小学校3、4年生の子なら、絶対に面白がるゲームです。もちろん、大人がやっても楽しいので、雨の休日などで、子供が退屈しているときにやってみてください。
「いつどこ作文」などと呼ぶ人もいます。「いつ、どこで、だれが、何を、どうした」という文をいったんばらばらにして、ほかの人の書いたものと組み合わせる遊びです。
普通は、「いつ」で一つ、「どこで」でもう一つと分けるようですが、「いつ」や「どこ」だけでは創造性が発揮できないので、あまり面白くありません。そこで、次のように分けます。
1、「いつどこでだれが」
2、「何をどうしたら」
3、「何がどうなったので」
4、「どうなった」
このほかに、「何をしながら」「何をしているときに」などをつけ加えることもできます。
例えば、4つの言葉でやるときは、1枚の紙を4つに切って、それぞれにひとつずつ書いていきます。
A.「いつどこでだれが」……きのう、屋根の上で、お父さんが、
B.「何をどうしたら」……おどりをおどっていたら、
C.「何がどうなったので」……ネコが魚をくわえてやってきたので、
D.「どうなった」……幸せになった。
という感じです。
元の文からでたらめに書いていく方が面白くなります。
こう書いた紙を、AならAだけで集めてまぜます。そのあと、ばらばらに組み合わせたABCDの文をひとりずつに配って読んでもらいます。小学校低学年の子がいる場合は、スムーズに読めるように、ちょっと時間をとって自分が読む文を心の中で読むようにさせておくといいと思います。
最初はコツがわかりにくいので、真面目なことを書く子もいますが、一度やると要領がわかり、みんながそれぞれ工夫したことを書くので盛り上がります。
しかし、あまり長い間やっていると飽きるので、2、3回で切り上げます。
知的な作文ゲームをしたあとは、体を動かす遊びです。(あまり知的でもありませんでしたが)
家の中でできる運動系の楽しい遊びの筆頭は、風船バレーボールです。風船を買ってきて、軽くふくらませます。あまりふくらませると、空中にふわふわ浮いてやりにくくなるので、風船の重みですぐに落ちてくるぐらいの空気の入れ方にします。
家の部屋の真ん中にビニールひもを1本はり、ネットがわりにします。ルールは適当です。1人が続けて打たない、3回以内に相手コートに返す、という簡単なものがいいと思います。3、4人でやると結構熱中します。もちろん、2人でもできます。その場合は、1人が続けて打てるのは3回までなどというルールにしておくとよいでしょう。
そのほかに、もっと本格的に家の中で遊びたいときにおすすめなのが、理科実験です。インターネットに、家庭でできる理科実験のページがありますから、その中で面白そうなものをやっていきます。スライム作りなどは簡単にできて面白いと思います。
ゲームやスポーツや実験に飽きたら、家族みんなでカラオケにでも行ってください。充実した休日になると思います。
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■小学校低学年の作文は学校でも家でも教えられそうだが……
小学校低学年のころの作文は、学校でも教えられますし、家庭でも教えられます。それは、低学年のころの作文は、直すところが多いからです。
しかし、作文の書き方の間違いを全部直していって、上手な作文は書けるようになるのでしょうか。おかしいところを直していけば自然にうまくなるというのであれば、作文の苦手な子は一人もいなくなります。しかし、現実には、作文の得意な子はごく一部で、大多数の子供が高学年や中学生になると作文が苦手になってきます。それは、作文を直すことと、上達させることは違う指導だからです。
■直す指導よりも、どう書いたらいいか教える指導が大事
言葉の森の作文指導は、直す指導よりも、どう書いたらいいかを教える指導を中心にしています。小学校低学年のころは、その指導内容も簡単です。小学校1年生の作文は、「会話を思い出してみよう」「たとえをつかってみよう」「思ったことを書いてみよう」などが指導項目ですから、だれでも簡単にできます。
しかし、この指導の先に、小学校3年生で感想文の指導が入ってきます。また、小学校5年生で説明文の感想文の指導になります。中学生になると、意見文の指導が入ってきます。学年が上がって課題が難しくなると、書ける子と書けない子の差が激しくなってきます。こうなると、言葉の森以外の作文指導では、書ける子の指導しかできなくなってくるのです。
■言葉の森以外の作文指導は、指導ではなく評価だけ
例えば、小学校高学年や中学生での読書感想文の指導は、学校ではほとんど行いません。夏休みの家庭での宿題になっているだけです。同様に、言葉の森以外の通信指導では、公立中高一貫校の受験作文指導でも、生徒が全員一律のテキストを見て自力で書くしかありません。書いた作文に対して赤ペンは返ってきますが、書く前にどう書いたらいいかをその子の実力に応じて教える指導はしていません。
言葉の森の作文指導は、担当の先生がそれぞれの子供に電話で説明する形の指導ですから、課題が難しくなればなるほど本領を発揮してきます。小学校低学年のころは、課題が易しいので電話指導の有無はそれほど大きな差とは感じられないかもしれませんが、高学年になると、個別の電話指導があることが決定的な差になってくるのです。
■難しい文章を読む力をつける
作文力は、作文の指導をすることだけで伸びるものではありません。作文を植物の花にたとえると、その根にあたるものが読書力や読解力で、葉にあたるものが多様な経験や知識です。作文という花に表れた結果だけを見て、その結果を直したり褒めたりするだけでは作文力はつきません。根にあたる読む力や考える力を育て、葉にあたる経験や知識という作文の材料を豊富にすることで、初めて作文の花の部分がしっかりと咲いてくるのです。
言葉の森の作文指導の特徴は、長文音読や長文暗唱や読書指導で読む力を育てることを重点にしていることです。
■低学年から始めると生活習慣の一部になる
作文の勉強を始める時期として小学校低学年(できれば1年生)からがよいというのは、実際に、低学年から始めた子の方が、圧倒的に勉強が長続きし上達しているからです。
作文力の必要性を感じるようになるのは、受験で作文が必要になる小学校高学年や中学生になってからです。高校生になって大学入試の小論文で必要になるということもあります。しかし、作文力が必要になるころには、作文の課題も難しくなっているので、難しくなってから始めた子は、作文の面白さを感じることができません。その結果、上達も遅く、長続きもしなくなってきます。
小学校低学年から作文の勉強を始めると、毎週1回作文を書くということが生活習慣の一部として定着します。また、課題の長文を読むことも毎日の勉強の習慣となっていきます。簡単にできるころから始めていると、課題が難しくなっても、それまでの延長で苦もなく書いていくことができるのです。
■作文の勉強で得られる豊富な副産物
作文の勉強には、作文だけにとどまらない副産物があります。第一は、書くことに抵抗がなくなり、書くことが好きになり得意になることです。文章を書くことに抵抗がなくなるということは、大学生や社会人になったときに、大きな力になります。
第二は、小さいころから書き続けた作文が、楽しい思い出になることです。子供が小学校1年生のころにどんなことを感じたり考えたりしていたかということは、大きくなってしまうと忘れられてしまいます。しかし、作文という形で残っていれば、それがそのままその子の成長の記録となります。
第三は、作文を通して親子の知的な対話が増えることです。子供が課題の長文を音読していれば、その長文をもとに似た例や感想などが話せます。作文や感想文の課題に合わせて、両親の小さいころの経験を話してあげれば、子供の視野が広がります。小学校低学年のうちからこのような親子のコミュニケーションを大事にしていると、子供が大きくなってからも対話のある親子関係ができてくるのです。
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これは、言葉の森新聞に掲載した記事です。
1月に「その2」を出したあと、「その3」が出ていませんでした。(^^ゞ
公立中高一貫校の作文入試は大体終わりつつありますが、大学入試の小論文はまだこれからのところが多いと思います。これから小論文試験に臨む方は、言葉の森のこれまでの記事を参考にしていってください。
作文のコツの第六は、知性を感じさせる社会実例を書くことです。
作文の中に書いてある実例が体験だけだと、知的な印象が少なくなります。社会実例の元になるものは、読書です。本をよく読んでいる生徒は、自然にその本の中から実例を見つけてきます。読んだ本からの実例が書いてあると、知識の厚みを感じさせる文章になります。ニュースなどもいい実例になることがありますが、テレビでセンセーショナルに取り上げられた話題だけで書いていると、かえって普段テレビしか見ていないような印象になります。
受験勉強で社会を勉強していれば、その勉強から社会的な実例が書けそうなものですが、そうではありません。受験で勉強している内容はどちらかと言えば断片的な知識なので、文章の中に生きた形で生かすことが難しいのです。それに対して読書によって得た知識は、生きたまとまりの中にある知識ですから、文章の中に生かすことができます。
読書をする時間がなかなか取れない人は、問題集の問題文を繰り返し読む練習をしていきましょう。国語の問題集を読書がわりに読むと、読解力もつきますし、表現力も豊かになります。
第七は、構成がわかるように書くことです。
実は、この構成重視の作文は、言葉の森の勉強でいちばんプラスになるところです。言葉の森の指導の仕方は、全体の構成をまず考えて、それから中身を埋めていくというスタイルです。このため、勉強を続けていると、自然に構成を意識して書けるようになります。
多くの受験生は、課題を見たとたんにまずとりあえず書き始め、書きながら先を考えるというスタイルで書きます。この書き方でももちろんうまくまとまることがありますが、読み手にとってはあまり読みやすい文章にはなりません。構成を最初に考えて書くと、「問題点は二つある。第一に……。第二に……」などという書き方ができるようになります。こういう構成の文章は、頭の中が整理されていないと書けません。採点する人は、このような読みやすい文章に好感を持ちます。
見た目の印象を読みやすく感じさせるために、段落の長さも大事です。考えが整理されていると、どの段落もバランスのよい長さでまとめられます。逆に、考えが整理されていないときは、極端に長い段落や短い段落が混じる形の文章になりがちです。
文章を書く力は、これからますます重要になってきます。そして、文章を書く力は、読む力に支えられています。受験のための勉強が終わったあとも、毎日の生活の中で読書をする習慣をぜひつけていってください。
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幼稚園から小学校1、2年生のころの子供は、親の言うことをよく聞きます。しかも、この時期は模倣の時代なので、与えられたことは何でもどんどん吸収します。
しかし、だからといって、いろいろな勉強や習い事をやらせすぎると、時間ばかりとられて結局何も身につかないことになってしまいます。
子供による向き不向きはありますが、共通して一つだけ大事なものを挙げるとすれば、それは国語力をつけることです。
では、国語力はどのようにして身につけるのでしょうか。
小さいころの国語力は、聞く力、読む力、書く力の順番でつけていきます。なぜ、この順番になるかというと、聞く、読む、書くの順で勉強的になるからです。また、聞く、読む、書くよりも勉強的なのが問題を解くことです。
勉強的なものは、どうしても量が不足します。聞くこと、つまりおしゃべりであれば、時間がたつのも忘れて熱中することができます。読むことも同様です。寝る時間になっても、読むのをやめられないというのはだれでもあります。書くことに関しては、我を忘れて書くというのは学年がもっと上がったときの話で、小さいころは書くことに熱中することはあまりありません。問題を解くことは、更に熱中できません。
子供たちは、起きている時間のほとんどを国語的に生きています。つまり、日本語によって感じたり考えたりしながら生きています。その膨大な国語的な生活時間の中で、たかだか15分や30分ドリルをやったからといって、国語力が向上するわけではありません。
国語力のある子は、問題集を解くような勉強などしていません。日常生活における国語的なやりとりが充実しているから自然に国語力がついているのです。
では、国語的な生活を充実させるためには、どうしたらいいのでしょうか。
よく言われるのは読み聞かせです。読み聞かせをたっぷりされて育った子は、国語力も思考力も向上します。
しかし、読み聞かせのいちばんの問題は、親の負担が大きいことです。親も日々の生活でくたびれているので、毎晩子供のために、自分にとって興味のない本を10分も20分も読んであげるというのは難しいことも多いのです。
そこで、おすすめするのが、読み聞かせではなく、お母さんの作った千夜一夜物語を聞かせてあげることです。人間は、創造的なことをしているときにはくたびれませんから、本を読んで聞かせてあげることよりも、お母さんがアドリブで作った物語を聞かせてあげる方がずっと長く話ができます。全部アドリブでやるほどの材料がないという場合は、種本を読んでおいて、それを思い出して話をすることもできます。日本にはたくさんの昔話がありますから、材料には事欠きません。昔話以外に、歴史上の人物の伝記やエピソードなども面白い材料になります。
しかし、読み聞かせは、夜寝ながらすることが多いので、あまり長くはできません。読み聞かせよりも大事なのが、日常の会話です。
日常の会話は、親も楽しみながら話すことができます。大事なことは、
1、ちょっと難しめの言葉も入れて、
2、短い文ではなく、長い文で、
3、単文よりも、複文や重文で、
4、楽しく、面白く、
話をすることです。
会話というと、大人はすぐに自分の知識を披露するような一方的な話をしがちです。子供に、「ねえ、豆まきって知っている? あれはね……」というような自分の知っている知識を伝えるような会話になってしまうと、話が弾みません。結論を出すことが目的なのではなく、会話を楽しむことが目的なのですから、その場で考えながら創造的に話をする必要があります。
創造的な話と同じように面白いのが、親の体験に基づく失敗談や自慢話です。こういう話でしたら、親も話していて楽しいし、子供も聞いていて楽しくなります。
この楽しい会話の中で、少し難しめの言葉も入れて、短い文よりも長い文で、単文よりも複文や重文を入れて話すようにすれば、それが問題集を解くよりもずっと効果のある国語の勉強になっているのです。
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記事にしていただき有難うございます。
勉強が出来るようにと取り組を重視するあまり、我が家は会話量が少ないのかもしれません。
一学年先取り学習、数検漢検、勉強させることに我武者羅で、年長まで継続してきてしまいました。
情報に振り回され、良いと言われるものは取り入れ、芯の無い教育方針となってしまった感があります。
情報に振り回されず、何が正しいく娘に必要と判断できる親でありたいのですが、なかなか難しいです。
手をかけてあげたことは決して無駄ではないです。
しかし、それは勉強の中身が身についたということよりも、親が手をかけることによって子供が親の愛情と関心の中で育つことができたということの方で、より価値があるのだと思います。
最低限の基準として、子供ができるだけ笑ったり喜んだりしている時間を増やすということだけを押さえておけば、あとは試行錯誤でいろいろやってみるしかないです(笑)。
幸福に生きるための手段の一つとして勉強があるのですが、今の社会では子供自身が勉強を最大の目的にしてしまうところがあるので、時々軌道修正をしながらやっていくといいと思います。
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低学年から言葉の森を始めた方がいいのですか、という質問をよく受けます。
この記事は、
「低学年から始める国語力対策」というタイトルで以前ほかのページに書いていたものですが、ホームページの記事としても検索しやすいように再度掲載しました。
「国語力がないから、社会や理科もすぐに理解できないようです。」
「計算は得意なのですが、算数の文章題が苦手です。」
「国語の記述問題がいつも白紙で困っています。」
↑
これらは、いずれも、小学校高学年以上の保護者の方からの問い合わせです。なぜ、このようなことが起こるのでしょうか。それは、低学年のうちから読んだり書いたりする勉強をおろそかにしてきたからです。
実は、この読み書きの力は、「国語」という教科の枠をこえ、すべての教科に関わる非常に大事な力なのです。国語力は、一朝一夕で身につくものではありません。毎日の生活の中で、地道に積み上げていかなければならないものです。
しかし、いったん身につけた国語力は、失われることなく、ずっと維持できます。これが国語力の特徴です。だからこそ、低学年のうちから最優先で取り組んでいく必要があるのです。
言葉の森では、読む勉強と書く勉強を並行して行っています。
低学年のうちは、読むことと書くことに慣れることが目標です。最初のうちは、長文音読もたどたどしく、作文も1行書くのがやっとというようなことも少なくありません。ここで大切なのは、ほめることです。保護者の方が不安に思われるのもよくわかります。でも、注意するのは逆効果です。
読むのも書くのも得意なのだという暗示をかけることが大事なのです。どの子供もその子供なりのペースで、必ず国語が得意になるはずなのです。たとえ、作文が1行しか書けなかったとしても、自信を持ってほめることです。
ほめられながら力をつけてきた子供は、自分は読むことや書くことが得意なのだという思いがあるので、その後も国語の勉強に積極的に取り組みます。中学年から始まる、長文の感想文課題も難なくこなしてしまいます。
逆に、注意され続けてきた子供は、読むことや書くことに苦手意識を持ってしまいます。一見整った作文を書いているように見えても、それは、素直な気持ちのこもった、その子らしい感性豊かな作文ではありません。
実際、作文が不得意ということで言葉の森に来る中学年の生徒は、自分が一生懸命書いた作文を注意されたことがトラウマになっている場合が多いです。
国語力は成長とともに自然に身につくものではありません。低学年のうちから、読むこと、書くことを生活の中に組み込んでおく必要があります。
こうして身につけた国語力は、受験のみならず、社会に出てからも、さまざまな場面で役に立ちます。毎日の10分間暗唱と週に一度の作文で、この一生の宝となる国語力を身につけることができるのです。
言葉の森の勉強は、ひらがなが書けるようになったら始められます。
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現在の世界の政治経済状況は、次のようになっています。
中国は、輸出の不足を内需の拡大で補おうとして、バブル経済になりつつあります。中国のバブルが崩壊すれば、中国は保有しているアメリカの国債を売却せざるを得ません。米国が破綻を免れようとすれば、日本が肩代わりすることになるでしょう。
このシナリオはやむをえないとしても、その条件として、日本は、アメリカと対等な国家となること約束させるべきだと思います。
そのあと、日本では、食料品などの必需品は高騰します。教育費、交通費、家賃、衣料品などの日常品は、細々と回転していきます。奢侈品や高額品は、もう売れません。ワークシェアリングでも限界があります。そこで、大量の失業圧力が日本経済を襲うようになります。
これをかつてのように農業が吸収することはもはやできません。また、農業が吸収したとしても、その後の展望がありません。土木建築への公共投資も、過去に向けての投資でしかありません。
そこで考えられるのが、新「米百俵」政策です。今後の政策は、新しい雇用を創出するとともに、未来に投資することが大事なのです。
現在、日本の小中高生は1500万人です。これを100万人の教員が教えています。1人の先生が15人の生徒を見る形になっているのです。そして、これが必ずしもうまく機能していません。
この教育体制を、もし1人の教員が5人の生徒を教える形に改善するならば、300万人の教員が必要になり、差し引き200万人の雇用が生まれます。もし1人の教員が3人の生徒を見る形にするならば、500万人の教員が必要になり、400万人の雇用が生まれます。しかも、新たに教員になった人たちの研修や教材開発などで経済の波及効果があるので、さらに大きな雇用を生み出すことができます。
そして大事なことは、この結果、日本の子供たちに落ちこぼれがなくなることです。日本の子供たち全体の学力が向上し、ある分野で優れた子は、特にその才能を伸ばす教育を受けることもできます。また、学力だけでなく、人間性や感受性を育てる教育も充実するでしょう。この子供たちが、未来の日本を支えていくのです。
当面、現在の学習塾の教員などが学校に入ることも考えられますが、基本は、一般の国民が自分の力量や得意分野に応じて学校に入っていくことです。
しかし、教科の学習は、この超少人数教育で急速に向上するはずですが、国語に関しては、学校で学力が向上するわけではありません。家庭での日常生活における国語力育成が必要になります。国語に関しては、少人数教育とともに家庭教育のノウハウも必要になってきます。
しかし、いずれも根本的な障害となるものは何もありません。以上の提案は、今すぐにでも実行可能です。
経済情勢が逼迫してからではなく、今からこの新「米百俵」政策に向けて手を打っていくことが大事です。このページをごらんになったみなさんは、ぜひこの提案を広めていっていただければと思います。
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■国語の勉強法(その1)
「国語の力をつけるためにはどうすればいいのですか」という質問をよく受けます。
私は、これまでずっと、そういうことは国語の専門の塾で対応しているのだと思っていました。しかし、いろいろな人の話を聞くと、国語専門の学習塾というのはほとんどないようです。
また、これは、学習塾関係者の話ですが、英語や数学は成績を上げることができるが、国語は成績を上げることができない。せいぜい漢字の力をつけるぐらいだが、塾という看板の手前、国語も一応教えることにしているということでした。
国語の力をつけることは、実は難しくありません。しかし、学習塾などで授業として行うような形の勉強には向いていません。国語は主として家庭学習の中で力をつけていくものです。言葉の森でも、国語の勉強を直接教えるわけではありません。しかし、勉強の方向は自習という形でアドバイスをしています。このアドバイスを実行した子は確実に力がついてきます。
これまで聞いた話では、小6のときに教科の中でいちばん苦手だった国語が、中学3年生になるころにはいちばんの得意科目になっていたという生徒がいます。また、どうしても国語の成績が伸びなかった小6の生徒が、アドバイスのとおりに勉強をすると、受験の後半で国語の成績だけが伸びたという話がありました。また、高校生で国語の成績がいちばん悪かった生徒がアドバイスのとおりに勉強をしたら、一挙にトップクラスの成績になったという話がありました。もともと国語の好きだった高校3年生の生徒の場合は、大学入試でも国語だけは常にほぼ満点近い成績を取れるので、勉強全体に余裕がありました。
では、それはどういうアドバイスだったかというと、まず第一は、難しい文章を繰り返し読むことでした。
この反対の勉強法が、易しい文章を読むこと、問題を解くこと、です。
ついでに言うと、最も悪い勉強法が、易しい文章を繰り返し読むことです。その典型的な例が漫画やテレビを繰り返し読んだり見たりすることです。(笑)漫画やテレビそのものが悪いのではありません。よくないのは、それを繰り返し読んだり見たりすることで、その一方で漫画やテレビ以外にまともに読んでいるものがないことです。
難しい文章を繰り返し読む際の教材でいちばんよいものが、過去の入試問題です。学習塾によっては、過去問を受験直前にやって実力の判定に使うというところがあります。受験生や親自身も、過去問はそういう使い方をするものだと勘違いしている人がかなりいます。しかし、それは過去問のいちばんもったいない使い方です。過去問は受験勉強のスタートのときから、勉強の中心の教材として使うものです。特に、国語という教科は学年の差がないので、いつからでも使うことができます。
市販の問題集よりも過去問の方がいいのは、作られている問題の質が違うからです。国語の問題は、解釈によって正解と不正解の幅があります。だから、入試問題の場合は正解が一つに限定されるように、細部まで緻密に作られます。その結果、理詰めで考えることのできる良問が多くなるのです。
問題という形式を見ると、すぐに問題を解こうとする人がいます。しかし、国語の問題はいくら解いても力はつきません。解けた問題は、やらなくても解けていたはずの問題ですし、解けなかった問題は、たとえ答えを見ても、次回からそれで解けるようにはならないからです。国語の問題は、解けても解けなくても、どちらも実力にはなりません。しかも、問題を解くというのは、もっと大きなマイナスがあります。それは、一つは時間がかかることです。もう一つは、結局1冊の問題集を1回しかやらない結果になることです。更に、問題を解く形の勉強は、構える勉強になるので、気軽に続けられないというマイナスもあります。
問題を1ページ解いている時間があったら、同じ問題集の問題文だけを5ページから10ページは読めるはずです。したがって、1冊の問題集を全部解いている時間があったら、同じ問題集の問題文だけを5回から10回は繰り返し読めるはずです。それも、電車の中でもベッドの中でも、どこでもできる気軽な勉強として続けられるのです。
子供が小学生のころは、読むだけの勉強というスタイルは、親が見ていて不安になるようで、つい問題を出したり、わからない言葉を調べさせたりする勉強を追加したくなるようです。しかし、こういう一見勉強的なやり方は、多くの場合、マイナスにしかなりません。その理由は、面倒で複雑なことをすると気軽に長続きする勉強にはならなくなるからです。同じ文章を何度も読んでいると、子供自身から、わからない言葉や意味について自然に質問をしてきます。そのときに、親が辞書がわりに簡単に答えてあげればいいのです。辞書で調べる勉強は、調べる勉強として独自にやるものです。読む勉強と調べる勉強を一緒に行おうとすれば、どちらも中途半端になるだけです。
■国語の勉強法(その2)
第二のアドバイスは、点数に一喜一憂するのではなく、実際に親が子供と一緒に、できなかった問題を解いてみるということです。これは、小学生のうちだけでなく、中学生や高校生になっても有効です。
しかし、その場合、問題は、模擬試験や過去の入学試験のようにじっくり練られたものであることが必要です。模試や入試の問題は、受験生の実力を見るために時間をかけて作成されています。そのため、理詰めで考えて解いていくことができるのです。
子供と一緒に問題を解いてみると、意外なことがわかると思います。よくあるいくつかの例を挙げてみましょう。
小学生で多いケースは、問題文を読むスピードが遅いので、あてずっぽうで答えて×になるという例です。時間をかけて考えればできるのに、試験ではできないというのは、大抵このケースです。これは、実は思ったよりも重大な国語力不足で、短期間で成績を上げることはできません。読むための基礎的なが不足しているからです。速読力は、読書量に比例しています。小学校中学年のころまでに、好きな本をたっぷり読んだ子は、自然に速読力がついています。しかし、この場合の読書は、学習漫画や図鑑のように文の長さが短いものではありません。学習漫画は決して悪いものではなく、歴史の漫画などは、全体像を把握し、歴史に親しみを持つことには大いに役立ちます。しかし、漫画の吹き出しのような文章ばかりを読んでいると、長い文章を読む力が低下してしまうのです。小学校中学年までは、勉強する時間よりも読書をする時間を優先するぐらいの方が、高学年になってから本当の実力がついてきます。
しかし、読む力が遅いということが問題になるのは、小学校の高学年のころまでです。その後、中学、高校と年齢が上がるにつれて、読むスピードは自然に上がってきます。それは、単純に、年齢に応じて読む量が増えていくからです。どんなに本を読まない子でも、学校の授業で教科書を読む時間は必ずあります。それが歴史の教科書や生物の教科書であっても、学校生活で活字を読まないということはまずありません。読む量が増えれば、読むスピードは自然に速くなっていきます。
したがって、速読力のない子の場合は、受験が間近であっても、読む練習をすることから国語の勉強を始める必要があります。読む勉強をするときの最も手っ取り早い教材は国語の問題集です。しかし、問題集には読書に没頭するような面白さがありません。受験が終わってから、じっくりと読書をする習慣をつけていきましょう。この読む力がないままに、いくら国語の問題を解いたり解説を聞いたりしても力はつきません。
第二のケースは、逆に、読む力のある子に見られる例です。問題に対する答えを、文章全体から考えて自分の体験に照らし合わせながら答えてしまうのです。例えば、「このとき、浦島太郎がカメを助けた気持ちはどんなだったでしょう」などという問題で、その問題文の前後の文章から答えを探すのではなく、自分の体験から類推して答えてしまうのです。「そういえば、この前、ミドリガメを買ったときは、こんな気持ちだったなあ」という答え方です。
国語の問題の答えは、設問で指示されている部分の前後5行ぐらいの中にあるのがほとんどです。普通の易しい問題では前の5行の中に、やや難しい問題では後の5行の中に答えが隠されています。もし、それ以外のところに答えが隠されているようならば、それは悪問です。できなくても仕方がないと考えておくとよいでしょう。
読む力があるのに×が多いという子には、「答えは文中にある」ということを教えてあげると、それだけで成績が大きく変わることがあります。
第三のケースは、中学生などによく見られます。自分の知らない難しい言葉があると、それを正解に選んでしまうというケースです。このこと自体はそれほど大きく点数に響くものではありませんが、こういう答え方をするその発想に実は大きな問題があります。
テストというものは、よい点数を取るためにあるのではありません。もちろん、入試のようによい点数を取って合格することが目的になるテストもあります。しかし、ほとんどのテストは、自分の実力を評価し、その後の勉強に生かすためにあるのです。それが学校の定期試験でも塾の席順を決める試験でも同じです。ですから、わからない問題があったときに、勘で答えて○になってしまうと、その問題ができなかったことがわからなくなってしまいます。つまり、点数はよくなっても実力はかえってつかなくなるのです。
子供はどうしても目先の点数だけに目が行きます。人生経験の長い大人は、長期的な視野を持って、わからない問題は、適当に答えを入れるのではなく、わからないままに残しておくことが大切なのだと教えてあげてください。
さて、最も重要な間違いのケースは、合っていそうな答えを選んで×になる例です。国語の問題の答え方は、合っていそうなものを選ぶのではなく、必ずしも合っていそうでないものを選ばないというやり方です。これを消去法と言います。
もし、国語の答えが、合っていそうなものを選ぶだけで作られるとしたら、学年が上がるにつれて問題作成はどんどん困難になります。高校3年生の生徒に、普通の日本語の文章を読ませて、そこから正解を問うような選択式の読解問題を作るのは至難の技です。そのために、国語の問題は、問題文自体を難解な悪文にしたり、読む量を増やしたり、これから説明する消去法で解くような歪んだ方向に向かってしまうのです。この歪んだ国語問題をなくすには、選択問題を減らし、記述問題、特に小論文を増やすことが必要です。
■国語の勉強法(その3)
それでは、実際の国語の問題を見てみましょう。
2004年のセンター試験国語1の評論文の最初の問題です。
--略--
学問とは人が何かについて問い、(他の人から学ぶことを含みつつ)答えを得ようとする活動である。その答えは当然ながら当の何かについての知識の資格で求められ、知識からは、問うた人、それから答えるために考えたり観察したり実験をしてみたりした人の活動は消えさせられている。或る事柄についての知識とは、その事柄の在るがまま、すなわち人がそれを知ろうと知るまいと無関係にそれ自身として在るがままの発見の内容であり、従って、知識をもたらした人は、それを発見した、知ったという関わりの後では、知られた事柄だけを自分とは独立のものとして残して知識の中身からは消え去る、こういう建前がある。そうして、様々な学問の対象とは、それについて知識の獲得が目指される相手であり、知ろうとする人の向こう側に位置する何かである。ところが(A)哲学では事情が違う。
何かについて問い、答えを得ようとする活動である点で、それは諸学問に通ずる。けれども、哲学では、問う人、答えを得る人が消去されることは決してない。なぜなら、哲学のイトナみにおいて人は必ずや己との関わりにおいて何かを問うからである。そして、それゆえにまた、哲学では、己とはその何かとだけでなく諸々の一切のものと関わって生きている存在である限りで、何かを中心に問いつつ一切を問題にするよう誘われる。対象が限定されないのである。
--略--
問2、傍線部(A)「哲学では事情が違う」とあるが、どのように違っているのか。その説明として最も適当なものを、次の1?6のうちから一つ選べ。
1、一般に学問では対象についての知識を得ることが重要であるが、哲学の場合は、それだけでなく対象へのアプローチの仕方をも人々に説得できることが重要である。
2、一般に学問では知る側の活動を消去して対象についての知識を得ようとするが、哲学の場合は、自分とのかかわりにおいて問いを立てつつ、一切の対象を問題にする。
3、一般に学問では対象と自分とのかかわり方をより望ましい方向へ持っていくために知識が求められるが、哲学の場合は、自分とは独立したあるがままの知識が求められる。
4、一般に学問では特定の対象と自分とのかかわりを知るために考えたり観察したりするが、哲学の場合は、対象を限定せず自分とかかわる一切のものを知るために考えたり観察したりする。
5、一般に学問では知ろうとする人の向こう側に知られるべきものがあると考えるが、哲学の場合は、知ろうとする人が自分自身を知ることを目的として問いを立てる。
問題文自体が悪文です。もっと易しく分かりやすく書ける内容を、このように分かりにくい言い回しで書いているので、国語の問題として取り上げられたということです。
このような文章を問題として出さないと点数の差がつけられないというところに、現在の国語試験の末期的症状があります。
さて、傍線(A)の「哲学では事情が違う」の内容は、このすぐあとの段落に書かれています。
五つの選択肢のうち、どれを取っても、それ自体の内容としては間違っているとはっきり言えるものはありません。すべて、問題文との関連で正しいかどうかが決まるということです。
実際の問題文は、ここに載せた文章の6、7倍あります。普通の高校生でこういう文章を読むと、大体最後の方には意識が朦朧(もうろう)としてきます。設問を見て、問題文を読み直す気力が失せた状態で選択問題を解くので、合っていそうなものに○をつけてしまうのです。
設問を一つずつ見ていきましょう。
1は、「哲学の場合、対象へのアプローチの仕方を説得できることが重要」などとどこにも書いていないので×です。
2は、特に間違っているところはないので保留です。
3は、「学問は自分とのかかわり方をより望ましい方向へ持っていくために知識を得る」などとどこにも書いていないので×です。むしろ、その反対のことが書かれています。
4は、「学問は、自分とのかわわりを知るために考える」などとどこにも書いていないので×です。これも、その反対のことが書かれています。
5は、「哲学は、自分自身を知ることを目的として問いを立てる」などとどこにも書いていないので×です。これは、この設問自体について言えば、合っているとも合っていないとも言えませんが、問題文との関連で当てはまらないということです。
したがって、正解は、特に間違ったことを言っていない2ということになります。
国語の選択問題はすべてこのような発想で解いていきます。ですから、難しいことは何もありません。ただし、大量の文章をこのように読みこなしていくためには、まず問題文自体をすらすらと読める力が必要です。そのためにも、問題文を繰り返し読む勉強法が有効なのです。
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昨日の物語文に引き続き、今日は、開成中学の国語の入試問題のうち説明文の推測です。
あくまでも推測ですので、正式の入試問題ではありません。
しかし、これを作ったあと、実際の入試問題を見たら(笑)、大体同じようなものでした。
■説明文
「歴史に『もしも』はない」というのはよく口にされる言葉です。
たしかに、「起きなかったこと」は起きなかったことですから、「起きなかったこと」なんか考えてもしかたがないのかも知れません。
でも、どうして「あること」が起きて、「そうではないこと」は起きなかったのか。その理由について考えるのはなかなかにたいせつな知性の訓練ではないかと私は思っています。
どうしてかというと、過去の「(起こってもよかったのに)起こらなかったこと」について想像するときに使う脳の部位は、未来の「起こるかもしれないこと」を想像するときに使う部位とたぶん同じ場所のような気がするからです(解剖学的にはどうか知りませんけれど)。
歴史の勉強をすると、「出来事Aがあったために、出来事Bがその後に起きた」というふうに書いてあります。歴史的事件はまるで因果関係に基づいて整然と配列されているかのようです。けれども、ほんとうにそうなのでしょうか。というのは、私たちの世界で今起きている出来事の多くは「そんなことがまさか現実になるとは思いもしなかったこと」だからです。
例えば、第二次世界大戦が始まる前に、ヨーロッパはいずれフランスとドイツを中心とした国家連合体になり、パスポートも国ごとの通貨もなくなるだろうと予測していた人はほとんど存在しませんでした。同じように、太平洋戦争が始まった頃に日米の緊密な同盟関係が戦後の日本外交の基軸になると予見していた人もほとんど存在しませんでした。
でも、「そういうこと」がいったん現実になってしまうと、みんな「そういうこと」が起こるのは必然的であったというようなことを言います。
でも、歴史上のどんな大きな事件でも、それを事前に予見できた人はいつでもほとんどいません。
同じことが未来についても言えるだろうと私は思います。
私たちの前に拡がる未来がこれからどうなるか、正直言って、私にはぜんぜん予測ができません。わかっているのは「あらかじめ決められていた通りのことが起こる」ということは絶対にないということだけです。後になってから「きっとこうなると私ははじめからわかっていた」と言う人がいても(たくさんいますが)、私はそんな人の話は信じません。
未来はつねに未決定です。
今、この瞬間も未決定なままです。
一人の人間の、なにげない行為が巨大な変動のきっかけとなり、それによって民族や大陸の運命さえも変わってしまう。そういうことがあります。歴史はそう教えています。誰がその人なのか、どのような行為がその行為なのか。それはまだ私たちにはわかりません。ということは、その誰かは「私」かも知れないし、「あなた」かも知れないということです。
過去に起きたかもしれないことを想像することはたいせつだと私は最初に書きました。それは、今この瞬間に、私たちの前に広がる未来について想像するときと、知性の使い方が同じだからです。
歴史に「もしも」を導入するというのは、単にSF的想像力を暴走させてみせるということではありません(それはそれで楽しいことですけれど)。それよりはむしろ、一人の人間が世界の運行にどれくらい関与することができるのかについて考えることです。
私たちひとりひとりの、ごくささいな選択が、実は重大な社会的変化を引き起こす引き金となり、未来の社会のありかたに決定的な影響を及ぼすかもしれない、その可能性について深く考えることです。もしかするとほかならぬこの自分が起点になって歴史は誰も予測できなかったような劇的な転換を遂げるかもしれない。
そういう想像をすることはとてもたいせつです。
【■2】何より、「私ひとりががんばって善いことをしても、何が変わるわけでもない」とか「私ひとりがこっそり悪いことをしても、何が変わるわけでもない」というふうに自分の歴史への参与を低く見積もって、なげやりになっている人に比べて、今この瞬間においてはるかに人生が充実しているとは思いませんか。
「もしも歴史が」(内田樹の文章より)
■問一、著者は歴史がどのようなもので、歴史に「もしも」を考えることがどのような役割を持つと考えているか。八〇字以上一〇〇字以内で書きなさい。
……歴史は必ずしも因果関係で結ばず、かつてどのような可能性があったのかを考えることが未来に繋がり、歴史に「もしも」を導入することで、個人が世界の運行にどれくらい関与できるかについて考えることができるから。
■問二、【■2】「何より、『私ひとりががんばって善いことをしても、何が変わるわけでもない』とか『私ひとりがこっそり悪いことをしても、何が変わるわけでもない』というふうに自分の歴史への参与を低く見積もって、なげやりになっている人に比べて、今この瞬間においてはるかに人生が充実しているとは思いませんか。」という著者の意見に対して反論を述べるとしればどのようなことが言えるか。あなたが反論すると考えて自由に一〇〇字以上一三〇字以内で書きなさい。
……歴史や政治などという大きなものを背負うことが個々人の幸せになるとは限らない。歴史上、勝者もあれば敗者もあり、社会の仕組みや歴史は常に支配者の都合のよいようにつくられる。大きな政治・歴史よりも、個々人がいかに幸せを暮らすことができるかという社会を目指すべきであろう。
※その他の問題は省略。
※解答例はインターエデュのページのものを使わせていただきました。
http://www.inter-edu.com/nyushi/2010/kaisei/jap.php
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