反復という方法を主とする教育と、理解という方法を主とする教育の対立は、これまでさまざまなところで繰り返されてきました。
以前、「数学は暗記だ」という刺激的なタイトルで、和田秀樹氏が、解法を暗記して自分のものにしてしまう数学勉強法を提唱したことがあります。この勉強法で、苦手な数学から解放された人は多かったと思います。
しかし、数学者の森毅氏は、こういう勉強法を否定して、数学は覚えるものではなく考えるものだという議論を展開しました。この議論にも多くの人が納得したと思います。
では、どちらが正しかったのでしょうか。実は、浅い反復教育と浅い理解教育の先に、更に深い反復と理解の教育があったのです。
和田氏と森氏のそれぞれの意見は、もちろん深いものでした。しかし、もっと深いところに降りていくと、両者の異なるように見える議論は実は一つにつながっていたのです。
浅い反復教育とは、単純な知識を覚えて自分のものにするような教育です。「富士山の高さは、3776メートル」という知識を覚えるのは、浅い反復教育です。この知識だけの問題が出れば正解を言えますが、だからといってこの知識が生活のほかの分野に生かされることはあまりありません。つまり、閉ざされた完成品の小さな知識のキットをたくさん持つことを目標にするような教育が浅い反復の教育です。
この教育の問題点は、反復の勉強の過程で、完成品を集めることが勉強することだと勘違いしてしまうところにあります。
文章を書くことに関して言えば、名文を覚えるのはいいのですが、それをただ暗記してオウム返しに言うだけの勉強になってしまうのが浅い反復の教育です。
浅い理解教育とは、手持ちの材料だけを使い、自分で考えて作り出すような教育です。
自分で考えるという点で、この教育は将来性があります。しかし、問題点は材料を集めることが二の次になってしまうことです。
完成品のキットを集める方法よりも、限られた材料を工夫して自分で考えるという点は創造的ですが、限られた材料であるためにある程度以上の高さのものは作れないという弱点があります。
文章を書くことに関して言えば、自分が自然に持っている語彙と実例だけで文章を書くことです。身近な生活体験を書くことはできますが、より広い社会的なテーマを論じる意見文を書くには材料が不足してしまうということになります。
深い反復と理解の教育とは、反復によって身につけた豊富な材料を生かして、自分で工夫して何かを作り出すような教育です。
数学で言えば、解法を覚えるだけでもなく、自分で考えるだけでもなく、豊富な解法を組み合わせて自分で考えるということです。
文章を書くことに関して言えば、豊富な実例や表現を駆使して、自分なりに考えて書く文章ということになります。
ところで、昔は、浅い反復教育の弊害というものはあまり問題になりませんでした。
子供たちの勉強する時間がそれほど多くなく、勉強以外の時間のほとんどで自分なりに考える遊びを豊富にしていたからです。
しかし、現代は違います。反復の学習をしてその結果を出すことだけが自己目的化してしまうぐらい勉強の時間が長くなった子が増えているのです。
九九を覚えるぐらいの反復学習であれば、その九九は材料として日常生活の中で生かしていくことができるので何の弊害もありません。
しかし、九九をどれだけ早く言えるかとか、何桁までの九九を言えるかということが、それだけを取り上げて競争するような勉強になると、反復学習の自己目的化が始まります。
九九のような単純なことだけでそのような競争が行われればだれでもそこに不自然さを感じることができますが、その単純な競争が新しい教材として提供されるようになると、単純な学習が自己目的化しているとは感じにくいのです。
そして、現代では、小学校低学年の間だけでなく、かなり長期間にわたって、このような反復による学習が有効であるように見える状態が続きます。
では、深い反復と理解の教育を実現するためには何が必要なのでしょうか。
一つは逆説的に見えますが、反復の学習をもっと徹底することです。今、小学校では教科書の音読が宿題としてよく出されています。しかし、音読の学習は、数回読んだぐらいではあまり意味がありません。もっと徹底して、暗唱するぐらいに読み続けて初めて学習の土台とすることができます。
もう一つは、反復によって身につけた材料をただ知識として再現するのではなく、新たな創造の材料として使っていくことです。それが発表の学習です。
どんぐり倶楽部の理解する教育と、公文式や七田式や百マス計算などの反復する教育は、一見正面から対立しているように見えます。
しかし、そうではありません。両者はより深いところで結びついていくものです。それを結びつけるのが発表の教育なのです。
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読書は、自分の好きな本を自由に読むのがいちばんです。
しかし、そうでない場合もあります。それは第一に、読むのが苦手な子にどう読ませるかという場合です。第二は、読むのが好きな子が更に実のある読み方をしたいという場合です。第三は、少し背伸びをして難しい本を読もうとする場合です。
そこで、読書の工夫の仕方を四つ挙げたいと思います。
第一は、付箋を貼りながら読む方法です。
第二は、読書ノートを利用する方法です。
第三は、問題集を読書がわりに読む方法です。
第四は、たくさんの本を並行して読む方法です。
これらの四つは、いずれも関連があります。
まず付箋を用意します。これは市販の付箋を買うよりも、仮止め用のスティックのりを使って自分で作った方がふんだんに使えます。A4の紙1枚から200-300の付箋ができます。
A4ぐらいの紙を用意して四つに切る。
| 横に二つに折る。上部を外側にそらしておくとあとではがしやすい。
| 折ったところに仮止め用のスティックのりを1-2センチの幅でつける。
|
のりをつけて折りたたんだ状態で、のりのついていない側から切り込みを入れる(数枚まとめて切ると能率的)
| のりのついている側の折り目を1-2ミリの幅で切り落とす。
| 気に入ったところに付箋を貼りながら本を読む。
|
1冊の本を読んで途中で中断する場合、この付箋をページの横に貼っておくと栞(しおり)の代わりになります。
付箋を貼るのは、読んでいて「よくわかったところ」「おもしろいところ」です。おもしろいというのは、いい表現だと思った、いい実例だと思った、いい意見だと思ったというところですが、単純に自分でおもしろいと思ったところと考えておく方がわかりやすいと思います。
付箋を貼りながら読むと、読みかけの本でもどこまで読んだかが外から一目でわかるので、つい最後まで読もうという気になります。これが付箋読書の一つの利点です。
付箋読書のもう一つの利点は、再読しやすくなる点です。同じ本を二回目に読むときは、付箋を貼った箇所だけを読んでいきます。そうすると、一冊の本をより深く味わって読むことができます。
付箋を貼った箇所をもとに、読書ノートに本の内容をまとめることもできますが、それは特に自分で深く把握したいと思った本だけです。本を読むたびに読書ノートをつけていては、かえって読書のペースが落ちます。
しかし、せっかく読んだ本を何もしないでおくのはもったいないので、読書ノートには四行詩を書くようにします。
四行詩の基準は三つあります。
一つは、四行に分かれていることです。
もう一つは、できれば、内容に創造や発見があることです。
最後の一つは、これもできれば、たとえや名言や笑いなどの光る表現があることです。
本を読んで四行詩を書く最も簡単な方法は、付箋を貼ったところの一文を四行に分けて書くことです。
複数の文を四行に分けて書いてもかまいません。また、自分なりに四行の感想を書いてもかまいません。
これを200字詰めの作文ノートに書いていく場合、1行目にその本の書名又はページ数と日付を書きます。2~5行目に四行詩を書きます。そうすると、作文ノート1ページを使ってちょうど2つの四行詩が書けます。
書き方の例は、こういう感じです。(1ページに2日分、2つの四行詩を書いている場合。□はマス。実際には縦書き)
=====================
□□□P207 1月10日□
□ヘレン・ケラーは言った。
□「私は大学でたくさんのことを学んだが、
□そのあとたくさん学んだことを
□忘れなければならなかった」
□□□P310 1月11日□
□「小さな政府」は、。
□大きな無駄があったからこそ
□魅力のある
□メッセージであった。
=====================
これは堅い内容ですが、小中学生の場合はもっと柔らかい内容か出来事中心の四行詩になると思います。
読書ノートに四行詩を書く場合大事なことは、読書をしてそのまとめとして読書ノートを書くのではないということです。
本を読んでそのあとに書くという形だと、書いたから読書は終わりということになってしまいます。
読書というものは、気に入ったら最後まで読みたくなるものですから、それを読書ノートを書くことによって打ち切ってしまうのはもったいないことです。
同じ理由で、読書は勉強の最初や途中でするのではなく、最後にするものです。
読書ノートをつける場合、最初に、前日までに読んだ部分の付箋をもとに四行詩を書きます。そのあと、その日の読書を始めるというふうにします。これなら、おもしろい本は心行くまで読み続けることができます。
小学校の低中学年の子のお母さんから、どういう本を読ませたらいいですかと聞かれることがあります。
日本の小学校低中学年向けの図書環境は充実しているので、書店や図書館に並んでいる本でどの本でもいいというのが答えです。
特に、フォア文庫、青い鳥文庫、偕成社文庫など、シリーズ化されている本は、一度単行本になって評判がよかったものですから、どれを選んでも大きなはずれはありません。しかし、書名や表紙で選ぶのではなく、必ず中身を数ページ目を通してから選ぶことが大事です。
ところが、小学校高学年から中学生や高校生にかけての良書は、あまり売れないせいか書店ではなかなか見つかりません。図書館を利用するというのが一つの方法ですが、もう一つは入試の問題集を読書がわりに読んでいく方法です。
過去1年間分の入試問題集はかなり厚いので、背表紙をはがして40ページぐらいにホッチキスでまとめてきれいな表紙をつけます。問題文が途中で途切れてしまってもかまいません。問題文ですから、空欄があってもそのまま読みます。問題は解きません。難しい言葉があったら辞書で調べるよりも身近にいるお父さんやお母さんに聞きます。
毎日6ページずつ読んでいくと1週間で40ページの小冊子が1冊分読み終わります。毎日10分程度の時間ですから、それほど負担はありません。
読んだものを形として残したいというときは、読書ノートに前日までに読んだ分の四行詩を書いていきます。
よく読みたい本がたくさんあって困るとか、易しい本ばかり読んで難しい本を読まないなどという相談があります。
対処法は簡単です。読みたい本、又は、読む予定の本をずらっと並べて次々に数ページずつ読んでいきます。この場合も付箋を貼りながら読んでいくと、すぐにもとの本の読みかけのところまで戻れます。
読みたい本を10冊ぐらい横に並べて次々に読んでいくと、そのうちに、自然にずっと読み続ける本が出てきます。その場合はその本をずっと読んでいきます。飽きたら気分転換にまた別の本を読みます。
たくさんの本を並行して読んで頭が混乱しないかと聞く人がいますが、そういうことはありません。食事をするのに、ごはんを食べて、味噌汁を飲んで、たくあんを食べて、めざしを食べて、それで胃の中が混乱しないのと同じです。
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外食から内食へという流れが起きています。
私の昼食のおかずは大体、近所のスーパーでキャベツ、セロリ、ホタテガイなどを買って、昆布つゆと酢とコショウをかけたものです。簡単です。あっという間に4、5人分の分量の野菜サラダができます。
調理されたものは、防腐剤や着色料が入っているでしょうし、外食は雰囲気で行くようなものです。時間と健康と手間とコストを考えると、素材をそのまま生かして食べるというのがいちばんです。
同様のことが勉強にも言えます。これが外勉から内勉への流れです。
昔、高校入試のことで中学生の生徒の母親から相談を受けました。その相談は、「同学年の子がみんな塾に行き始めたので子供も不安になって塾に行きたいと言い出した。しかし、どの塾がいいか迷っている」というものでした。
私の考えは、「塾に行くよりも、親が教えた方がいい」というものでしたから、家庭での勉強の仕方を説明しました。要は、過去問をやること、全国の入試問題を問題集として使うこと、数学は少し難しい問題集1冊を100%できるようにすること、たまに模試を受けることなどが大事で、それ以外の勉強はすべて回り道になるという話をしました。学校や学習塾などで、既にできる問題を解いたり、できなかった問題を90%ぐらい理解して済ませたりするような勉強はほとんど無駄なのです。ただ、みんながみんな自分で勉強できるわけではないので、そういう他からの手助けも必要だということです。
その子は、その家庭での勉強法で翌年トップ高に合格しましたが、塾に行くよりもはるかに能率のいい勉強をしたと思います。お母さんも、最初はどうなるかと思ったがやってみると意外とできるものだと話していました。
親が高校入試の勉強を始めると、最初の数ヶ月は中学生の子供よりもできません。昔やった数学や理科などはその後使っていない人がほとんどなので、すっかり忘れているのです。しかし、答えを見ながら子供と一緒に解いていると、どんどん勉強を思い出してきます。そのうちすぐに、自分が中学生や高校生だったときよりもできるようになります。これが年の功というものです。
大学入試も基本は同じです。これは親が出てくる必要はありませんが、塾や予備校に通うよりも子供が自分のペースでやっていくのが最も能率がいいのです。特に、国立大志望で教科数の多い勉強をする場合は、独学を基本にやっていく必要があります。ただし、私立大で教科数の少ない入試の場合は、その私立大入試だけに特化した塾で勉強する方が能率がよいということもあります。
自分のペースで行う勉強の仕方は、志望校の過去問をもとに、インターネットで合格体験記や参考書や問題集の情報を手に入れ、自分で勉強の計画を立て、ときどき模試を受けて軌道修正をしていくというものです。最初は試行錯誤でやらなければならないので、塾や予備校に通う方が近道のように思えますが、次第に自分で計画を立てた子の方が力をつけていきます。ただし、自分の力でやるとは言っても、漠然と高校の勉強を熱心に行ってそれがそのまま受験に結びつくというのではありません。大学入試のための勉強は、独自に計画をたてて取り組む必要があります。
こう考えると、これからの塾の役割は、勉強そのものを教える場ではなく、家庭での勉強の仕方を教える場になっていくと思います。それは、学校についても言えることです。
私は、小学校のころ学校に行くのが面倒でたまりませんでした。当時は不登校という言葉もなかったので、仕方なく学校に通っていましたが、授業中窓から外の景色を見てつくづく教室というのは牢獄みたいなところだと思っていました。授業が退屈でたまらないので、教科書に落書きばかり書いていました。中学や高校ではさすがに落書きはしなくなりましたが、授業が退屈なのは同じでした。たまに息抜きができるのは自分のペースでできるテストの時間だけで、それ以外は決められた机で授業を聞くということをずっと束縛に感じていました。
たぶん、今の子供たちも同じような状況で学校や塾に通っているのだと思います。
人間は、与えられたものを受け入れているときよりも、自分の意志で取り組んでいるときの方がずっとよく物事を吸収します。しかし、他人に教わることに慣れてしまうと、教えてくれないからできないという錯覚に陥ってしまいます。他人が教えてくれるのは、勉強の方向だけで、勉強の中身は自分で手に入れるものです。
未来の勉強は、出来合いの授業を受けにいくという他人に依存したものではなく、自分でキャベツやセロリやホタテガイなどの材料を買ってきて料理するというもっと主体的なものになるでしょう。そのとき、学校や塾は、勉強を教える場ではなく、勉強の材料や方法を提供する場になっていくと思います。
1月20日追記
家庭での勉強に関するご相談は、「質問の広場」で受け付けています。
https://www.mori7.net/nohara/situmonn/
家庭で親が子供に勉強を教える場合、大事なのは「忍耐」と「笑顔」と「やり過ぎないこと」です。
特に必要なのは忍耐で、一度教えてすぐに理解できる子はまずいません。同じことを何度も説明して初めて身につきます。いつも笑顔で教えてあげることが大事です。
なお、高校生の小論文に関しては、第三者の目による客観的な評価が必要なので、自分だけで勉強することには限界があります。
また、小中学生の作文について親が教える場合、長期間の指導はカリキュラムや教材がないと難しいと思います。
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これは、言葉の森新聞に掲載した記事を編集したものです。
作文のコツの第三は、難語を自然に書くことです。(「その1」に書いたコツの第一は字数の枠内で書く、第二は誤字をなくす、でした)
「でも、公園にゴミ箱があると、ゴミを減らすという気持ちがなくなる」という文と、「しかし、公園にゴミ箱が設置してあると、ゴミを減らすという自覚が生まれにくくなる」という文では、どちらが知的に感じるかというと、やはり「設置」や「自覚」などの難しい言葉を使ってある文の方です。中学生で、これらの言葉を読めない人はまずいません。しかし、文章の中に自然に使える人は少ないのです。なぜ読めるのに使えないかというと、こういう言葉の入った文章を読む量が不足しているからです。
文章に使う言葉には、自分がふだん読んでいる文章の質が自ずから出てきます。中学生や高校生の文章で、話し言葉とあまり変わらない文章を書いている場合は、その人がふだんあまり本を読んでいないことを示しています。
未消化の難語を使うのはかえってマイナスですが、少し背伸びをした文章語を使うのは、いい文章を書くためのコツです。
第四は、光る表現を入れることです。
文章の結びの5行は、文章全体の印象を左右する部分です。ここに光る表現があると、全体の印象がよくなります。書くことが好きな生徒は、自然にこういうことを知っているのでしょう。結びに一工夫してまとめてある文章をときどき見ますが、例外なく上手な文章です。
光る表現となる要素は二つあります。一つは、「○○はAでなくBである」のような形で、逆説的な真理を述べていることです。もう一つは、結びの意見を書き出しのキーワードと結びつけてまとめていることです。いずれも、考える力がないとなかなか書けません。
第五は、感動のある体験実例を書くことです。
意見は、だれが書いてもほとんど差がありません。人間が考えることにそれほど大きな差はないからです。差があるのは、前に書いた表現の部分とこの実例の部分です。
体験実例に、「友達がこんなことをした」と他人の体験を書いても、印象は強くなりません。また、自分の体験であっても、平凡な体験では印象に残る実例にはなりません。自分の体験であって、しかも、挑戦、感動、個性、共感などの感じられる実例がよい実例です。
文章を読むのは人間ですから、体験実例の印象がよければ、それによって文章全体の印象が上がるのです。例えば、「私は、三年間ひとりで公園のゴミ拾いをしていたが」などという体験がさらりと書いてあれば、読み手はそれだけで文章以前に書いている人間に好印象を持つのです。
しかし、もちろんウソを書いてはいけません。本当のことを書くというのは、文章を書く上での当然の前提だからです。たまに、文章指導と称して、うまく見せるためにウソでも何でも書けという人もいるようですが、こういう発想をすると、目に見える小さな利益のために、目に見えない大きな利益を失うことになります。
いい文章を書くためには、日常生活で挑戦や感動や個性や共感のあるいい行動をすることです。
(つづく)
次回の予定は、第六に知性を感じさせる社会実例を書くこと、第七に構成がわかるように書くこと、です。
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小1や小2の子が音読をすると、読み間違いがたくさんあります。
これを聞いていると、ほぼ百パーセントの人がその間違いを直そうとします。
もちろん、直す間違いもあります。しかし、それは、小学校高学年や中学生になってから、間違えて覚えていることがわかったときのことで、ほとんどの間違いは直す必要のないものです。
低学年の子の間違いは、実力がついていないために間違えているというケースがほとんどです。
例えば、「私の家には、大きな木があります」という文章を読むときに、「私の家に、大きい木があります」と読んでしまうような間違いです。「家には→家に」「大きな→大きい」と2ヶ所も間違いがあります。しかし、これは読む実力がついていないための間違いですから、直す必要はないのです。
直さない方がいいという理由は、子供は自分が予想していないところで間違いを指摘されると、そのあとの勉強がのびのびとできなくなる、ということがあるからです。
小さなことでも注意されると、緊張して読むようになります。そうすると、読むことが苦痛になり長続きしなくなるのです。
たとえ間違って読んでも、いつも褒められていれば気楽に読むことができます。そうして、読んでいるうちに実力がつき正しく読めるようになるのです。
もう少し高度な方法は、子供が自分で間違いを気づくようにさせることです。
子供が文章を読んだあと、今度は親が同じ文章を読んで子供がそれを聞くようにします。その際、親は子供の間違えたところの注意などは一切しません。ただ楽しそうに読んでいくだけです。
そうすると、子供が自然に正しい読み方を理解します。しかし、子供がすぐには理解しないからと言って、親が教えるようなことはしません。
注意やアドバイスは一切せずに、ただ二人で楽しく交互に読んでいくだけです。
「注意すれば下手になり、褒めれば上手になる」というのは、勉強以外にも通用する人生の鉄則のようなものです。
そのように褒められて育った子は、将来社会人になったときに、やはり人を褒めて育てることができるようになるのです。
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息子は小4ですが、いまだに例に挙げられているような読み間違いをします。音読の際、読み間違いを指摘すると、読むペースを文脈がわからないほどの速度に落としたりして、反抗します。もうすぐ5年生なので、間違いを指摘して、読み直させた方が良い時期に入るのではないかと思いますが、どのようなものでしょうか?
また、読み直させる場合の具体的な指摘の仕方、注意すべき点をアドバイスいただければ嬉しいです。
よろしくお願いします。
(息子は読書量もあるほうなので、物語文や簡単な説明文を読むこと自体には、比較的慣れています。)
今は、続けさせることが最優先ですから、正しく読むことは二の次です。
本人が抵抗を感じないように読み間違いを指摘することはできるのですが、それはかなり高度なテクニックが必要です。
ですから、今は、間違えていてもいいから、暗唱や音読を続けさせるということでやっていってください。本人もお母さんもあまり負担がない状態で続けることがいちばん大事です。
アドバイスを有難うございます。
継続することを第一に考え、芽の出る時期を待つことにいたします。
気長にやっていると、忘れたころに、「いつのまにか上手になっていた」ということになると思います。
学年が上がるとだんだん言うことを聞かなくなると思いますが、忍耐強くがんばってください。
小1の息子がなかなか暗唱にとりかかろうとしません。
毎晩お風呂から出て歯磨きをした後、小3の姉は習慣になってきたようで、黙っていてもはじめるのですが、
息子の方には「はーい暗唱の時間だよー」「早くしなさい!」
「こらーッ!!」私もだんだん強い口調で怒ってしまいます。
最終的には読みはじめますが、10回くらいしか読んでいないのに30回読んだーとうそをついたり、だらだらやっているのでとても長い時間がかかります。
「もう少し早口で読んでごらん。」と言うと、今度は猛スピード(聞いていても何を言っているのかまったくわからない、でたらめではないかと思うようなスピード)で読んで反抗します。
’。。間違えて読んでも直さない’以前の問題なのですが、
何かいい方法があれば、アドバイスいただきたいと思います。
一般に、上の子が女の子だと手がかからないので、下の男の子も同じように考えがちですが、男の子は2倍ぐらい手をかけないと同じようにはなりません。
特に、低学年のうちは、密着してお母さんのすぐ近くで読むようにして、1回読み終えるたびに、「よく読めたね」「上手、上手」「その調子」「はい、あと○回」「もう一息」「うまくなってきた」「さあ、ラスト○回」などの声かけをしてあげてください。その際、読み間違いなどは直さずに、読み方の注意もせずに、ただ褒めてあげるだけにした方がいいです。
どんなにたどたどしい読み方でも、回数を繰り返すうちに自然にスムーズになっていき、そのうちに見ないでも言えるようになります。そうなると、自分でも、やればできるものなんだという自信がつきます。
わずか10分だと思って(最初はもっと時間がかかるかもしれませんが)、その間は密着して聞いてあげてください。
言われました通りに暗唱を続けております。
やり始めると、どうにか最後までできるのですが、始めるまでの、とりかかりがとても苦労してしまいます。
今日は小3の娘の事でご相談があります。
小1の息子は、30回読み終わるまで、ふざけたりしながら読んでいるし、回数もごまかしているのではないか。。と疑ってしまう程です。とりかかるまでには親の私が試行錯誤なのですが、実は週一回の電話指導の先生の前では、すらすらとできてしまいます。
一方、姉の方はまじめで、黙っていても暗唱を始めるし、じっくりしっかり「できるようになりたい。」と言う気持ちをこめて読んでいます。それなのに、結果、暗唱できていません。
「どうして弟にはできてわたしはできないの?」っと自分でも悩んでいるようなのです。
’暗唱の仕方で大事な事は覚えようとししないで無心になって読むこ’という内容の記事も、娘に読んで聞かせた事もあります。本人も、暗唱しようとするのではなく、単純に30回読むことを心がけています。
読み方は、特につっかえつっかえでなく、普通に読めています。娘に、’できる’と言う自身を付けさせたいのですが、
どのようにしたらいいのか教えて欲しいと思います。。
まず、森川林代表が示されている例から。
>「私の家には、大きな木があります」という文章を読むときに、「私の家に、大きい木があります」と読んでしまうような間違いです。「家には→家に」「大きな→大きい」と2ヶ所も間違いがあります。しかし、これは読む実力がついていないための間違いですから、直す必要はないのです。
専門的には1つ目の間違いは「省略」、二つ目は「代用」と言います。読むことの本質的な目的は、読み手の意味の把握にあります。この場合は、意味が保持されますので「2ヶ所も間違い」があると考えないほうが学習者のためです。「読む実力」ではなく、読みの上達の過程の姿と考えてはどうでしょうか。
音読中、大人が間違いを指摘することは、音読という活動を中断してしまうこともマイナスなのです。意味が崩れてしまうほどの読み間違いをしたときには、短く否定して(たとえば「ん?」と言って)、もう一度自分で本文を振り返らせてはどうでしょうか。
また、音読暗唱がブームですが、目的のない暗唱は子どもにとって苦役に等しいものです。子どもに強制する前に、親が暗唱の手本を示すことができますか? 親子で楽しむことを大切にしないと、国語嫌いになってしまいます。せめて家庭くらい成果を求めず、のびのびと国語に親しませたいものです。
代表は案を示しています。
>注意やアドバイスは一切せずに、ただ二人で楽しく交互に読んでいくだけです。
親子でこのような活動ができたら素晴らしいですね。マンツーマンの音読指導は学校では絶対できません。また、音読が苦手な子どもほど学校と同じような指導が通用しないものです。
小3と小1のお母さんへ
お返事遅れて申し訳ありませんでした。見落としていました。^^;
微妙な質問は、父母の広場や質問の広場などに書いていただいても結構です。そうすると、スレッド状になってわかりやすくなると思うので。
ミスキューさんが言ってくれたように、お母さんが試しにやってみるというのも、一つの手です。そうすると、コツなどもわかりやすく伝えられます。
暗唱のコツは、大声で早口で繰り返すことです。
ゆっくりていねいに上手に読むと覚えられません。意味を理解する読み方になってしまうからです。歌の歌詞を自然に覚えてしまうような感じで読むと早く暗唱できるようになります。
また、小さい声で静かに読むとやはりなかなか覚えられません。自分の耳で聴くということが大事ですから、できるだけ大きい声で読む方が暗唱しやすくなります。
1日目の100字を30回読む段階で、すらすら言えるのが条件です。100字の30回がちょっと不安だという場合は、300字はできません。また300字がほぼ完璧にできていないと900字はできません。
100字の30回で流れるように言えない場合は、回数をもう10回増やしてもいいです。それでもスムーズにできない場合はもう10回増やします。
限られた時間でうまくできない状態をそのままにするよりも、できて自信を持たせる方がいいからです。
3年生の長文はやさしいので、回数を増やせば必ずできます。がんばってやってください。
ありがとうございます。
続けて質問させてください。
”1日目の100字を30回読む段階で、すらすら言える”というのは、’すらすらと暗唱できている’ということですか?
そういえば、小1の息子は何を言っているのかわからないような速さで読んでいるのに、小3の娘は、しっかりとした口調できちんと読んでいます。私は、逆に、ゆっくり丁寧に読んでいる娘が暗唱できなくて、ふざけたようにいい加減に読んでいる息子が暗唱できているのが不思議でした。
良くわかりました。
次の暗唱からは私もいっしょにやってみて、娘に伝えてみようと思います。
すらすら言えるというのは、すらすら暗唱できているということです。
ちなみに、早口で読むというのは、「、」や「。」で区切らないぐらいのスピードで読んでいいということです。暗唱できるようになってからは、普通に読んでもいいのですが。
わかりました。そのようなやり方で暗唱させてみようと思います。
それから、その、まじめで神経質な性格の娘なのですが、
先週、電話指導の先生に、「じゃあ来週もう一度同じところを暗唱してみましょうね。」とやさしく言われたようなのですが、(自分では一生懸命がんばっているつもりなのに、うまく暗唱できなくて)その後の作文指導の電話の最中ずっと泣いていました。(先生は気づかれなかったようでした)
私は、先生に、「~性格的に、、、~来週は来週のところをやらせてください。」とお願いしました。
そして、今週、実は今日今から、10分後、電話指導の時間なのですが、「言葉の森がいやだ」とべそをかいています。
「継続は力なり~」と言って、今のところがんばらせようと思っているのですが、この先、作文が(国語が)嫌いになってしまわないか心配です。。。
勉強のコツは、できるようにさせて褒めることです。
前提になるいちばん大事なことは、できるようにさせることですから、不十分にできない状態では、どういう対応をしても意欲的になることはできません。できないままでは、褒めることも注意することもどちらもほとんど意味がありません。
勉強が苦手になるのも好きになるのも、「できる」と子供が思うことですから、暗唱ができるという状態に早急にさせていくことが必要です。
小学校3、4年生の暗唱は、全く難しくありません。毎日10分やれば絶対にできることです。
たとえ最初のうちは10分でできなくても、15分か20分もやれば例外なくできるようになり、すぐに10分でできるようになります。
週1回の通信指導なので、先生は家庭での毎日10分のチェックはできませんから、ここはお母さんががんばって毎日10分の暗唱をできるようにさせていってください。
大事なのは、絶対に簡単にできるようになるというお母さん自身の確信です。
娘は、毎日欠かさず金土日30回(100字)、月火水木10回(300字)4週目は900字を5回ずつ読んでいます。注意もアドバイスも一切していません。本人は一生懸命です。ただ性格上、、と言いますか、ゆっくり丁寧に読んでしまいます。
私の前ではだいたい暗唱できているのですが、
「結果暗唱できない」といのは、「電話の時、先生の前で暗唱できない」という意味で、緊張してしまうのか止まってしまいます。
「先生に、’もう一度、同じところを来週も~’と言われて悔しくなっちゃったの。。。」
と先週の電話指導の後、目に涙をためていましたが、
「先生に、次回は’次の暗唱’をさせてもらえるようにお願いしたから大丈夫よ。」
と言ったら、「よかった!」と安心して次の100字の暗唱をしはじめました。
このような場合、本当はどちらの方が良かったのでしょうか?
まずは気持ちを入れ替えさせて、今日の作文が楽しく書けるように何とか励まし、先生からの電話を待ちました。。
2~3回チラッと暗唱文を覗き込んだりしていましたが、なんとか今回は、先生に褒めていただけたようなので、電話ご指導の後、すぐに作文にとりかかることができました。
長く続けさせたいと思っております。
よろしくお願いいたします。
それはよかったです。
暗唱は、勉強と思わずにスポーツと思ってください。
スポーツには勝ち負けもあって、勝ってうれしいことも負けてくやしいこともあります。しかし、その中で子供はいろいろ経験をして成長していくのだと思います。
しかも、暗唱は練習をしっかりすれば絶対に勝てるスポーツですから、やればできるという自信を子供が持てるようになります。
しばらくは、「大体できる」という水準ではなく、「完璧にできる」という水準まで練習して、自信を持たせるようにするといいと思います。
300字が完璧にできていることが前提になって、最後の900字もスムーズにできます。最初の300字にちょっとでもあいまいなところがあると、結局最後の900字も楽にできるようになります。
ですから、合格扱いにして先に進むのはそれはそれでいいのですが、今度の300字はどんな状態でも一息で言えるぐらいに練習しておいてください。読みなれれば、100字が一息なので、300字は3息が目標です(笑)。
暖かいアドバイスをありがとうございます。
長い目で見守って生きたいと思います。
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今日は、たまたま小1や小2の低学年の子のお母さんから、何件か電話相談を受けました。
相談の内容はさまざまですが、共通しているのは、勉強のさせ方についてです。こういう勉強をさせているがいいか」「どういう勉強をさせたらいいか」という相談です。
小1から小4にかけては、親が手をかければそれだけすぐに成果が出ます。しかし、そこで手をかける分野をわかりやすい勉強の面に絞ってしまうと問題が出てきます。
成績というのは目に付きやすいものなので、成果が上がれば親も子もうれしくなります。しかし、その結果、花を咲かせることに気を取られて、肝心の根を育てることを忘れてしまうことがあるのです。
自分自身の身近な人を思い浮かべてみればわかりますが、魅力のある人というのは、成績や学歴とは関係がありません。リーダーシップがあったり、ユーモアがあったり、勇気があったり、美的なセンスがあったりと、そのよさは人によってそれぞれですが、だれもが、成績という狭い尺度ではなくもっとトータルな人間的魅力を基準にして周りの人を見ています。
しかし、学校の中だけは、現実の社会とはかなりずれた尺度で、成績のよさがほとんどすべてであるかのような価値観になっています。その成績を通して見ると、子供の本当の姿が見えなくなることがあります。
子供の育て方に、ただ一つの基準というものはありません。どの親も試行錯誤をしながら子育てをしています。親が子供をよく見ていれば、その子にとって何が必要で何が不要かということは、自ずからわかってきます。しかし、成績の面から子供を見てしまうと、力の入れ方を勘違いしてしまうことが多いのです。
よくある例が、子供にとって負担の大きすぎる勉強を機械的にさせてしまうことです。もう一つのよくある例が、勉強のことばかりに目を向けて、肝心の躾や情操の面をおろそかにしてしまうことです。
大事なことは、子供にとってのよりよい人生というものを考えていくことです。成績は人生の一部ですが、成績がよければ自動的によい人生になるわけではありません。
よりよい人生の一つの指標は、毎日が幸せだということです。たとえ口には出さなくても、子供が「今日も幸せ」と思いながら眠りにつくような過ごし方を目指していくことが、親がまず最初に子供にしてあげることだと思います。
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