前回は、暗唱が、発想力や思考力という応用分野に生きてくることを説明しました。
暗唱は、理解力や読解力にも役立ちますが、その説明の前に、暗唱の仕方を説明します。
滑らかな暗唱は、どのようにしたらできるのでしょうか。
暗唱は、繰り返せばだれでもできるようになります。繰り返しとは、1日に30分も40分もやることではありません。3日続けて10分ずつやることです。これで、何の苦労もなく暗唱ができます。
暗唱が苦痛になるのは、毎日続けてやらずに、まとめてやろうとするからです。
言葉の森の暗唱法は、1日10分の練習で、1ヶ月で900字の文章が暗唱できるようになる方法です。これは、
暗唱の手引というページに書いてあるやり方です。
この暗唱の練習は、できればお父さんやお母さんも試しに毎日10分、1ヶ月やってくださるとよいと思います。しかし、大人は、すぐに覚えようとしてしまうために、かえって虚心坦懐に音読を繰り返すことができないという傾向があります。これは、中学生や高校生も同じで、何度か音読を繰り返して覚えられそうになると、すぐに直接覚えようとしてしまうのです。覚えるのではなく、音読を続けるということが大事です。
親が暗唱の仕方というものになじんでいないと、子供に対する暗唱の指導もどうしてもピントのはずれたものになりがちです。よくあるのが、口だけで「やりなさい」と言って、本人に任せるやり方です。これでできるのは、既に暗唱が軌道に乗っている子だけです。
暗唱は、最初のうち、親がついて一緒にやることが大事です。しかし、これは決して親にとって負担のあるものではありません。
例えば、朝起きたら、お母さんが食事の支度をしている間に、子供が食卓について10分間暗唱の練習をするという形です。日曜日であれば、昼食前や夕食前でも、このようなやり方でできます。親はほかのことをしているが、子供は近くで暗唱の練習をしている、というのが暗唱や音読の練習の理想の形です。
いちばんよくないのは、子供部屋でやらせることや、親が、「時間のあるときにやっておきなさい」と口で言うだけで済ませてしまうことです。
暗唱するための音読の仕方は、句読点で区切らずに、なるべく早口で、しかしはっきりと、どちらかと言えば棒読みで、比較的大きな声で読むことです。暗唱がすっかりできるようになったら、句読点で区切り、抑揚をつけて上手に読むこともできますが、覚えている最中は、早口で棒読みの方がいいのです。
剣道や野球やテニスの素振りという練習がありますが、振り方を覚えることが目的ではありません。形などは、だれでもすぐに覚えられます。
大事なことは、その形ができることではありません。その形が身につき、いつでもどこでも自然に必要な動きができるようになることです。
形が身につくと、いくら繰り返しても疲れなくなり、動作が美しくなり、いつでも自然にその形が出せるようになります。ですから、暗唱も、「えーと」と考えなら思い出してやっと言えるようになっても、できたことにはなりません。
水が流れるように、よどみなく滑らかにつっかえずに言えることが大事です。暗唱の目安は、滑らかに言えるようになるということです。覚えることを目安にするのではなく、無意識のうちに言葉が出てくるように言えることを目安にしていきます。そのために、同じ文章を繰り返し音読するのです。
では、繰り返し音読をするという暗唱によってどういう効果があるのでしょうか。
一般によく考えられているものは、覚えた文を自分の作文にそのまま使うという効果です。しかし、これは試験のときの暗記とあまり変わりません。覚えた表現を作文に使えるようになるということはもちろんありますが、それはごく一部の効果です。
また、暗唱をしていると記憶力がつくというだけでもありません。記憶に自信がつくということはありますが、記憶する技術だけを考えれば、記憶術という方法を使った方がはるかに効果があります。
では、暗唱によってどういう力がつくのでしょうか。
暗唱によって本当に身につくのは、思考力、発想力、作文力という応用力の分野です。どのようなテーマが出ても、そのテーマに関連する考えが出てくるようになります。
暗唱の練習をしている子は、作文の字数が増えるという調査結果が出ています。これは、暗唱によって発想力が豊かになり、書くことが次々と出てくるからです。
このようになるのは、文章を丸ごと自分のものにすることによって、言葉が持つ関連性の手足が増えるからです。
ある言葉、例えば、「桃」という言葉を思い浮かべたときに、ほかのどういう言葉を連想するでしょうか。普通は、「桃」「ピンク」「梅」「果物」「木」「八百屋」「甘い」「柔らかい」「種」など、桃の実体に関連した言葉だけでしょう。しかし、昔話の「桃太郎」を知っている子供は、「桃」という言葉から、「おじいさん」「山」「柴刈り」「おばあさん」「川」「洗濯」「犬」「猿」「キジ」「鬼」「島」なども連想します。「桃」という言葉が持つ関連性の手足が増えるのです。
普通、文章は逐語的に理解していきます。「桃太郎」という昔話を1回読んだだけならば、桃が登場するのは、おばあさんが川で洗濯をしているときから、家に持ち帰って中から桃太郎が出てくるところまでですから、桃の役割はそれで終わりです。理解のための桃は、せいぜい「おばあさん」「川」「子供」という関連性の手足を持つだけです。しかも、そこには何も桃である必然性はないので、やがて時間がたつにつれて、桃太郎が生まれたという結論だけが残り、どこから生まれたのかという桃の存在は記憶から消えていきます。
桃太郎の場合は、名前の上からも桃のイメージが強力なので記憶からは消えにくいのですが、ほとんどの物事の場合、そこで使われた言葉は単なる手段であり、理解のための道具としての役割を果たしたあとは、記憶には残らないのです。
例えば、「おじいさんは山へ柴刈りに行きました」という場合の、「山」も「柴」も、「桃太郎」のその後の物語の展開に何の影響も与えていません。だから、「桃太郎」の話を1回読むだけでは、おじいさんがどこへ何をしに行ったのかということは、記憶されません。そういう細かいことまで記憶に残っていたのでは、日常生活の肝心なことがかえって思い出しにくくなって困るからです。
しかし、「桃太郎」の話を何度も読んだり聞いたりして、文章が丸ごと頭に残っている場合はそうではありません。「むかし、むかし」という出だしの言葉を聞いただけで、「あるところに、おじいさんとおばあさんがおりました。おじいさんは山へ柴刈りに、おばあさんは川へ洗濯に行きました。すると、川上から……」という文章が一挙に想起されるのです。
これは、テストに、「おじいさんの行った場所はどこで、そこでした仕事は何か」というものが出るから、「場所=山」「仕事=柴刈り」と記憶したのではありません。そういうテスト的な記憶ではなく、文章を丸ごと何度も読んだり聞いたりしたことで、その文章に書かれていることが一つの全体として丸ごと自分のものになったからできるようになったことなのです。
暗唱も、同様です。ある文章を暗唱していると、その文章のどの言葉も、その文章全体との関連性を持ってきます。それは、「桃太郎」の最初に登場する「桃」が、物語の最後に登場する「鬼」と結びつけて考えることができるということと同じです。これが、言葉が関連性の手足を多く持つということです。
関連性の手足を多く持つ言葉とは、会議でたくさんの発言する参加者と同じです。司会があることを聞くと、多くの参加者が次々と挙手をして発現する会議では議論は盛んになります。司会が指名してもなかなか話をしない参加者ばかりでは、会議は進みません。言葉も同じです。手足をたくさん持っている言葉は、次々と連想を広げていきます。
しかし、会議でも、司会が上手にコントロールしないと発言ばかりが増えて混乱するように、言葉も関連性の手足をたくさん持つだけでは、次々と話題が広がって脱線していくことなります。会議をコントロールする強力な司会と同じものが、文章における構成力です。
さて、暗唱によって言葉の持つ関連性が豊かになると、発想や思考が豊かになるだけではありません。言葉の関連性が豊かになることは、理解力、読解力を高めることにもつながっています。