■最古参の作文教室
言葉の森が30年前に作文教室を始めたとき、作文の教室というのは全国で一つもありませんでした。作文教室という名前で広告を出したのは言葉の森が最初だと思います。
私は当時から、英語や数学は自分で勉強すればいいし、国語は本を読んでいれば自然にできるようになる、しかし作文は他人からの評価が必要だと考えていたので、作文教室は作文だけの専門の教室でした。
ですから、指導法はすべてオリジナルでした。そして、言葉の森の指導法を多くの人に知ってもらうために、教材をホームページですべて公開していました。大手の通信教育の人が指導法を聞きに来たので、教材を渡して説明したこともあります。
■最先端の技術を使う
言葉の森の教材や指導法はすべてオリジナルなもので始まったので、その後の教材の開発もオリジナルに進みました。
ちょうどインターネットがブレークする前夜でしたので、プログラミングを独学で勉強し動的なページを作ることにしました。現在はワードやエクセルで静的なページを作ることができますし、動的なページもアプリケーションソフトで作れるようになっています。しかし、当時は、日本語の情報さえも少ない時代でしたので、すべて最初から勉強しなければなりませんでした。そのため、言葉の森のページには、いまだに使いにくいところがかなりあると思います。
その代わり、言葉の森には、ほかのところでは決してないようなユニークなページもあります。例えば、
●漢字の使い分けのページです。漢字を入れると自動的にルビがつくというプログラムなので、海外で日本語を勉強する人たちに評判になっています。また、小学校の先生方も学年別にルビを振るときに、このページをよく利用しているようです。
■充実した電話指導
言葉の森の指導のユニークな点は、通信教育なのに電話指導があるということです。言葉の森はもともと通学の教室からスタートしたので、その延長で通信指導でも先生と生徒のコミュニケーションを大切にしたのです。
通信教育で電話指導を行う条件として、教材をすべてウェブ化しておく必要があります。言葉の森の教材は、ほぼ毎学期内容を改訂しているので、講師が全学年の教材を即座に見るためには、最新の教材がすべてウェブで見られるようになっていなければなりません。
もう一つ条件は、休講や欠席への対応が必要だということです。電話指導する場合の難問は、講師が急に休んだとき、生徒が急に休んで他の日にふりかえをするとき、電話がうまくつながらないなどのトラブルがあったときに、即座に対応がしなければならないことです。しかも、これらはよく授業開始の直前に発生します。
電話指導の1分前なのに、講師から、「急にパソコンが壊れたので(あるいは電話が故障したので、子供に熱があるので)今日の電話ができない」という連絡が入るときがあります。そうすると、すぐに全国の講師で代講できそうな人を探さなければなりません。
突然の休講や欠席や事故に対応するためには、講師が指導を共有できている必要があります。その週の作文の課題をどう教えるかということ以外に、担当の先生がこれまでにどういう指導して、その子がどういう作文を書いていたのかということを即座に知る必要があるのです。また、全国の講師に連絡して、その場で担当できる人が対応するという体制にするためには、その前提として、講師どうしの助け合いの文化が必要になってきます。
以上のような理由で、通信教育での本格的な電話指導は、ほかの教室ではやっていないのだと思います。
次回は、
■独自の教材
■小1から高3までの指導
■長期的な展望で読む力をつける指導
の3点について説明していきます。
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「作文の丘から」には、2002年から2007年までの生徒のパソコン作文が入っています。(1998年からのものは、
「作文小論文の花」に)
「作文の丘から」には、約2万7千件の作文があり表示がわかりにくくなっていましたので、これを年別に分けて見やすくしました。
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中学生、高校生の暗唱は難しいと思います。一つの理由は、中学生のころからちょうど単純記憶から理屈で理解する記憶に移り変わる時期になるからです。しかし、それよりも大きなもう一つの理由は、暗唱する文章が説明文だということにあります。説明文のために、文章の流れがつかめないというのが、中学生、高校生の暗唱が難しい大きな原因になっています。
事実文は、自然に暗唱の順序が頭に入ります。例えば、こういう文章です。
「あるところに、おじいさんとおばあさんがいました。おじいさんは山へ柴刈りに、おばあさんは川へ洗濯に行きました。すると、川上から大きな桃が……」
このような事実中心の文章は、内容がすべて時系列の映像になるので、順序を間違えることはまずありません。
ところが、説明文は違います。例えば、次のような文章です。
「わずか一粒の種から一万個以上もの実をつけたトマトの巨木がある。遺伝子組み換えなどの新しい技術により、このようなトマトができたのかと想像されるかもしれないが、そうではない。このトマトは、一本の根幹から何千もの枝が分かれて、トマトの実を結ぶ。」
このような説明中心の文章は、それぞれの文の前後が入れ替わっても意味が通じます。文の前後に厳密な必然性がないのです。
しかしこういう説明的な文章でも、歌の歌詞としてならば比較的容易に覚えることができます。それは、文の流れを音の流れとして把握できるからです。
このため、暗唱は、黙って覚えようとするのではなく声に出して自分の耳で聴いて覚えるということが大事です。説明文であっても、何度も反復して音声を聞いていると、自然に覚えることができるようになるのです。
説明文の暗唱を早くできるようにするもう一つのコツは、出だしの言葉をイメージ化して覚えておくことです。
まず、体の一部に順番をつけます。「1番=頭、2番=おでこ、3番=左目……」といった具合です。または、自分が家から学校に行くときの道順でも構いません。「1番=玄関、2番=信号、3番=コンビニ……」という感じです。
あるいは、順番のすでに決まっているものに結びつけることもできます。言葉の森の課題の名前は、植物名のアイウエオ順になっているので、それに結びつけることもできます。
「アカシア、イバラ、ウツギ、エニシダ、オリーブ、カキ、キンモクセイ、クリ、ケヤキ、コブシ、サツキ、シオン、ススキ、セリ、ソテツ、タラ、チカラシバ、ツゲ、テイカカズラ、トチ、ナツメ、ニシキギ、ヌルデ、ネコヤナギ、ノギク、ハギ、ヒイラギ、フジ、ヘチマ、ホオ、マキ、ミズキ、ムベ、メギ、モモ、ヤマブキ、ビワ、ユーカリ、ベニバナ、ヨモギ、ライラック、リンゴ、ルピナス、レンギョウ、ローレル、ワタスゲ、ピラカンサ、プラタナス、ペンペングサ、ポプラ、ガジュマロ、ギンナン、グミ、ゲンゲ、ゴムノキ、ザクロ、ジンチョウゲ、ズミ、ゼニゴケ、ゾウゲヤシ」
言葉の森の広場の名前は動物名になっています。
「アカトンボ、イワツバメ、ウズラ、エミュー、オオムラサキ、ガチョウ、カッコウ、キビタキ、ギンヤンマ、クサヒバリ、グンカンドリ、ケイマフリ、ゲンゴロウ、コオロギ、ゴリラ、サイチョウ、ザリガニ、シジュウカラ、ジラフ、ズグロカモメ、スズムシ、セセリチョウ、ゼブラ、ゾウガメ、ソウシチョウ、タマムシ、チドリ、ツグミ、テントウムシ、トキ、ナイチンゲール、ニイニイゼミ、ヌートリア、ネオンテトラ、ノビタキ、ハナムグリ、ヒグラシ、フラミンゴ、ヘラジカ、ホタル、マツムシ、ミツバチ、ムクドリ、メジロ、モンシロチョウ、ヤマバト、ビーバー、ユリカモメ、ベニシジミ、ヨシキリ、ライチョウ、リス、ルリタテハ、レミング、ロバ、ワタオウサギ、ピパ、プレーリードッグ、ペリカン、ポインター」
(や行は「やびゆべよ」、わ行は「わぴぷぺぽ」としています)
順番をつけたら、文の出だしをその順番にイメージ的に結びつけます。先ほどの「わずか一粒の……」の文章を体に結びつける例で言うと、「輪(「わずか一粒」の「わ」)が頭につきささった」「イノシシ(「遺伝子」の「い」)がおでこにぶつかってきた」「木の実(「このトマトは」の「この」)が左目に入ってきた」などと、イメージ化した言葉を体の一部に結びつけると、出だしの部分をすぐに覚えることができます。
出だしの部分さえわかれば、あとの文は音の流れとして覚えているので自然に口から出てきます。これが説明文の暗唱のコツです。
暗唱のように一見敷居が高そうに見える勉強は、このような方法で「簡単にできた!」という感覚をつかむことが大事です。簡単にできるようになると、おもしろさが分かってきてさらに続けてみようという気になります。(ただし、小学生の事実文はこのような工夫はあまり必要ありません。事実中心の文章はただ音読を繰り返すだけでも覚えることができるからです)
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暗唱にどういう効果があるのでしょうか。
暗唱していると、発想が豊かになるという実感があります。書こうとすることに関していろいろな言葉が浮かんでくるので、文章がどんどん書けるようになるのです。
読書にも同じような効果があります。なかなか書けないとか、書くことがないという人がときどきいますが、そういう人に共通するのは、あまり本を読んでいないということです。普段本をよく読んでいる人でも、たまたまある期間本を読まないと、その間は文章を書きにくくなるようです。
字数と作文の実力との間には相関があり、長く書ける子は、書くことが苦にならず次々に書くことが浮かんでくるという傾向があります。もちろん例外はあり、短くても密度の濃い作文を書く子もいます。しかし、全体の傾向としてみると、字数と実力には深い関係があります。
なぜ暗唱をすると文章を書きやすくなるのかという理屈はまだわかっていませんが、暗唱によって、言葉が持っている意味の手足が活性化するので、次々に言葉がわいてくるという状態になるのだと思います。
実際にそういうことがあるということを、言葉の森の生徒の調査で調べてみました。それが下にあるグラフです。
12月1週から新しい暗唱法で暗唱の自習を始めました。この暗唱はオプションなので、暗唱をする人も暗唱をしない人もいました。しない人は、受験などで多忙だったり、暗唱の時間が取れなかったりした人です。
暗唱の自習オプションを選択した人は、12月4週までに900字を暗唱できるようにすることを目標にしました。約920名の生徒のうち3分の1の290名が暗唱の自習を選択し、暗唱を選択した人の2分の1の130名が900字の暗唱をほぼ完璧に言うことができました。グラフの中で、暗唱をした人となっているのは、この900字の暗唱ができた人です。
【暗唱の練習と作文の字数の関係】
| 12月1週 | 12月2週 | 12月3週 | 1月1週 |
---|
暗唱をした生徒の作文平均字数 | 842字 | 768字 | 759字 | 872字 |
暗唱をしなかった生徒の作文平均字数 | 829字 | 689字 | 675字 | 735字 |
字数の差 | 12字 | 80字 | 84字 | 136字 |
■グラフの説明
・11月4週から暗唱を始めました。
・12月1週は作文の進級テストなので、どの生徒もたくさんの字数を書きました。
・12月2週はテストが終わってほっとしたので、字数が少なくなりました。
・12月3週は感想文の課題で難しいため、字数が少なくなりました。
・12月4週は清書なので集計していません。
・1月1週は新学期の最初の課題で新鮮なので、どの生徒もたくさん書きました。
・12月1週は、字数の差がほとんどありませんでした。
・しかし、その後はどの週も、暗唱をした生徒の方が字数が多くなりました。
・ただし、これは暗唱の自習をしている期間、子供が作文の勉強に対して特に意欲的になったということもあると思います。
・まだ期間が短いので確定的なことは言えませんが、暗唱をしていると作文がよく書けるようになるという傾向はあるようです。
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反復という方法を主とする教育と、理解という方法を主とする教育の対立は、これまでさまざまなところで繰り返されてきました。
以前、「数学は暗記だ」という刺激的なタイトルで、和田秀樹氏が、解法を暗記して自分のものにしてしまう数学勉強法を提唱したことがあります。この勉強法で、苦手な数学から解放された人は多かったと思います。
しかし、数学者の森毅氏は、こういう勉強法を否定して、数学は覚えるものではなく考えるものだという議論を展開しました。この議論にも多くの人が納得したと思います。
では、どちらが正しかったのでしょうか。実は、浅い反復教育と浅い理解教育の先に、更に深い反復と理解の教育があったのです。
和田氏と森氏のそれぞれの意見は、もちろん深いものでした。しかし、もっと深いところに降りていくと、両者の異なるように見える議論は実は一つにつながっていたのです。
浅い反復教育とは、単純な知識を覚えて自分のものにするような教育です。「富士山の高さは、3776メートル」という知識を覚えるのは、浅い反復教育です。この知識だけの問題が出れば正解を言えますが、だからといってこの知識が生活のほかの分野に生かされることはあまりありません。つまり、閉ざされた完成品の小さな知識のキットをたくさん持つことを目標にするような教育が浅い反復の教育です。
この教育の問題点は、反復の勉強の過程で、完成品を集めることが勉強することだと勘違いしてしまうところにあります。
文章を書くことに関して言えば、名文を覚えるのはいいのですが、それをただ暗記してオウム返しに言うだけの勉強になってしまうのが浅い反復の教育です。
浅い理解教育とは、手持ちの材料だけを使い、自分で考えて作り出すような教育です。
自分で考えるという点で、この教育は将来性があります。しかし、問題点は材料を集めることが二の次になってしまうことです。
完成品のキットを集める方法よりも、限られた材料を工夫して自分で考えるという点は創造的ですが、限られた材料であるためにある程度以上の高さのものは作れないという弱点があります。
文章を書くことに関して言えば、自分が自然に持っている語彙と実例だけで文章を書くことです。身近な生活体験を書くことはできますが、より広い社会的なテーマを論じる意見文を書くには材料が不足してしまうということになります。
深い反復と理解の教育とは、反復によって身につけた豊富な材料を生かして、自分で工夫して何かを作り出すような教育です。
数学で言えば、解法を覚えるだけでもなく、自分で考えるだけでもなく、豊富な解法を組み合わせて自分で考えるということです。
文章を書くことに関して言えば、豊富な実例や表現を駆使して、自分なりに考えて書く文章ということになります。
ところで、昔は、浅い反復教育の弊害というものはあまり問題になりませんでした。
子供たちの勉強する時間がそれほど多くなく、勉強以外の時間のほとんどで自分なりに考える遊びを豊富にしていたからです。
しかし、現代は違います。反復の学習をしてその結果を出すことだけが自己目的化してしまうぐらい勉強の時間が長くなった子が増えているのです。
九九を覚えるぐらいの反復学習であれば、その九九は材料として日常生活の中で生かしていくことができるので何の弊害もありません。
しかし、九九をどれだけ早く言えるかとか、何桁までの九九を言えるかということが、それだけを取り上げて競争するような勉強になると、反復学習の自己目的化が始まります。
九九のような単純なことだけでそのような競争が行われればだれでもそこに不自然さを感じることができますが、その単純な競争が新しい教材として提供されるようになると、単純な学習が自己目的化しているとは感じにくいのです。
そして、現代では、小学校低学年の間だけでなく、かなり長期間にわたって、このような反復による学習が有効であるように見える状態が続きます。
では、深い反復と理解の教育を実現するためには何が必要なのでしょうか。
一つは逆説的に見えますが、反復の学習をもっと徹底することです。今、小学校では教科書の音読が宿題としてよく出されています。しかし、音読の学習は、数回読んだぐらいではあまり意味がありません。もっと徹底して、暗唱するぐらいに読み続けて初めて学習の土台とすることができます。
もう一つは、反復によって身につけた材料をただ知識として再現するのではなく、新たな創造の材料として使っていくことです。それが発表の学習です。
どんぐり倶楽部の理解する教育と、公文式や七田式や百マス計算などの反復する教育は、一見正面から対立しているように見えます。
しかし、そうではありません。両者はより深いところで結びついていくものです。それを結びつけるのが発表の教育なのです。
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読書は、自分の好きな本を自由に読むのがいちばんです。
しかし、そうでない場合もあります。それは第一に、読むのが苦手な子にどう読ませるかという場合です。第二は、読むのが好きな子が更に実のある読み方をしたいという場合です。第三は、少し背伸びをして難しい本を読もうとする場合です。
そこで、読書の工夫の仕方を四つ挙げたいと思います。
第一は、付箋を貼りながら読む方法です。
第二は、読書ノートを利用する方法です。
第三は、問題集を読書がわりに読む方法です。
第四は、たくさんの本を並行して読む方法です。
これらの四つは、いずれも関連があります。
まず付箋を用意します。これは市販の付箋を買うよりも、仮止め用のスティックのりを使って自分で作った方がふんだんに使えます。A4の紙1枚から200-300の付箋ができます。
A4ぐらいの紙を用意して四つに切る。
| 横に二つに折る。上部を外側にそらしておくとあとではがしやすい。
| 折ったところに仮止め用のスティックのりを1-2センチの幅でつける。
|
のりをつけて折りたたんだ状態で、のりのついていない側から切り込みを入れる(数枚まとめて切ると能率的)
| のりのついている側の折り目を1-2ミリの幅で切り落とす。
| 気に入ったところに付箋を貼りながら本を読む。
|
1冊の本を読んで途中で中断する場合、この付箋をページの横に貼っておくと栞(しおり)の代わりになります。
付箋を貼るのは、読んでいて「よくわかったところ」「おもしろいところ」です。おもしろいというのは、いい表現だと思った、いい実例だと思った、いい意見だと思ったというところですが、単純に自分でおもしろいと思ったところと考えておく方がわかりやすいと思います。
付箋を貼りながら読むと、読みかけの本でもどこまで読んだかが外から一目でわかるので、つい最後まで読もうという気になります。これが付箋読書の一つの利点です。
付箋読書のもう一つの利点は、再読しやすくなる点です。同じ本を二回目に読むときは、付箋を貼った箇所だけを読んでいきます。そうすると、一冊の本をより深く味わって読むことができます。
付箋を貼った箇所をもとに、読書ノートに本の内容をまとめることもできますが、それは特に自分で深く把握したいと思った本だけです。本を読むたびに読書ノートをつけていては、かえって読書のペースが落ちます。
しかし、せっかく読んだ本を何もしないでおくのはもったいないので、読書ノートには四行詩を書くようにします。
四行詩の基準は三つあります。
一つは、四行に分かれていることです。
もう一つは、できれば、内容に創造や発見があることです。
最後の一つは、これもできれば、たとえや名言や笑いなどの光る表現があることです。
本を読んで四行詩を書く最も簡単な方法は、付箋を貼ったところの一文を四行に分けて書くことです。
複数の文を四行に分けて書いてもかまいません。また、自分なりに四行の感想を書いてもかまいません。
これを200字詰めの作文ノートに書いていく場合、1行目にその本の書名又はページ数と日付を書きます。2~5行目に四行詩を書きます。そうすると、作文ノート1ページを使ってちょうど2つの四行詩が書けます。
書き方の例は、こういう感じです。(1ページに2日分、2つの四行詩を書いている場合。□はマス。実際には縦書き)
=====================
□□□P207 1月10日□
□ヘレン・ケラーは言った。
□「私は大学でたくさんのことを学んだが、
□そのあとたくさん学んだことを
□忘れなければならなかった」
□□□P310 1月11日□
□「小さな政府」は、。
□大きな無駄があったからこそ
□魅力のある
□メッセージであった。
=====================
これは堅い内容ですが、小中学生の場合はもっと柔らかい内容か出来事中心の四行詩になると思います。
読書ノートに四行詩を書く場合大事なことは、読書をしてそのまとめとして読書ノートを書くのではないということです。
本を読んでそのあとに書くという形だと、書いたから読書は終わりということになってしまいます。
読書というものは、気に入ったら最後まで読みたくなるものですから、それを読書ノートを書くことによって打ち切ってしまうのはもったいないことです。
同じ理由で、読書は勉強の最初や途中でするのではなく、最後にするものです。
読書ノートをつける場合、最初に、前日までに読んだ部分の付箋をもとに四行詩を書きます。そのあと、その日の読書を始めるというふうにします。これなら、おもしろい本は心行くまで読み続けることができます。
小学校の低中学年の子のお母さんから、どういう本を読ませたらいいですかと聞かれることがあります。
日本の小学校低中学年向けの図書環境は充実しているので、書店や図書館に並んでいる本でどの本でもいいというのが答えです。
特に、フォア文庫、青い鳥文庫、偕成社文庫など、シリーズ化されている本は、一度単行本になって評判がよかったものですから、どれを選んでも大きなはずれはありません。しかし、書名や表紙で選ぶのではなく、必ず中身を数ページ目を通してから選ぶことが大事です。
ところが、小学校高学年から中学生や高校生にかけての良書は、あまり売れないせいか書店ではなかなか見つかりません。図書館を利用するというのが一つの方法ですが、もう一つは入試の問題集を読書がわりに読んでいく方法です。
過去1年間分の入試問題集はかなり厚いので、背表紙をはがして40ページぐらいにホッチキスでまとめてきれいな表紙をつけます。問題文が途中で途切れてしまってもかまいません。問題文ですから、空欄があってもそのまま読みます。問題は解きません。難しい言葉があったら辞書で調べるよりも身近にいるお父さんやお母さんに聞きます。
毎日6ページずつ読んでいくと1週間で40ページの小冊子が1冊分読み終わります。毎日10分程度の時間ですから、それほど負担はありません。
読んだものを形として残したいというときは、読書ノートに前日までに読んだ分の四行詩を書いていきます。
よく読みたい本がたくさんあって困るとか、易しい本ばかり読んで難しい本を読まないなどという相談があります。
対処法は簡単です。読みたい本、又は、読む予定の本をずらっと並べて次々に数ページずつ読んでいきます。この場合も付箋を貼りながら読んでいくと、すぐにもとの本の読みかけのところまで戻れます。
読みたい本を10冊ぐらい横に並べて次々に読んでいくと、そのうちに、自然にずっと読み続ける本が出てきます。その場合はその本をずっと読んでいきます。飽きたら気分転換にまた別の本を読みます。
たくさんの本を並行して読んで頭が混乱しないかと聞く人がいますが、そういうことはありません。食事をするのに、ごはんを食べて、味噌汁を飲んで、たくあんを食べて、めざしを食べて、それで胃の中が混乱しないのと同じです。
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外食から内食へという流れが起きています。
私の昼食のおかずは大体、近所のスーパーでキャベツ、セロリ、ホタテガイなどを買って、昆布つゆと酢とコショウをかけたものです。簡単です。あっという間に4、5人分の分量の野菜サラダができます。
調理されたものは、防腐剤や着色料が入っているでしょうし、外食は雰囲気で行くようなものです。時間と健康と手間とコストを考えると、素材をそのまま生かして食べるというのがいちばんです。
同様のことが勉強にも言えます。これが外勉から内勉への流れです。
昔、高校入試のことで中学生の生徒の母親から相談を受けました。その相談は、「同学年の子がみんな塾に行き始めたので子供も不安になって塾に行きたいと言い出した。しかし、どの塾がいいか迷っている」というものでした。
私の考えは、「塾に行くよりも、親が教えた方がいい」というものでしたから、家庭での勉強の仕方を説明しました。要は、過去問をやること、全国の入試問題を問題集として使うこと、数学は少し難しい問題集1冊を100%できるようにすること、たまに模試を受けることなどが大事で、それ以外の勉強はすべて回り道になるという話をしました。学校や学習塾などで、既にできる問題を解いたり、できなかった問題を90%ぐらい理解して済ませたりするような勉強はほとんど無駄なのです。ただ、みんながみんな自分で勉強できるわけではないので、そういう他からの手助けも必要だということです。
その子は、その家庭での勉強法で翌年トップ高に合格しましたが、塾に行くよりもはるかに能率のいい勉強をしたと思います。お母さんも、最初はどうなるかと思ったがやってみると意外とできるものだと話していました。
親が高校入試の勉強を始めると、最初の数ヶ月は中学生の子供よりもできません。昔やった数学や理科などはその後使っていない人がほとんどなので、すっかり忘れているのです。しかし、答えを見ながら子供と一緒に解いていると、どんどん勉強を思い出してきます。そのうちすぐに、自分が中学生や高校生だったときよりもできるようになります。これが年の功というものです。
大学入試も基本は同じです。これは親が出てくる必要はありませんが、塾や予備校に通うよりも子供が自分のペースでやっていくのが最も能率がいいのです。特に、国立大志望で教科数の多い勉強をする場合は、独学を基本にやっていく必要があります。ただし、私立大で教科数の少ない入試の場合は、その私立大入試だけに特化した塾で勉強する方が能率がよいということもあります。
自分のペースで行う勉強の仕方は、志望校の過去問をもとに、インターネットで合格体験記や参考書や問題集の情報を手に入れ、自分で勉強の計画を立て、ときどき模試を受けて軌道修正をしていくというものです。最初は試行錯誤でやらなければならないので、塾や予備校に通う方が近道のように思えますが、次第に自分で計画を立てた子の方が力をつけていきます。ただし、自分の力でやるとは言っても、漠然と高校の勉強を熱心に行ってそれがそのまま受験に結びつくというのではありません。大学入試のための勉強は、独自に計画をたてて取り組む必要があります。
こう考えると、これからの塾の役割は、勉強そのものを教える場ではなく、家庭での勉強の仕方を教える場になっていくと思います。それは、学校についても言えることです。
私は、小学校のころ学校に行くのが面倒でたまりませんでした。当時は不登校という言葉もなかったので、仕方なく学校に通っていましたが、授業中窓から外の景色を見てつくづく教室というのは牢獄みたいなところだと思っていました。授業が退屈でたまらないので、教科書に落書きばかり書いていました。中学や高校ではさすがに落書きはしなくなりましたが、授業が退屈なのは同じでした。たまに息抜きができるのは自分のペースでできるテストの時間だけで、それ以外は決められた机で授業を聞くということをずっと束縛に感じていました。
たぶん、今の子供たちも同じような状況で学校や塾に通っているのだと思います。
人間は、与えられたものを受け入れているときよりも、自分の意志で取り組んでいるときの方がずっとよく物事を吸収します。しかし、他人に教わることに慣れてしまうと、教えてくれないからできないという錯覚に陥ってしまいます。他人が教えてくれるのは、勉強の方向だけで、勉強の中身は自分で手に入れるものです。
未来の勉強は、出来合いの授業を受けにいくという他人に依存したものではなく、自分でキャベツやセロリやホタテガイなどの材料を買ってきて料理するというもっと主体的なものになるでしょう。そのとき、学校や塾は、勉強を教える場ではなく、勉強の材料や方法を提供する場になっていくと思います。
1月20日追記
家庭での勉強に関するご相談は、「質問の広場」で受け付けています。
https://www.mori7.net/nohara/situmonn/
家庭で親が子供に勉強を教える場合、大事なのは「忍耐」と「笑顔」と「やり過ぎないこと」です。
特に必要なのは忍耐で、一度教えてすぐに理解できる子はまずいません。同じことを何度も説明して初めて身につきます。いつも笑顔で教えてあげることが大事です。
なお、高校生の小論文に関しては、第三者の目による客観的な評価が必要なので、自分だけで勉強することには限界があります。
また、小中学生の作文について親が教える場合、長期間の指導はカリキュラムや教材がないと難しいと思います。
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