときに暗唱の効果を実感すると思います。