老大国とは、老人大国ではありません。確かに老人の数は多いでしょうが、単に量的なことではなく、質的に高度に洗練された老文化を頂点として社会のあらゆる文化、経済、政治が統合されている国ということです。
老文化とは、老によって支えられている文化です。そこで描かれるイメージは、老人が深い知識と経験と哲学を持って多くの人から尊敬され、自ずから社会の精神的なリーダーとなって存在している姿です。
国際社会における日本の未来像を考える場合、大事なことは日本に現在あり余っているものを活用し、日本に不足しているものを避けるという発想することです。足りないもの求め、余っているものを無駄に使うという発想をするべきではありません。日本に余っているものは、日本語、老人、歴史と文化などです。日本に足りないものは、若年人口とハングリー精神です。
足りないもの求めることはわかりやすいので、多くの人がそこに未来を求めようとします。しかし、それは、大量の移民を受け入れたり、競争を激化させて活力を生む方向に日本の未来を持っていくことになります。
未来は、単純な過去の延長にはありません。かつて日本が高度成長でなしとげたような工業の時代は歴史的に終わりつつあります。工業社会の代表である自動車産業も、すでに自動車が日常商品化する中で、かつてのような成長力を持つ分野ではなくなっています。それは、古い公共事業のように、すでに形成されている固定化した産業の裾野を潤すだけで、新たな乗数効果を生み出さないのです。
しかし、工業の時代が終わったあとに来るのが金融の時代だというのではありません。金融の時代は、文化の蓄積のない社会が、あり余っているマネーに目を奪われて作り出した虚構の時代です。
工業の時代のあとに来るのは、新しい創造のマーケットによって支えられる文化の時代です。それは、江戸時代に生まれたマーケットに似ています。お茶やお花の文化、和歌の文化、その他江戸時代に生まれた多くの洗練された文化は、実は老人、熟練者、ベテラン、年季の入った人々によって担われていた文化でした。
日本が高齢化するのと同様に、アジアも急速に高齢化が進んでいます。日本はアジアより一足先に尊敬される老大国になればよいというのが日本の社会の大きな未来図なのです。
経済の面から比較してみましょう。
若者が、10時間働いて1万円の収入を得て、2万円の工業製品を作る社会があったとします。その若者が5人集まれば、10万円の工業製品ができます。しかし、この仕組みは、資本さえあれば誰でもできる仕組みであるため、常に激しい競争に置かれています。その工業製品によって生まれた裾野が広がりますが、その裾野もやはりコストと性能の面で常に競争に置かれています。
それに対して、次のような社会もあります。老人が、1時間働いて、5万円の収入を得て10万円の茶碗を作るというような経済を持つ社会です。この仕組みは、老人の個性と熟練に依拠しているため、他の人は真似をすることができません。したがって、そこから広がる裾野もやはり個性と人的なつながりでできたもので、他人では代替することができません。
もし、ある国の若者が10時間働いて1万円もらって2万円の工業製品を作るような世界で、ほかの国の裕福な若者が、5時間働いて2万円もらおうと思うような形で作る工業製品は、当然競争に負けていきます。かくして、裕福な国では機械化が進みますが、機械化は雇用を増やしません。だから、日本の若者は、工業製品で人件費の安い国に立ち向かうよりも、老文化の裾野を形成するような方向で働いていくべきなのです。
その条件は、実は少子化です。少子化により日本には真の英才教育が可能になる社会が生まれています。そして、このような形で成長した若者は、いずれ年をとって新たな老文化の山頂を形成するでしょう。
では、その老文化とは、現代にお茶やお花を復活させることなのでしょうか。そうではありません。21世紀にふさわしい老文化を創造的に作ることなのです。
その文化は、叡智の文化というような言葉でも言い表せるものです。ドラッカーは、90代でなお未来の提言を行いました。貝原益軒もやはり80代で人間に関する深い洞察に満ちた書物を著しました。このような老人の叡智に若者は追いつくことができません。それが、知識産業の時代の特徴です。つまり、知恵と経験と知識の統合こそが老大国の文化となるのです。
老人は自分の専門を深く究めていくことで新しい文化を創造します。そこには、手工芸の分野もあるでしょう。演劇の分野もあるでしょう。小説や絵画や音楽や彫刻や書道や剣道や弓道や動植物の飼育や、新しい感覚に訴える芸術の創造や、詩や短歌や漫画などの分野もあるでしょう。今はまだ生まれていないような新しい分野も含めて、百花繚乱の文化が咲き誇る尊敬される老大国が日本の将来の姿です。
日本文化の特徴は、これらの多様な老文化がすべて道化(みちか)され哲学化され思想化されていくところにあります。つまり、単なる職人芸を究めるのではなく、その職人芸が一つの道として成り立つような文化となるのです。この道化(みちか)ということの中に日本文化の神髄があります。
日本文化は、シンプルで、宇宙の叡智につながり、自然と共存し、無私の精神を持つという方向に進む傾向があります。これが、利害や得失や勝敗や強弱という現実的なところに収斂しがちな他国の文化との違いです。
だから、日本文化を守るとは、守るような実体を持たない日本文化を探して固定化することではなく、日本文化を作ることなのです。日本文化とは、日本刀でも浮世絵でも和服でも日本料理でもありません。それらの実体を通してより高い境地を目指そうとする志です。
日本文化とは、博物館のように物として守られるものではなく、志を生きることなのです。志を生きることとは、免状を手に入れることではなく、同じ志を生きる人の間にあって生きることです。だから、日本におけるリーダーは、単に最高点にいる人ではなく、最高点で志に生きている人でなければなりません。そこに老大国の尊敬の源泉があります。
熟練し、かつ志に生きる老人がさまざまな文化の山頂を形成し、その裾野を英才教育によって育てられた優れた少子化の若者が支えていくというのが日本の社会の未来の姿になると思います。
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ハワイで作文教室を開いているあお先生から、教室新聞が届きました。
そのあお先生がハワイで開いたイラストの作品展がyoutubeで見られます。
(最後の方の画面で頭にレイをつけて登場するのがあお先生です)
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■独自の教材
言葉の森の特徴は、独自の教材を開発していることです。ですから、公立中高一貫校の受験作文の課題などについても、すぐにその傾向に合わせた問題を準備することができます。
大学入試でも、以前はかなり特殊な小論文対策の要望がありました。写真や建築や絵画や音楽の分野で出されるような小論文の問題を作ってほしいというものです。さすがに、今は手間がかかるのでよほどのことがないかぎりそういう要望はお断りしていますが、当時作った教材が受験作文小論文のページに多数残っています。
言葉の森が30年前にスタートするとき、作文指導の分野ではそれまではっきりした評価や進歩の基準がなかったため、言葉の森では最初に指導のカリキュラムを作ることから始めました。まず、作文というものの構造を、構成、題材、表現、主題、表記の5つの分野に分けました。そのそれぞれの分野について、小1から高3までどういう指導をしていくかという流れを作ったのです。
こういう根本的な仕組みができているので、作文指導については、どのような要望にも即座に対応できる体制ができています。
■小1から高3までの指導
言葉の森では、小1から高3までの一貫した指導を行っています。
普通、小学生の作文指導は、小学校の間だけを目標としたものになりがちで、その先の中学生でどのような作文力が必要になるかということまで考えられていません。そのため、小学校の作文は、出来事中心の作文でいかに上手に書くかというものになってしまうことが多いのです。
小学生のころに出来事中心の作文で上手に書けた子が、そのまま中学や高校でも上手に書けるかというと、そういうことはありません。逆に、小学生のころは特に注目されなかったような平凡な文章を書いていた子が、中学、高校と学年が上がるにつれて読み応えのある小論文を書いていくようになることがあります。
文章のジャンルが違えば、当然そこに必要とされる語彙や表現や考え方や構成の仕方も違ってきます。言葉の森では、そういうジャンルの違いも含めて、一貫した作文指導を行っているのです。
そのため、小学生の間に、時に難しすぎる課題を出す場合もあります。例えば、小学3年生で感想文指導を始めることや、小学5年生から難度の高い説明文を読ませて感想文を書かせるような指導をすることです。
普通の通信指導では、このような難しい課題を出せば、ほとんどの子はお手上げ状態になります。しかし、言葉の森には電話指導があるので、その生徒の担当の講師が、生徒の電話での反応を見ながらわかるレベルまで噛み砕いて説明します。また、電話指導でもわからなかった場合は、事務局に電話をかければすぐに追加の説明を聞くことができます。
言葉の森の学年別指導は、電話指導と組み合わせる形でスムーズに進めていけるのです。
■長期的な展望で読む力をつける指導
言葉の森の作文指導の目標は、単にその学年で上手な作文を書けるようにすることではありません。また、受験に合格する作文を書く力は、結果として生まれるものであって、決して合格するための作文が書けるようになればいいというのではありません。
作文について近視眼的な見方をする人の中には、合格できる作文を書くためには上手なウソを書いてもいいのだと教える人もいるようです。(^^ゞ 言葉の森での指導は正反対です。コンクールに出す作文を指導する場合も、受験に書く作文を指導する場合も、「本当のことを書く」が鉄則です。ウソを書いて合格するぐらいなら、本当のことを書いて不合格になった方がずっといいのです。
長い人生では、最初のボタンの掛け方が大事です。最初に、正しい道を歩くようにすれば、時間はかかっても正しい道を歩き続けられます。最初に、ごまかす道を歩いたことがあれば、長い人生でまた困難な選択に遭遇したときに同じ道を歩こうとしてしまいます。
作文の上手な子は、大体頭のいい子です。そういう子ほど、正しい道を歩くよりもうまくやる道が先に見えてしまうのです。だから、親や先生は、あらかじめ折に触れて、「本当のことを書く」ということの大切さを教える必要があるのです。
作文の目的は、創造性、思考力、感受性を育てることです。それは、より大きく言えば、人間の生きる目的である幸福、向上、創造、貢献を実現するための一つの方法でもあるのです。
作文指導が単に書くためのテクニックの指導にならないように、言葉の森では、読む力をつける指導に重点を置いています。それが、暗唱や読書の指導です。読む力の土台の上に、初めて書く力を大きく育てていくことができるのです。
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「本当のことを書く」が鉄則という点について教えてください。
息子(小4)は自分の体験について書き始めて、後半に関連する作り話を付けておもしろい作文にしようとすることがあります。もし作り話を書きたいのであれば、実体験にもとづいて自分が思ったり想像したこと、として分けて書くの方が一番ウソがないですよね。どう声をかけたらよいでしょうか。
小学校4、5、6年生のころのウソは、大人のウソとちょっと違います。
ほとんどすべての子が、作文を面白くしようとして脚色します。
文章力があれば、ウソにはならないような脚色ができるのですが、まだそれほどの表現力がないのでウソになってしまうのです。
想像力と一種のサービス精神の表れからのウソですから、深く追及する必要はありませんが、ひとこと、「面白くていいけど、本当のことを書いて面白くするのがいちばん価値があるんだよ」とウソがマイナスであることを言ってあげるといいです。
本当のことを書いて面白くした具体例と、面白くしようとした脚色の具体例をいただければありがたいです。
それは……具体例というほどのことはないです。
普通に面白く書けばいいのです。
みなさんで、いろいろ考えてみてください。
例えばスキーの作文で、転んだときにストックが飛んでいった程度の体験を、ストックが飛んで雪の中に埋もれてみえなくなったと、脚色して面白くする場合があります。これは許容できるように思います。
一方旅行の作文で、景色がきれいだったです、とか、おもしろかったです、また行きたいです、という表現は好ましく思いません。なんだか借り物の表現でウソっぽさを感じてしまいます。森川林先生のコメントの後半にあることとつながりますが、自分の感受性や思考を表現することを目的にした作文が好ましいと思います。
おはろ母さん、ありがとうございます。
「スキーで転んでストックが飛んでいった」という話で、「ころんで一回転した」とか「ストックがビューンと飛んでいった」とかついオーバーに書いてしまうことは子供ならだれでもよくあります。
「一回転するかと思うぐらいの勢いで転んだ」とか「ビューンと音とたてるように飛んでいった」と書けば正確ですが、ある程度文章力がないとこういう配慮はなかなかできないと思います。
なるほど、納得しました。
森川林先生、おはろ母さま、有難うございます。
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暗唱という勉強の仕方に効果があることがわかってきました。しかし、今心配しているのは、この暗唱の学習が学校などでも取り入れられるようになり、勉強のスタイルとして常態化してしまうことです。
暗唱は、親や先生が子供のころにやっていない勉強法なので、ついその効果だけに目を奪われてしまいがちです。すると、暗唱の自習が、人よりもいかに速くいかに多く暗唱できるかという競争になることも考えられます。競争によって、暗唱に力を入れるというのは最初のうちは効果がありますが、やがて弊害がでてきます。それは、じっくり考えるとか自分で考えを作り出すとかいう要素なしに、覚えることだけが目的になってしまうからです。
江戸時代にも、素読という暗唱の勉強法はありました。そのころに暗唱のしすぎという弊害がなかったのは、子供たちが日常の遊びや仕事の中で、自分で考え判断し作り出す経験が豊富にあったからです。
現在は、そうではありません。勉強以外の時間の多くを、非創造的なテレビやゲームやテレビやインターネットに費やしている子も多いのです。。
自分で作り出すものがない中で、覚え込むことだけに力を入れると、人間の成長は歪んできます。
吸収する勉強は、発表する勉強とセットにすることで初めてバランスよく力のつくものになるのです。これをわかりやすく比喩的に説明すると、次のようになります。
まず、食べるだけで運動しないという生活をしていれば、次第に体が太ってきて、ますます運動が苦手になります。その一方で、食べることだけは得意になります。これを勉強にあてはめると、覚えることだけが得意になるという状態です。
もう一つは、食べずに運動するという生活の仕方です。食べないので力が出ません。そこで、自分の無理のない最小限の範囲で運動をするようになります。勉強に当てはめると、本を読まないので、作文も細々としか書けないという状態です。食べずに運動するというのは、やがて食べないし運動もしないということと同じになります。
最後に、食べて運動するという生活です。食べたものが運動によって血や肉となるので、どんどん力がついてきます。食べることと運動をすることが相互作用で発展していくので、どちらも楽しくなります。勉強に当てはめると、読書も作文もどちらも進んでいくという状態です。勉強と遊びとの対比で言えば、「よく学びよく遊べ」の状態と言ってもいいでしょう。
運動というのは、国語の場合は作文ですが、数学や英語の場合は、問題を自分で考えることや文章を自分で作ることになります。それも、既にある答えを再現するような記憶力に依拠した問題や文章ではなく、自由に自分で考える問題や文章です。
言葉の森の暗唱は、作文指導を充実させるために始めました。作文とセットでない暗唱は、暗唱のための暗唱になります。このような暗唱も最初のうちは効果がありますが、やがてやり過ぎによる弊害も出てくるでしょう。そうならないために、暗唱は作文という創造的な勉強とセットで行う必要があるのだと思います。
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素直に勉強する子がいます。親や先生が「これをしなさい」と言えば、素直に「はい」とやります。
しかし、こういう素直すぎる子がどういう勉強をしているかというと、無理のない範囲で手を抜きながらそつなくやっていることも多いのです。
これは、人間の本能的な対応で、嫌なことでも一生懸命やってしまうと、次にはもっと大きい負荷がかかってくるに決まっています。そうしたら、手を抜きながらぎりぎりのエネルギーでそつなくこなすしかないのです。何か、昔の社会主義諸国の仕事の仕方に似ているようです。^^;
「休まず遅れず働かず」という勉強の仕方をすれば、外見上は親や先生の言うことをよく聞くよい子です。しかし、そういう勉強法では、実は大したことは身についていないのです。小学校低学年からこつこつ真面目に毎日勉強していた子が、それまでずっと遊んでいて中学生の後半から急にがんばりだした子にすぐに追いつかれてしまうのは、こういう事情があるからです。
だとすれば、言うことを素直に聞かない子には、まだそういう手抜き勉強の仕方に慣れてないという点で見所があるのです。
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子供に勉強をさせるときのコツは単純です。大事なことは、絶対に断固として尻を叩いてでもやらせる。しかし、内容については明るく楽しく褒めるだけ。この二つです。多くのお母さんは、この「断固として」という点が弱いのです。しかし、断固としてやらせられるお母さんの多くは、この「褒めるだけ」ができません。
しかし、どちらかしかできないとすれば、お母さんの役割は、やはり「褒めるだけ」の方です。子供はいずれ社会に出て、嫌なことでも「断固として」やらなければならない状態に遭遇します。しかし、温かく「褒めるだけ」で接してくれる人に出会うことはまずありません。褒められて自分に対する肯定的な感情を持って生きていくためには、子供時代にお母さんにたっぷりかわいがられて育つ必要があるのです。
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小学1年生の男の子のお母さんから、「暗唱の自習をなかなかしない」という質問がありました。
以下は、そのお返事です。
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低学年のうちは、密着してお母さんのすぐ近くで読むようにして、1回読み終えるたびに、「よく読めたね」「上手、上手」「その調子」「はい、あと○回」「もう一息」「うまくなってきた」「さあ、ラスト○回」などの声かけをしてあげてください。その際、読み間違いなどは直さずに、読み方の注意もせずに、ただ褒めてあげるだけにした方がいいです。
どんなにたどたどしい読み方でも、回数を繰り返すうちに自然にスムーズになっていき、そのうちに見ないでも言えるようになります。そうなると、自分でも、やればできるものなんだという自信がつきます。
わずか10分だと思って(最初はもっと時間がかかるかもしれませんが)、その間は密着して聞いてあげてください。
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つまり、最初はつきっきりでやることが大事です。お母さんがすぐそばにいれば、だれでもしっかりやります。しかし、そのとき注意やアドバイスは一切せずに、ただ明るく褒めて励ますだけにします。
やがて数日で、子供が自分でできるようになるので、そうしたら密着は必要ありません。しかし、ときどき褒めて励ましてあげてください。
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暗唱の自習が軌道に乗っているのは、次のような状態のときです。
1、一応親が毎日「暗唱の自習をした?」と声をかけます。
(毎日の声かけなしに、子供が自動的に勉強をすることはまずありません。)
2、子供が、「あ、そうだった」と気づいて暗唱の自習を始めます。
(スムーズにできるようにするためには、毎日の勉強の大体の時間を決めておくことです。子供が遊びに熱中しているときに、突然「勉強した?」などと聞かないようにしてください。)
3、子供が読み終えたら、必ず一言褒めてあげます。
(褒め方は、「よく読めたね」「読み方が上手になったね」「難しいのを読んでいるね」などです。読んだあとは、褒めるだけです。読み方を注意したり、読み間違いを指摘したりしないでください。また、特に小学生の間は、親の見ていない子供部屋などでひとりで勉強をさせないようにしてください。低学年の子は、最初のうち親が密着して1回読むたびに褒めてあげてください)
こういう状態が作れない場合は、暗唱の自習はしない方がいいと思います。
というのは、親や子供が苦痛に感じるような形で勉強を進めることは、長い目で見てかえってマイナスになるからです。基準は、「親が叱る」か「子供が嫌がる」ような状態が1週間に1回はあるようなら、その勉強はしない方がいいということです。
暗唱の自習をしなくても、毎週しっかり作文を書いていれば実力はつきます。しかし、書く力は読む力に支えられて上達しますから、本を読む時間は毎日できるだけ確保するようにしてください。
しかし、「そうは言っても、何とか毎日の自習をやらせたい」という人もいると思います。その場合は、まず親が変わることです。子供が変わるのではなく、親が変わるのだと考えることが出発点になります。
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