文章力は、客観的な評価がしにくいもので、採点者によって評価に差があることが当然と考えられてきました。
このため、作文指導は、教える側にとっては負担が大きく、教わる側の生徒にとっては学習の目標のつかめない、勉強しにくい教科となっていました。
言葉の森では、長年の作文指導の蓄積をもとに、文章力を自動的に採点するソフト「森リン」を開発しました。現在、米国では、やはり小論文の自動採点ソフトが中学の作文指導や高校の卒業試験などに使われています。森リンは、日本語の作文小論文を自動採点するソフトとしてこれから多くの教育機関で使われていくと思われます。
言葉の森の作文評価は、人間の手による評価を中心としつつ、この自動採点ソフト森リンの評価を併用して子供たちに客観的な目標を持たせるところに特徴があります。
毎月1回、言葉の森のほとんどの生徒が自分の作文をパソコンで入力し、この森リンによる評価を出します。ここで上位に載った作品は、文章力の点で優れていることはもちろんですが、内容的にも優れたものが多く、生徒の学習の励みとなっています。
https://www.mori7.net/oka/moririn_seisyo.php
特に、中学生や高校生は、学校で作文小論文の勉強をする機会がほとんどないの、自分の書いた文章がどれぐらいの実力かを見るのに森リンによる評価は大きな役割を果たしています。
作文指導を、自動採点ソフトのような客観的な指標にもとづいて行っている教室は、全国でも言葉の森だけです。
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『旅』に目的地があるように、人生のさまざまな場面で『目標設定』は重要不可欠な要素と言えるでしょう。
皆さんは、今まで何度となく「目標を持ちなさい。」と言われた経験があると思います。また、「目標は設定したのだけれど、なかなか一歩を踏み出せなかった。」という人もいるのではないでしょうか。『目標設定』とは、実は一つ間違えるとモチベーションを下げてしまったり、失敗の体験がセルフイマジネーションを傷つけてしまったりする場合もあるほど、設定には注意を要するものです。
4月12日のNHK「おはよう日本」の番組内で、今月1日に行われた、がん研有明病院主催の「がん患者さんが歌う春の第九コンサート」が取り上げられていました。その内容は、ベートーベンの交響曲第九番合唱付きを、がんと宣告された患者さんに呼びかけ、がん治療と向き合いながら約80人の参加者が、1年をかけて練習して見事な歌声を披露したという内容です。5年前、私も大腸がんの摘出手術を上記病院でおこなったので、参加された患者さんの気持ちは大変良く理解できました。
さて、ここで正しい目標設定の重要なポイントを見いだすことができます。最も注意すべきことは、「頑張れば手が届く」=「努力により達成可能な最大値」に目標を設定することです。高すぎても、低すぎても目標としては適切とは言えないのです。そのためには、次の3つが必要条件になることをおさえておきましょう。
① 魅力のある目標であること
② 可能性がある目標であること
③ 具体的な目標であること
その上で、達成する期限を定めておきましょう。
上記のポイントを踏まえ、「がん患者さんが歌う春の第九コンサート」を見てください。
全てが当てはまっており、この成功が患者さんのさらなる生きる喜びにつながりました。
36期生の皆さん、行動を起こすのは自分自身です。本当に達成したいと思う目標をしっかりと考えて立て、一歩踏み出しましょう。そして、着実に歩んでください。皆さんの充実した高校生活を期待しています。
この本の紹介で「サイズ」と「時間」という一見何の交わりもなさそうな単語が、実は密接に関係していると書かれていた。サイズが違うと俊敏さが異なり、寿命も等しくならない。しかし、一生の間に心臓が打つ総数や体重あたりの総エネルギー数は、サイズによらず一定である。よって、生理的・感覚的な時間はいかなる生物においても等しいというのだ。私はその著者の主張に強い疑問を抱いた。我々人間が感じている時間は唯一絶対不変のものだと信じて疑わなかったからである。また1学期で学習した生物の知識を活かせばより深く、正確に内容を理解できると感じた。以上のようなことがきっかけとなり、この評論を選択した。
科学的な根拠を用いて論理的に生物の仕組みを導いていたこの本から、次のようなことを学んだ。まず時間は体重の1/4乗や体長の3/4乗に比例するということだ。また心臓が一回打つエネルギー量と一生の間の総エネルギー量は、体重に依存することなく一定である。よって、短命な命は激しく燃え尽きるといえる。これは、生物は各々のサイズに応じて、異なる時間の単位すなわち生理的な時間が存在することを意味している。我々には物理的な時間だけが絶対だという思い込みがあるが、それはいわば、人間だけの決めごとである。物理的な時間ではネズミはゾウよりずっと短命だ。ネズミは数年しか生きないが、ゾウは100年近く生きる。しかしもし心臓の鼓動を寿命の基準として考えるなら、ゾウもネズミも全く同じだけ生きて死を迎えることになる。物理的な寿命が短いといったって、一生を生き残った感覚はネズミもゾウも同じなのだ。
そして島に隔離されると、サイズの大きい動物は小さくなり、サイズの小さい動物は巨大化するという、島の法則がある。これは人の事象に当てはまりそうである。具体的には強靭な大思想が育ってきた大陸と、庶民のスケールが大きい日本という島国だ。
サイズを考えることは人を相対化して眺める効果がある。私たちの常識を当てはめて解釈してきたのが、これまでの科学や哲学であった。物理や科学はヒトなりの自然の解釈であり、また哲学は人間の頭の中を覗くばかりだから、当然相対化することはできない。しかし、生物学によって初めてヒトという生き物が自然の一部として扱われるようになった。そして結局は物理的な時間はヒトのエゴイズムであり、ヒトや他の生物の理解を妨げる可能性があると学んだ。
関東人の私が言うのもなんですが豊中や吹田に長年住んでいる人間がよもや堺市の場所も分からないという事は教養レベル云々の話を差し引いても普通は考えられないように思います。しかしその人の居住地が府の中心から北に結構離れている若い人なら、例えば難波などに遊びに行く途中の街の地名というだけで頭によく入っている場合もあろうかと思える一方 そこから更に遠ざかって行く方面の事は案外知らなかったりするのではないかと思いました。それが他府県から越して来たような人ならなおの事に私には思えます。
しかしこれが逆に関空をよく使う人間であれば堺市の場所がどこか知らないはずはないでしょう。関空はあくまで例えですが、自分が関わらない場所についての知識はたとえ同じ府県内の事であってもなんとなくボンヤリしてしまう事はあるのではないでしょうか。
蛇足ですが、堺市の「サカイ」という音から「境」「県境」を無意識に想像している人も地理のイメージがボンヤリしている人の中にはいたりしませんか。これは私が全然知識の無い関東の人間だったからなのかもしれませんが、自分が大阪に進学でやって来た当初本当に堺市のことを「境の市」だと頭の中でイメージしていた事がありました。
貴校で学びながら明確にしていきたいと思います。
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1月4日からいよいよ新学期の授業がスタートしました。
今年は、課題フォルダの中に、暗唱用の長文が入っています。
1月から、毎週、その生徒の暗唱の進み具合に応じて次の暗唱範囲を先生が指示するようにしました。また、暗唱の経過を山のたよりに表示するようにしました。これで、暗唱の自習も更にやりやすくなると思います。
12月4週現在の暗唱の取組状況を見てみると、新しい暗唱の方法で105人の生徒が900字暗唱を達成しています。暗唱の自習オプションを選択した人が生徒の約半数504人なので、選択した人の約20%の人がほぼ完璧に900字の暗唱ができたことになります。
12月は、毎週300字を暗唱するという固定的なペースで暗唱の練習をしたので、生徒によっては事情によってできなかった週もあったと思います。1週だけでもじっくり練習できなかった週があると、最後の900字暗唱も当然できません。その意味で、固定的なペースでの暗唱は、生徒にみなさんにとってかなり苦しかったと思います。しかし、その中でこの数字ですから、もう何週間かあれば900字暗唱が完璧にできたという人は、かなりの割合にのぼったと思います。
1日わずか10分の時間といっても、毎日その10分の時間を確保するのはかなり大変です。初めての900字暗唱に取り組んだ生徒、保護者、講師のみなさんの努力を、大いに評価したいと思います。
さて、1月の暗唱からは、もっと柔軟な取り組みになります。うまく暗唱できなかった週は、次の週にその暗唱の範囲を持ち越します。このやり方であれば、人によってかかる時間は違っても、ほぼ全員が900字暗唱を達成できるようになると思います。
現在、通学教室でも暗唱の自習を行っていますが、自習に取り組んでいるほぼ全員が900字暗唱を達成しています。
900字の暗唱をすると、生徒本人もちょっと感動します。また、聞いている先生も感心します。その点で、暗唱という勉強法は、音読という勉強法よりも達成感がある勉強になると思います。
では、暗唱にどういう効果があるかというと、それは、暗唱しにくい箇所を見てみるとよくわかります。
その学年の生徒にとって難しいと思われる語彙や表現は、なかなか暗唱できません。小1や小2の生徒の暗唱を聞いていると、例えば今回の長文で、「市民会館」などという言葉は出てきにくい面がありました。中学生の暗唱を聞いていると、「潜在的な」という言葉でつっかえる人がいました。
通学の中学生は、一時英文の暗唱をしていましたが、これは日本語の文章の暗唱の何倍も時間がかかるので、ほとんどの生徒が最後まで暗唱できませんでした。
暗唱できない言葉とは、読むときの理解はできるが、書くときの表現としては思い浮かばないという言葉です。それだけ、その語彙になじんでいないということです。暗唱というのは、日常生活ではなじんでいない言葉を、自分の自由に使える言葉にするという効果があるのです。
もちろん、ある文章を暗唱したから、すぐに作文が上手になるというわけではありません。読んだ文章のジャンルと書く文章のジャンルは、当然異なっているからです。しかし、暗唱した文章と同じようなテーマで作文を書くことになったときは、暗唱した文章の語彙や表現が自然に作文の中に生かされてくると思います。
昔は、使える語彙というものは、その子の長い読書生活や言語生活の中で、自然に成長していくという面がありました。
アメリカにグリーンバーグの開いた自由な学校があります。ここでは、子供たちには何も教えません。しかし、子供たちは自然に自分から学ぶ意欲を持つようになり、読み書きも計算も学習するようになるそうです。
しかし、現代の社会にこの自然の成長をそのままあてはめることはできません。それは、現代は人工的な環境があまりに大きくなっているからです。例えば、テレビ、ゲーム、漫画、インターネットの世界は、かなり長期間にわたって人間の自然な成長を停滞させることができます。
自然な環境では、どんな遊びでも熱中したあとは次第に飽きて、新しい遊びに進化していくという面があります。しかし、人工的な環境では、熱中していないのに飽きないという状態が長い期間続きます。
言葉の乏しい子は、「かわいい、ださい、きもい、うざい」など、言葉というよりも記号のようなもので自分の感情を表現することがあります。この言葉の貧困さの裏返しとして流行語が盛んに使われるようになります。
使える語彙の豊かさとは、絵をかくときの絵の具の豊かさのようなものだけではありません。絵の具の数が少なくても、その少なさに応じて上手な絵をかくことはできます。言葉もその使える数の少なさに応じて上手な文章を書くことはできます。
しかし、言葉には、表現の道具としての役割とともに、認識の道具としての役割もあります。使える言葉の数が少ないというのは、単に言い回しの数が少ないというだけではなく、ものを認識するときの見方が浅くなるということでもあるのです。
暗唱によって豊富な語彙を身につけた子は、今すぐには暗唱の効果が自覚できないとしても、やがてその語彙が必要になった場面に遭遇したときに暗唱の効果を実感すると思います。
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今年の夢の一つは、通学の言の葉クラブを全国展開することです。これは、暗唱暗写、短作文、付箋読書を中心にした寺子屋風の教室です。
この教室の特徴は、単に教室で授業をするだけでなく、一つは、家庭学習と連携をしていくことです。だから、当然作文の勉強以外の全教科のアドバイスもすることになるでしょう。家庭での生活や勉強全体の中で位置づけて初めて暗唱や読書の自習が長続きするからです。
そして、もう一つは、教室が地域と連携をしていくことです。具体的には、子供たちを地域ごとに紅白に分け、年に数回作文の発表会を行います。
この作文の発表会では、子供たちがそれまでに書いたいちばんいい作文に、音楽、絵、写真、パフォーマンス、笑いなどを盛り込み、それを子供たちがみんなの前で作文スピーチとして発表します。このスピーチは当然子供たちが暗唱したものを発表するので、ただ原稿を棒読みするような形ではなく、いろいろな工夫ができます。紅白に分けるのは、それぞれの組の先輩が後輩に演出をアドバイスするためです。
発表会は、晴れた日に近くの公園で、ちょうどお花見のような感じで行います。父母や近所の人が集まって酒盛りをする中(酒盛りはしなくてもいいのですが)、子供たちが一人ずつ自信の作文を発表します。そして、最後に、子供たち全員にその作文の内容に合ったユニークな賞状を渡します。
作文教育によって、国語力もつき、作文力もつき、読書力もつき、学力も向上します。しかし、それらは作文の勉強の副産物です。作文教育の本当の価値は、日本に作文文化を作ることにあります。
学ぶことが、いい成績を取ったり試験に合格するためのものであった時代は終わりつつあります。それらは結果として実現することであって、学ぶことの本当の意義は、人間の幸福、向上、創造、貢献を実現することにあるのです。その一つの形として、作文文化を日本に作り、育てていきたいと思っています。
今年は、通信の言葉の森と並行して、通学の言の葉クラブを運営してくださる方を募集する予定です。
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これからの教育は、教室を出て、家庭や社会と連携する必要があります。家庭における家庭学習の文化と、社会における学習発表の文化に結びつく必要があるのです。これは、教育というよりも教育文化というものになるでしょう。
教育の分野も、新しい定義で再編成されます。第一は、哲学です。これは、現在の作文や国語の教科に対応します。ものごとを考える力を育てる分野です。第二は、科学です。これは、現在の英語、数学、理科、社会などほとんどすべての知識的な教科に対応します。理科や社会は、物理、化学、生物、日本史、世界史、地理、政治経済などに分ける必要はありません。科学として全部まとめて学んでいけばよいのです。第三は、工学です。これは、現在の音楽、美術、技術家庭などに対応します。さまざまな道具を自分の手足のように自由に使う技能を身につける分野です。第四は、心身です。これは、人間の心と体を対象とするもので、現在の保健、体育と、昔の修身などに対応します。
この心身の教育について考えてみます。
心身の教育の目的は、健康と幸福です。健康で幸福でいつも元気に明るく生きる力を育てるのがこの教育の目指すものです。
人間は、現実の中で生きています。人間にとっての現実とは、自分、身体、感情、感覚、言語、知識などです。
これらの現実はあまりにも身近に密着しているものなので、普段は現実という意識なく過ごしています。言わば、現実があらゆる面で意識を上回っているので、すべてが現実であるかのように生きているのです。
乳幼児のころは、現実がまだ弱く小さいので現実と意識は同じような水準にあります。しかし、人間は成長するにつれて、現実だけが意識以上の速度で強くたくましく成長していきます。そして、やがて現実がすべてであるような状態になり、安定した生き方をするようになるのです。
しかし、年をとるにつれて、現実は次第に速度を弱めていきます。やがて、現実の速度に意識が追いつくようになり、意識と現実が再び同じような水準で共存していくようになります。
心身の教育の方法は、現実に翻弄されずに、意識が現実に追いつき時には現実を超えるような力を身につけることです。
例えば、「自分」という現実を超えるとは、どういうことでしょうか。それは、自分個人の小さいエゴイズムを超えて、他との調和の中で生きることです。それは、形式的な道徳教育が目指すような滅私奉公の倫理観ではありません。自分の意思としてごく自然に、自分を大事にするのと同じように他人や自然を大事にする気持ちを持つことです。
「身体」「感情」「感覚」「言語」「知識」を超えるということも、同じように、それらに翻弄されずに、逆にそれらを自由にコントロールして生きる力を身につけることです。
比喩的に言うと、心身の教育の目指す具体的な模範は、子犬のように生きる力をつけることです。子犬は、不眠症になったり、うつ病になったり、アルコール依存症になったり、何かを恨みに思ったり、後悔したり、絶望したり、生きることに不安を感じたりはしません。いつも、自分のありのままの状態に満足して生きています。主人が来れば喜び、遊んでくれれば更に喜び、えさに喜び、散歩に喜び、晴れていても雨が降っていてもただ今いること自体を喜んで生きているように見えます。この子犬の境地になることが、人間の目指す意識のあり方なのです。それは、別の比喩で言えば、高僧や仙人のような心境で生きるということと言えるかもしれません。
では、高僧や仙人のような心境になれるなら、教育の目標はそれだけでもよいではないかという人がいるかもしれません。
そうではありません。言語による哲学、知識による科学、道具と手足による工学は、人間が人間らしく生きていくのに欠かすことができないものです。なぜなら、この言語、知識、道具と身体という不自由さの中に、リアルの創造があるからです。
今、人類は大きな転換期にいるように思えます。
かつて、クジラがモトクジラ(元クジラ)から進化したときのことを考えてみると、次のような状況が推測できます。。陸で生きていたモトクジラが、たまたま海に遊びに行って「海もいいか」と思って海に入ったわけではありません。ある朝起きてみると、モトクジラの周りの世界がすべて海になっていたのです。だから、モトクジラにはほかの選択肢など考えようもなく、一挙にクジラへと進化していったのです。
今、人間の周りには海が広がっているように見えます。その海は、暴力と汚染と貧困と無知によるレッド・オーシャンの海です。そのことに人間が気がついたときに、その解決の可能性に向かって人間は大きく進化するように思えてなりません。
しかし、そのような進化にいたるまでには多くの犠牲もあるでしょう。そこに、進化の前段階として意識的な教育の役割があるのです。
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ハワイで作文教室を開いている「あお」先生から、教室新聞が届きました。
みなさんの中にも、ハワイでお正月を迎える方がいるかもしれませんね。
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かたや、サドベリー・スクールに見られるような放任の教育があります。もちろんこの放任は、自主性のための放任ですが。
かたや、SAPIXの授業に象徴的に見られるような上手な授業があります。優れた教師による優れた授業で生徒を引っ張るという点で、これを干渉の教育と呼びます。もちろん、この干渉は生徒の意欲を引き出すための干渉ですが。
この放任と干渉の間にあるのが、方法の教育です。
江戸時代は、この方法の教育によって、全国に多数の寺子屋を生み出しました。全国に多数という点で、この方法の教育が必ずしも優れた教師や優れた授業を必要としていなかったことがわかります。
また、当時の日本は世界最高の識字率を誇っていました。世界最高という点で、この方法の教育は優れた教育でした。優れていない教師による優れていない授業によって優れた教育が生まれるというのが方法の教育の特徴です。
この方法は、マニュアルという考えに近いものですが、実は大きな違いがあります。
天外氏の本で面白いことが書いてありました。オペレーターの教育で、従来の方法は応答の仕方を知識として教え、その方法を実際のビデオなどで見せて研修させるものだったそうです。しかし、こういうマニュアル的なやり方よりも、はるかに高い効果を上げたのが、オペレーターが相手の声に注意を集中して応答することだったそうです。
マニュアルは、ある水準まで全員の力をすぐに引き上げることができます。しかし、そのマニュアルによる方法では、ある程度以上は顧客の満足度を上げられません。マニュアルの限界を超える方法は、心の持ち方のようなところにあるのです。
江戸時代における方法の教育の具体的な形は、素読や暗唱や筆写などでした。この方法は現代でも同じように有効です。
しかし、現代は江戸時代と違って、この方法の教育を阻害する要素がきわめて大きくなっています。その阻害するものは、人工的な環境です。
江戸時代の子供たちは、勉強以外の時間で、鬼ごっこをしたり虫捕りをしたり家の仕事の手伝いをしたりして過ごしていたでしょう。このような環境は自然の環境です。自然と関わることによって人間は成長します。
現代の子供たちは、勉強以外の時間で、ゲームをしたりテレビを見たり漫画を見たりしています。この環境は人工のバーチャルな環境です。バーチャルな環境は、面白さという点では自然の環境に似ているか、時には自然の環境以上に魅力的なものですが、人間は人工的なものとの関わりによってはあまり成長しないのです。
なぜかと言えば、人工的な環境はその見た目の豊かさに比べてきわめて底の浅いものだからです。例えば、実際の魚つりであれば、なかなか釣れない単調な時間があるものの、人間の工夫は無限に広がります。ゲームの魚つりではこの反対に、次々といろいろなものが釣れる刺激はありますが、人間の工夫はゲームのプログラムで作られた狭い範囲のところまでしかできません。
この人工的な環境がマニュアルの環境です。方法が自然の環境を前提としたものであるのに対し、マニュアルは人工の環境を前提にしたものです。もちろん、この区別は相対的なものですから、より自然に近い人工的な環境というものは当然あります。しかし、大きく分ければ、方法の教育とマニュアルの教育があり、方法の教育を阻害するものは、この方法によく似たマニュアルの教育なのです。そして、このマニュアルの教育の一つが、問題集やドリルという教材に依拠した勉強です。
昔の子供たちは、学校から帰るとすぐに遊びに行きました。日曜日などは朝から晩まで一日中遊んでいました。今の子供の多くは、学校から帰ったあとも、塾に行ったり家で勉強をしたりしています。しかし、その勉強はほとんどすべて人工的な環境によるマニュアル的な勉強です。だから、今の子供たちは昔の子供たちに比べて、勉強の量だけが増えて、頭がよくなってはいないのです。
対策は、次のようなものになると思います。
まず、人工的な環境を制限することです。これは、テレビやゲームやインターネットの時間をコントロールすることです。禁止するということではなく、子供が自らコントロールするということが大事です。そして、この人工的な環境には、人工的な勉強も入ります。特に低学年における問題解答方式の勉強は、ゲームと同じような人工的な要素を持っています。
その一方で、方法の教育を行うということです。単なる放任でもなく、塾に任せる干渉の教育でもない方法の教育とは、家庭における読書、対話、暗唱などの教育です。
この二つの取り組みによって、子供たちの生活はもっとゆとりのある楽しいものになり、同時に子供たちは今よりももっと確かな学力をつけていくと思います。
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天外伺朗氏の「教育の完全自由化宣言!」を読みました。
アメリカのサドベリー・バレー・スクールという学校では、子供が自分で勉強したくなるまで自由に過ごすそうです。しかしやがて子供たちは、自ら学ぶことを欲するるようになります。同じような勉強法は、シュタイナー学校でも行われています。子供たちの自主性を尊重した教育を行っているのです。
しかし、私は、これがもちろん理想的な学校のスタイルだというのではないと思います。サドベリーの学校では、あまりに方法論がなさすぎます。すぐれた教師が指導の負担をいとわずに子供たちを教えるのでなければ、うまく運営できません。また、シュタイナー学校は、天外氏も述べているように、シュタイナーの個人的な独創によって運営されているために、その後の改良が難しいのではないかと思います。
しかし、他律的な勉強ではなく、自らの意思で取り組む勉強というのは、教育を考える場合の最も根本的な前提になります。
昔の子供たちは、自ら学ぶ意欲を持つまで自由に過ごすという点では、ほとんどがそうでした。現に天外氏も、小学3年生のときに神奈川県の茅ヶ崎に引っ越してから、中学2年生まで遊び放題の生活をしたそうです。また、高校でも大学でも、ジャズとグライダーに熱中し、そのため卒業するときの成績は下から2番目だったといいます。それが卒論だけはいいものを書いたので、当時まだ有名ではなかったソニーに入社できました。その後の天外氏の独創的な業績は、多くの人が知っているところです。
先日、SAPIXのすぐれた授業が紹介されている本を読みました。SAPIXでは、高度な質問と早いテンポで知的なゲームをしているような楽しい授業が行われているそうです。しかし、SAPIXの卒業生が、よく小学校6年生の受験のときがいちばん楽しかったという述懐をしているのを見ると、勉強というものをそういうゲーム的なものとして消化した体験がその後の勉強観に影響しているのだと思います。
昔の四谷大塚は、日曜テスト形式という勉強法で、家庭で学習をしたものを日曜日にテストするという形でした。しかしその後、学習塾に勉強をすべて任せるスタイルの教室が出てきました。学習塾によっては、家では何もしなくていいので、その代わり、夜遅くまで塾で勉強するという教え方をしているところもあります。
学習塾で勉強をして、家庭は食べて寝るだけ、というのは一見能率的に見えますが、しかし長い目で見ると、子供たちの全人的な成長にはマイナスになります。家庭学習の文化と結びついて、初めて教室や学校での勉強が生きてくるのです。
言葉の森で今考えているのは、(1)教室での勉強(2)家庭での自習(3)そして教室と家庭を結ぶ発表の場、という三角形の中で子供たちを育てていくことです。
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受験に作文を課す学校が増えています。受験作文は、最初の年は単純な題名課題で始まることが多いようです。例えば、「これまでの学校生活での思い出」とか「私がこれまでにがんばったこと」などの題名です。
こういう題名でも、受験生の作文力には差が出ますが、すぐに受験生が課題に対して準備をしてくるようになります。すると、ほとんどの受験生の実力が向上するので、採点する側は点数をつけるのが大変になります。
そこで、次第に難しい課題になります。題名課題よりも難しいのは感想文課題です。文章を読ませてそれに対して感想を書かせる形は読解力も要求されるので、題名課題のときよりも書くのが難しくなります。しかし、それでも要領のいい生徒は、課題文のキーワードを引用しつつ自分なりに準備してきた材料で書いていくことができます。
本当は、作文の課題を一つだけではなく複数出すようにすれば、実力の差はもっとはっきり出てきます。しかし、そのやり方では採点の負担が大きくなりすぎます。昔、東大の後期試験で小論文課題を出していたことがありました。最初は単純な課題でしたが、だんだん文章を読ませる複雑な形になり、複数の小論文を書かせる形になりました。しかり、やはり採点者の負担が大きすぎたのでしょう。この小論文試験は廃止になりました。
感想文の課題をもっと難しい形にしたものが、複数の文章を読ませて感想を書かせる感想文です。Aの文章とBの文章を読ませて、その両者に共通する点と相違する点を自分なりに整理してかくのですから、内容を理解していないと書けません。また、ただ一つの文章を読ませる感想文課題では、キーワードを入れれば何とか書けますが、複数の文章課題ではキーワードだけではなく複数の文章の内容を組み合わせないと書けません。この複数の文章による感想文課題が、受験作文の主流になっています。
しかし、これも、実は採点する側にとっては負担の大きい試験なのです。600字ぐらいの短い受験作文の答案を次々と読んでいると、人間は、長いひとまとまりの文章を読んでいるときよりもはるかに疲労します。それを、文章の表現力についてだけではなく、そこに盛り込まれている内容が課題に合っているかどうかまで含めて読むとなると、その負担は更に大きくなります。
私が考えるいちばんいい方法は、受験で作文を書かせるのではなく、あらかじめ作文検定のようなもので作文力を認定しておくというものです。
しかし、その作文検定は客観的な評価が出せるものでなければなりません。そこで使うのは、文章の自動採点ソフト「森リン」です。ソフトが採点するのですから、ソフトの裏をかいて点数を上げようとする人が必ずいます。しかし、そういう弊害はソフトを改良することによってすぐに対応することができます。
人間の採点は、裏をかくようなことはしにくいのですが、採点する人の主観によって大きな差が出ます。同じ人が気分が違うときに採点するだけでも違いが出てきます。正確さを期そうとすれば、1人の採点者が同じ日に数百人の採点をまとめてする必要がありますが、そういうことはまず不可能です。
ソフトの採点による誤差は、試験の回数を重ねれば、無視していいぐらいのものになっていきます。作文検定で何級を取得したかということが入試の基準になれば、作文小論文の導入はもっと容易なものになっていくと思います。
さて、複数の感想文課題に対する書き方はどのようにしたらいいのでしょうか。以下の説明は、ちょっとレベルの高い書き方です。
AとBの二つの文章があったとします。
二つの文章が共通している話題をCと考えます。
┏━C━┓
┃A・B┃
┗━━━┛
Cという分野に関して自分の考えcを決めます。
Aの文章のキーワード(又はキー概念)をaとします。
Bの文章のキーワードををbとします。
作文は、自分の考えであるcを通常の題名課題を書くのと同じ要領で、「説明→展開1→展開2→まとめ」と書いていきます。
その展開1と展開2の部分にaとbを盛り込みます。
つまり、作文の中心になるのは自分の考えcであり、そのcを補強するものとしてaとbを使うという考え方です。
こういう書き方はレベルが高いので、採点する側にそのように書いたということがわかるようにする必要があります。そのために、AとBの文章のキーワードを意識的に使っていくのです。
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