言葉の森では、これまでの長い作文指導の経験から、作文そのものを教えるよりも、作文力の土台となる読む力を育てることが重要だと考えてきました。
そのため、発足当初から音読や読書の自習を進めてきましたが、音読や読書は、継続してできる子とできない子の差があり、必ずしも全員の読む力を育てる方法となってはいませんでした。
そこで、言葉の森では、これまでの音読を発展させた独自の暗唱法を開発しました。現在、暗唱用紙を使った毎日10分の暗唱で、だれでも楽に1ヶ月で900字の文章を暗唱できるようになっています。
暗唱の効果は、単に読む力、書く力を育てることにとどまりません。暗唱力をつけることによって、思考力、発想力が伸び、学習力そのものが育つという効果もあることがわかってきています。
文章を暗唱するという方法は、ただ文章を音読するという方法に比べて達成感のある勉強法です。一見、音読の方が簡単にできるように思われがちですが、暗唱の方法さえわかれば子供たちは音読よりも暗唱の勉強の方を好みます。
小学校低中学年の時期から暗唱の学習に取り組むことは、作文の書き方を身につけるだけでなく、ものの見方や考え方を育てる上で大きな効果があるのです。
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数学や英語は、勉強をしなければ成績の上がらない教科です。聖徳太子や空海がタイムマシンで現代に急に現れて、中学の数学や英語のテストを受けたとしたらまず0点です。勉強をすればできるが、勉強をしなければできないというのが普通の教科の特徴です。
しかし、国語はそうではありません。全然勉強をしない人でも、国語ではある程度の点数を取ることができます。
ここで、多くの人は、だから国語はそっちに置いておいて、まず英語や数学などの差のつく勉強に取り組もうと思うのです。しかし、英語や数学における0点と100点の差よりも大きいのが、国語における80点と100点の差です。国語力の差は小さいように見えても、ほとんど埋まらない差なのです。
そのような国語力をつけるためには、どうしたらいいのでしょうか。
まず、国語を勉強だと考えずに、生活だと考えることが必要です。
国語力のある子の生活の特徴は、読書と対話があることです。
読書のある生活をするために第一に大事なことは、読書を妨げる要因となるテレビやゲームの時間をコントロールすることです。これは簡単なように見えますが、実はかなり難しいことです。なぜかというと、子供の生活時間をコントロールするためには、かならず親の生活習慣の改善が必要になるからです。
生活習慣の改善は、子供の学年の自乗に比例して難しくなります。だから大事なことは、小学校低学年のうちに、テレビとゲームについてのルールを決めておくことです。テレビを見させない、ゲームをやらせないというのはコントロールではなく単なる禁止です。禁止したものは、学年が上がると逆にコントロールできなくなります。
テレビやゲームが生まれたときからあるという状態は、人類が経験してまだ日の浅いものなので、コントロールする文化がまだ成立していません。だから、個々の家庭で工夫して行く必要があるのです。
対話のある生活をするために大事なことは、親が対話好きになることです。対話といっても子供が小中学生のうちは、親子の対話というよりも、親どうしの対話が中心になります。そのときの話題が、子供の関心のあるものであればなおいいと思います。
理想的な対話の習慣は次のようなものです。
まず、子供が千字程度の文章(以下、長文と呼ぶ)を音読したり暗唱したりします。夕食などで家族がそろったら、子供が家族みんなの前で音読や暗唱をします。そのときは周囲の温かい目が必要ですから、お父さんは必ず「おお、難しい文章をよく読んでいるね」などと言わなければなりません。間違っても、「もっとこういうふうに読んだらいい」などという勉強的なアドバイスはしないことです。
子供が長文を読んだあと、その長文の内容が自然に話題になって食事が盛り上がります。その際、お父さんとお母さんが、自分はこう思うとか、昔はこうだったということを自分の言葉で話します。ときどき子供が話に参加しますが、基本になるのは親どうしの対話です。つまり、親が話を楽しんでいるのを子供が聞いているという形の対話なのです。
家庭によっては、親どうしの対話が難しいという環境もあると思います。その場合は、親がひとりで子供にいろいろな話を聞かせてあげるという形になります。小学校の低中学年のころは、子供は喜んで親の話を聞きます。この時期に対話の習慣を作っておけば、子供が高学年になっても同じように対話のある習慣を維持していくことができます。
食事のときの対話をするための一つの前提条件は、食事中はテレビを消しておくということです。これも、子供が小学校低中学年のうちは簡単にできますが、学年が上がるほどいったんできた生活習慣を変えることは難しくなります。
では、そういう読書や対話の習慣がないままに成長してしまった子供の国語力をつけるためにはどうしたらいいのでしょうか。
実は、国語力をつけるためのより即効的な勉強法もあります。それは、国語力として要求される国語の問題に出てくるような文章を徹底して読みなれることです。もう一つは、国語の記述式の問題の解答として要求される文章を丸ごと暗唱してしまうことです。
しかし、このような勉強法は、あくまでもその場しのぎのものです。これで国語の成績が上がって合格できたとしても、その国語力は内容の伴っていないものなのであとが続きません。やはり、読書と対話によって中身のある国語力をつけていくことがいちばん大事なのです。
国語力は、国語の成績としても表れますが、もっとはっきりとした形で作文力として表れます。作文を見ると、その子の実力がわかるというのはそのためです。
では、作文力をつけるためにはどうしたらいいのでしょうか。指導の仕方以前に何よりも大事なことは、まず作文を書く機会を確保することです。学校では、先生の負担が大きいために作文の指導まではなかなか手が回りません。これも、家庭の中で書く機会を増やしておくというのがいちばんいい方法です。
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日本時間の1月2日に、アルゼンチンから体験学習を申し込まれた方のご住所が入っていません。
お申し込み時に記載のあったメールアドレスに言葉の森からメールを差し上げていますが、まだごらんいただいていないようです。
ご連絡くださるようお願い申し上げます。
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学校での作文の勉強は、小学校低学年のころは盛んですが、学年が上がり中学生や高校生になると次第に少なくなり、やがてほとんど作文指導のようなものはなくなっていきます。
これは、作文の指導がきわめて負担の大きいもので、現在の教育体制では中高生が学校で日常的に作文の勉強をすることはほぼ不可能だからです。
しかし、作文力こそ真の実力で、中学高校生の作文指導はもっと充実させる必要があると考えている人はかなりいます。
大学入試でも、採点する期間に比較的余裕がある国立大学では記述式の問題が多く、東大をはじめとする多くの国立大学の国語の試験は作文力の試験と言ってもいいものです。
東大の合格率が高いことで知られる開成中の国語の入試問題も、ほとんどが記述式の問題で、その内容も文章中から抜き書きするようなものではなく、自分なりに考えたことを書くという高度なものとなっています。
知識の勉強は、時間をかければだれでもある程度のところまでは成績を上げることができます。また、数ヶ月の集中学習で一挙に成績を上げるということもできます。現に、上手な家庭教師につくと短期間の集中的な取り組みで英語や数学の成績は大きく上がります。
しかし、作文力については短期間で成績を上げることはまずできません。それは、作文力がさまざまな学力の集大成のような面を持っているからです。
しかし、このことは逆に言えば、作文力があれば、ほかの教科の勉強はいつからでも取り組めるということです。国語や作文の得意な生徒は、受験期間中でも国語や作文の勉強をわざわざする必要がありません。いったん実力がつけば、国語力や作文力はほとんど下がることがないからです。
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文章力は、客観的な評価がしにくいもので、採点者によって評価に差があることが当然と考えられてきました。
このため、作文指導は、教える側にとっては負担が大きく、教わる側の生徒にとっては学習の目標のつかめない、勉強しにくい教科となっていました。
言葉の森では、長年の作文指導の蓄積をもとに、文章力を自動的に採点するソフト「森リン」を開発しました。現在、米国では、やはり小論文の自動採点ソフトが中学の作文指導や高校の卒業試験などに使われています。森リンは、日本語の作文小論文を自動採点するソフトとしてこれから多くの教育機関で使われていくと思われます。
言葉の森の作文評価は、人間の手による評価を中心としつつ、この自動採点ソフト森リンの評価を併用して子供たちに客観的な目標を持たせるところに特徴があります。
毎月1回、言葉の森のほとんどの生徒が自分の作文をパソコンで入力し、この森リンによる評価を出します。ここで上位に載った作品は、文章力の点で優れていることはもちろんですが、内容的にも優れたものが多く、生徒の学習の励みとなっています。
https://www.mori7.net/oka/moririn_seisyo.php
特に、中学生や高校生は、学校で作文小論文の勉強をする機会がほとんどないの、自分の書いた文章がどれぐらいの実力かを見るのに森リンによる評価は大きな役割を果たしています。
作文指導を、自動採点ソフトのような客観的な指標にもとづいて行っている教室は、全国でも言葉の森だけです。
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『旅』に目的地があるように、人生のさまざまな場面で『目標設定』は重要不可欠な要素と言えるでしょう。
皆さんは、今まで何度となく「目標を持ちなさい。」と言われた経験があると思います。また、「目標は設定したのだけれど、なかなか一歩を踏み出せなかった。」という人もいるのではないでしょうか。『目標設定』とは、実は一つ間違えるとモチベーションを下げてしまったり、失敗の体験がセルフイマジネーションを傷つけてしまったりする場合もあるほど、設定には注意を要するものです。
4月12日のNHK「おはよう日本」の番組内で、今月1日に行われた、がん研有明病院主催の「がん患者さんが歌う春の第九コンサート」が取り上げられていました。その内容は、ベートーベンの交響曲第九番合唱付きを、がんと宣告された患者さんに呼びかけ、がん治療と向き合いながら約80人の参加者が、1年をかけて練習して見事な歌声を披露したという内容です。5年前、私も大腸がんの摘出手術を上記病院でおこなったので、参加された患者さんの気持ちは大変良く理解できました。
さて、ここで正しい目標設定の重要なポイントを見いだすことができます。最も注意すべきことは、「頑張れば手が届く」=「努力により達成可能な最大値」に目標を設定することです。高すぎても、低すぎても目標としては適切とは言えないのです。そのためには、次の3つが必要条件になることをおさえておきましょう。
① 魅力のある目標であること
② 可能性がある目標であること
③ 具体的な目標であること
その上で、達成する期限を定めておきましょう。
上記のポイントを踏まえ、「がん患者さんが歌う春の第九コンサート」を見てください。
全てが当てはまっており、この成功が患者さんのさらなる生きる喜びにつながりました。
36期生の皆さん、行動を起こすのは自分自身です。本当に達成したいと思う目標をしっかりと考えて立て、一歩踏み出しましょう。そして、着実に歩んでください。皆さんの充実した高校生活を期待しています。
この本の紹介で「サイズ」と「時間」という一見何の交わりもなさそうな単語が、実は密接に関係していると書かれていた。サイズが違うと俊敏さが異なり、寿命も等しくならない。しかし、一生の間に心臓が打つ総数や体重あたりの総エネルギー数は、サイズによらず一定である。よって、生理的・感覚的な時間はいかなる生物においても等しいというのだ。私はその著者の主張に強い疑問を抱いた。我々人間が感じている時間は唯一絶対不変のものだと信じて疑わなかったからである。また1学期で学習した生物の知識を活かせばより深く、正確に内容を理解できると感じた。以上のようなことがきっかけとなり、この評論を選択した。
科学的な根拠を用いて論理的に生物の仕組みを導いていたこの本から、次のようなことを学んだ。まず時間は体重の1/4乗や体長の3/4乗に比例するということだ。また心臓が一回打つエネルギー量と一生の間の総エネルギー量は、体重に依存することなく一定である。よって、短命な命は激しく燃え尽きるといえる。これは、生物は各々のサイズに応じて、異なる時間の単位すなわち生理的な時間が存在することを意味している。我々には物理的な時間だけが絶対だという思い込みがあるが、それはいわば、人間だけの決めごとである。物理的な時間ではネズミはゾウよりずっと短命だ。ネズミは数年しか生きないが、ゾウは100年近く生きる。しかしもし心臓の鼓動を寿命の基準として考えるなら、ゾウもネズミも全く同じだけ生きて死を迎えることになる。物理的な寿命が短いといったって、一生を生き残った感覚はネズミもゾウも同じなのだ。
そして島に隔離されると、サイズの大きい動物は小さくなり、サイズの小さい動物は巨大化するという、島の法則がある。これは人の事象に当てはまりそうである。具体的には強靭な大思想が育ってきた大陸と、庶民のスケールが大きい日本という島国だ。
サイズを考えることは人を相対化して眺める効果がある。私たちの常識を当てはめて解釈してきたのが、これまでの科学や哲学であった。物理や科学はヒトなりの自然の解釈であり、また哲学は人間の頭の中を覗くばかりだから、当然相対化することはできない。しかし、生物学によって初めてヒトという生き物が自然の一部として扱われるようになった。そして結局は物理的な時間はヒトのエゴイズムであり、ヒトや他の生物の理解を妨げる可能性があると学んだ。
関東人の私が言うのもなんですが豊中や吹田に長年住んでいる人間がよもや堺市の場所も分からないという事は教養レベル云々の話を差し引いても普通は考えられないように思います。しかしその人の居住地が府の中心から北に結構離れている若い人なら、例えば難波などに遊びに行く途中の街の地名というだけで頭によく入っている場合もあろうかと思える一方 そこから更に遠ざかって行く方面の事は案外知らなかったりするのではないかと思いました。それが他府県から越して来たような人ならなおの事に私には思えます。
しかしこれが逆に関空をよく使う人間であれば堺市の場所がどこか知らないはずはないでしょう。関空はあくまで例えですが、自分が関わらない場所についての知識はたとえ同じ府県内の事であってもなんとなくボンヤリしてしまう事はあるのではないでしょうか。
蛇足ですが、堺市の「サカイ」という音から「境」「県境」を無意識に想像している人も地理のイメージがボンヤリしている人の中にはいたりしませんか。これは私が全然知識の無い関東の人間だったからなのかもしれませんが、自分が大阪に進学でやって来た当初本当に堺市のことを「境の市」だと頭の中でイメージしていた事がありました。
貴校で学びながら明確にしていきたいと思います。
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1月4日からいよいよ新学期の授業がスタートしました。
今年は、課題フォルダの中に、暗唱用の長文が入っています。
1月から、毎週、その生徒の暗唱の進み具合に応じて次の暗唱範囲を先生が指示するようにしました。また、暗唱の経過を山のたよりに表示するようにしました。これで、暗唱の自習も更にやりやすくなると思います。
12月4週現在の暗唱の取組状況を見てみると、新しい暗唱の方法で105人の生徒が900字暗唱を達成しています。暗唱の自習オプションを選択した人が生徒の約半数504人なので、選択した人の約20%の人がほぼ完璧に900字の暗唱ができたことになります。
12月は、毎週300字を暗唱するという固定的なペースで暗唱の練習をしたので、生徒によっては事情によってできなかった週もあったと思います。1週だけでもじっくり練習できなかった週があると、最後の900字暗唱も当然できません。その意味で、固定的なペースでの暗唱は、生徒にみなさんにとってかなり苦しかったと思います。しかし、その中でこの数字ですから、もう何週間かあれば900字暗唱が完璧にできたという人は、かなりの割合にのぼったと思います。
1日わずか10分の時間といっても、毎日その10分の時間を確保するのはかなり大変です。初めての900字暗唱に取り組んだ生徒、保護者、講師のみなさんの努力を、大いに評価したいと思います。
さて、1月の暗唱からは、もっと柔軟な取り組みになります。うまく暗唱できなかった週は、次の週にその暗唱の範囲を持ち越します。このやり方であれば、人によってかかる時間は違っても、ほぼ全員が900字暗唱を達成できるようになると思います。
現在、通学教室でも暗唱の自習を行っていますが、自習に取り組んでいるほぼ全員が900字暗唱を達成しています。
900字の暗唱をすると、生徒本人もちょっと感動します。また、聞いている先生も感心します。その点で、暗唱という勉強法は、音読という勉強法よりも達成感がある勉強になると思います。
では、暗唱にどういう効果があるかというと、それは、暗唱しにくい箇所を見てみるとよくわかります。
その学年の生徒にとって難しいと思われる語彙や表現は、なかなか暗唱できません。小1や小2の生徒の暗唱を聞いていると、例えば今回の長文で、「市民会館」などという言葉は出てきにくい面がありました。中学生の暗唱を聞いていると、「潜在的な」という言葉でつっかえる人がいました。
通学の中学生は、一時英文の暗唱をしていましたが、これは日本語の文章の暗唱の何倍も時間がかかるので、ほとんどの生徒が最後まで暗唱できませんでした。
暗唱できない言葉とは、読むときの理解はできるが、書くときの表現としては思い浮かばないという言葉です。それだけ、その語彙になじんでいないということです。暗唱というのは、日常生活ではなじんでいない言葉を、自分の自由に使える言葉にするという効果があるのです。
もちろん、ある文章を暗唱したから、すぐに作文が上手になるというわけではありません。読んだ文章のジャンルと書く文章のジャンルは、当然異なっているからです。しかし、暗唱した文章と同じようなテーマで作文を書くことになったときは、暗唱した文章の語彙や表現が自然に作文の中に生かされてくると思います。
昔は、使える語彙というものは、その子の長い読書生活や言語生活の中で、自然に成長していくという面がありました。
アメリカにグリーンバーグの開いた自由な学校があります。ここでは、子供たちには何も教えません。しかし、子供たちは自然に自分から学ぶ意欲を持つようになり、読み書きも計算も学習するようになるそうです。
しかし、現代の社会にこの自然の成長をそのままあてはめることはできません。それは、現代は人工的な環境があまりに大きくなっているからです。例えば、テレビ、ゲーム、漫画、インターネットの世界は、かなり長期間にわたって人間の自然な成長を停滞させることができます。
自然な環境では、どんな遊びでも熱中したあとは次第に飽きて、新しい遊びに進化していくという面があります。しかし、人工的な環境では、熱中していないのに飽きないという状態が長い期間続きます。
言葉の乏しい子は、「かわいい、ださい、きもい、うざい」など、言葉というよりも記号のようなもので自分の感情を表現することがあります。この言葉の貧困さの裏返しとして流行語が盛んに使われるようになります。
使える語彙の豊かさとは、絵をかくときの絵の具の豊かさのようなものだけではありません。絵の具の数が少なくても、その少なさに応じて上手な絵をかくことはできます。言葉もその使える数の少なさに応じて上手な文章を書くことはできます。
しかし、言葉には、表現の道具としての役割とともに、認識の道具としての役割もあります。使える言葉の数が少ないというのは、単に言い回しの数が少ないというだけではなく、ものを認識するときの見方が浅くなるということでもあるのです。
暗唱によって豊富な語彙を身につけた子は、今すぐには暗唱の効果が自覚できないとしても、やがてその語彙が必要になった場面に遭遇したときに暗唱の効果を実感すると思います。
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今年の夢の一つは、通学の言の葉クラブを全国展開することです。これは、暗唱暗写、短作文、付箋読書を中心にした寺子屋風の教室です。
この教室の特徴は、単に教室で授業をするだけでなく、一つは、家庭学習と連携をしていくことです。だから、当然作文の勉強以外の全教科のアドバイスもすることになるでしょう。家庭での生活や勉強全体の中で位置づけて初めて暗唱や読書の自習が長続きするからです。
そして、もう一つは、教室が地域と連携をしていくことです。具体的には、子供たちを地域ごとに紅白に分け、年に数回作文の発表会を行います。
この作文の発表会では、子供たちがそれまでに書いたいちばんいい作文に、音楽、絵、写真、パフォーマンス、笑いなどを盛り込み、それを子供たちがみんなの前で作文スピーチとして発表します。このスピーチは当然子供たちが暗唱したものを発表するので、ただ原稿を棒読みするような形ではなく、いろいろな工夫ができます。紅白に分けるのは、それぞれの組の先輩が後輩に演出をアドバイスするためです。
発表会は、晴れた日に近くの公園で、ちょうどお花見のような感じで行います。父母や近所の人が集まって酒盛りをする中(酒盛りはしなくてもいいのですが)、子供たちが一人ずつ自信の作文を発表します。そして、最後に、子供たち全員にその作文の内容に合ったユニークな賞状を渡します。
作文教育によって、国語力もつき、作文力もつき、読書力もつき、学力も向上します。しかし、それらは作文の勉強の副産物です。作文教育の本当の価値は、日本に作文文化を作ることにあります。
学ぶことが、いい成績を取ったり試験に合格するためのものであった時代は終わりつつあります。それらは結果として実現することであって、学ぶことの本当の意義は、人間の幸福、向上、創造、貢献を実現することにあるのです。その一つの形として、作文文化を日本に作り、育てていきたいと思っています。
今年は、通信の言葉の森と並行して、通学の言の葉クラブを運営してくださる方を募集する予定です。
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これからの教育は、教室を出て、家庭や社会と連携する必要があります。家庭における家庭学習の文化と、社会における学習発表の文化に結びつく必要があるのです。これは、教育というよりも教育文化というものになるでしょう。
教育の分野も、新しい定義で再編成されます。第一は、哲学です。これは、現在の作文や国語の教科に対応します。ものごとを考える力を育てる分野です。第二は、科学です。これは、現在の英語、数学、理科、社会などほとんどすべての知識的な教科に対応します。理科や社会は、物理、化学、生物、日本史、世界史、地理、政治経済などに分ける必要はありません。科学として全部まとめて学んでいけばよいのです。第三は、工学です。これは、現在の音楽、美術、技術家庭などに対応します。さまざまな道具を自分の手足のように自由に使う技能を身につける分野です。第四は、心身です。これは、人間の心と体を対象とするもので、現在の保健、体育と、昔の修身などに対応します。
この心身の教育について考えてみます。
心身の教育の目的は、健康と幸福です。健康で幸福でいつも元気に明るく生きる力を育てるのがこの教育の目指すものです。
人間は、現実の中で生きています。人間にとっての現実とは、自分、身体、感情、感覚、言語、知識などです。
これらの現実はあまりにも身近に密着しているものなので、普段は現実という意識なく過ごしています。言わば、現実があらゆる面で意識を上回っているので、すべてが現実であるかのように生きているのです。
乳幼児のころは、現実がまだ弱く小さいので現実と意識は同じような水準にあります。しかし、人間は成長するにつれて、現実だけが意識以上の速度で強くたくましく成長していきます。そして、やがて現実がすべてであるような状態になり、安定した生き方をするようになるのです。
しかし、年をとるにつれて、現実は次第に速度を弱めていきます。やがて、現実の速度に意識が追いつくようになり、意識と現実が再び同じような水準で共存していくようになります。
心身の教育の方法は、現実に翻弄されずに、意識が現実に追いつき時には現実を超えるような力を身につけることです。
例えば、「自分」という現実を超えるとは、どういうことでしょうか。それは、自分個人の小さいエゴイズムを超えて、他との調和の中で生きることです。それは、形式的な道徳教育が目指すような滅私奉公の倫理観ではありません。自分の意思としてごく自然に、自分を大事にするのと同じように他人や自然を大事にする気持ちを持つことです。
「身体」「感情」「感覚」「言語」「知識」を超えるということも、同じように、それらに翻弄されずに、逆にそれらを自由にコントロールして生きる力を身につけることです。
比喩的に言うと、心身の教育の目指す具体的な模範は、子犬のように生きる力をつけることです。子犬は、不眠症になったり、うつ病になったり、アルコール依存症になったり、何かを恨みに思ったり、後悔したり、絶望したり、生きることに不安を感じたりはしません。いつも、自分のありのままの状態に満足して生きています。主人が来れば喜び、遊んでくれれば更に喜び、えさに喜び、散歩に喜び、晴れていても雨が降っていてもただ今いること自体を喜んで生きているように見えます。この子犬の境地になることが、人間の目指す意識のあり方なのです。それは、別の比喩で言えば、高僧や仙人のような心境で生きるということと言えるかもしれません。
では、高僧や仙人のような心境になれるなら、教育の目標はそれだけでもよいではないかという人がいるかもしれません。
そうではありません。言語による哲学、知識による科学、道具と手足による工学は、人間が人間らしく生きていくのに欠かすことができないものです。なぜなら、この言語、知識、道具と身体という不自由さの中に、リアルの創造があるからです。
今、人類は大きな転換期にいるように思えます。
かつて、クジラがモトクジラ(元クジラ)から進化したときのことを考えてみると、次のような状況が推測できます。。陸で生きていたモトクジラが、たまたま海に遊びに行って「海もいいか」と思って海に入ったわけではありません。ある朝起きてみると、モトクジラの周りの世界がすべて海になっていたのです。だから、モトクジラにはほかの選択肢など考えようもなく、一挙にクジラへと進化していったのです。
今、人間の周りには海が広がっているように見えます。その海は、暴力と汚染と貧困と無知によるレッド・オーシャンの海です。そのことに人間が気がついたときに、その解決の可能性に向かって人間は大きく進化するように思えてなりません。
しかし、そのような進化にいたるまでには多くの犠牲もあるでしょう。そこに、進化の前段階として意識的な教育の役割があるのです。
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