高校生で作文が上手な子も、小学生のころは普通でした。
幼稚園年長から小学1、2年生にかけて、作文のすごく上手な子がいます。このような子をどう指導したらいいのでしょうか。
この子たちがなぜ上手なのかというと、本が好きで、読んだ本の文体や語彙がすっかり身についているからです。つまり、自分で書いているというよりも、読んだ本の文体で書いているのです。これは、いい意味での模倣ですが、本人にとってはごく自然に自分の言葉として出てくるので、模倣という意識はありません。
しかし、こういう子供たちも、成長とともに自分らしさが出てきます。すると、これまでの本の文体から抜け出そうとして、一時的に作文が下手になることもあります。そして、また新しい内容に合った新しい文体の模索が始まります。このようにして模倣と模索を繰り返して次第に自分の文体ができてくるのです。
ですから、小学1、2年生で作文の上手な子を、もっと上手にさせようとは考えないことです。その時代の表現を楽しむとともに、文章を書く習慣を継続し、学年が上がったときに必要な文章力をつけていくという展望で考えていく必要があります。
しかし、もちろんただ書かせるだけではなく、上手な子には、次のような点に留意しながら指導していきます。
第1は、体験です。作文に書く題材となる自分らしい体験を増やしていくことです。
第2は、取材です。作文に書く題材を広げるために、両親や祖父母に取材したり、関連する事柄を調査したりすることです。
第3は、観察です。作文に書く対象をよく観察して、自分の目や耳を使って書くことです。
第4は、比喩です。自分が書き表そうとする対象を自分らしいたとえで表現することです。
第5は、感想です。自分が心の中で思ったことを、できるだけ自分らしい感想として書いていくことです。
つまり、上手な子の指導は、作文の書き方以外の指導という面が大きくなるのです。
高校生で、作文が好きで上手な子がいます。その子たちのほとんどは、小学生のころ普通に上手という程度の作文を書いていました。つまり、書くことが楽しいという程度に上手な作文であって、決して目を見張るように素晴らしく上手な作文を書いていたわけではありません。
そういう普通に上手な子供たちが、中学生のころから少しずつ書き方を変化させて、高校生になると高校生の思考力にあった読書力と文体を身につけて上手に書く力をつけていきました。小学生の上手さの延長ではなく、それぞれの年代に応じた読書力と思考力を身につけて、上手さの内容を変化させつつ成長していったのです。
小学校低学年のころの作文の上手さは、低学年の子供のかわいらしさと似ています。低学年のころのかわいさがそのまま成長するのではなく、途中で反抗や脱線があって、親をときどき困らせて(笑)、だんだんと自分らしい個性と魅力のある人格になって成長していくのです。
では、逆に、小学校1、2年生ですごく下手な子の指導はどうしたらいいのでしょうか。これは、心配いりません。低学年のころは、みんな似たり寄ったりで作文が下手です。コンクールに入選するような上手な子と比較するから下手に見えるのであって、もともとは下手な方が自然なのです。
こういう子供たちの指導は、第1に自信を持たせること、第2に読む力をつけることです。書くことを直接指導するのではなく、書くことの土台となるところに力を入れていくことが大事です。何を書いても、いいところを見つけて褒めてあげて、その一方で毎日、暗唱と読書を気長に続けていくことです。
褒めることと読むことを気長に続けながら作文を書いていると、代り映えのしない状態がいつまでも続くように見えますが、やがて、ある日ふと忘れたころに、「あれ、いつのまにか上手になっていた」と気がつくのです。
不況は、これからますます深化する可能性があります。
すると、子供の教育に関しても、必要最低限のものにしぼって、余分なものは削っていこうという動きが出てきます。
では、何を残して、何を削ったらいいのでしょうか。
残すものは、本当の学力です。削ってもいいものは、見た目の成績です。
お母様方の中には、最初から成績で上位を走っていればあとあとまで有利だと考える人が多いと思いますが、そんなことはありません。小学校のときの成績と、中学生になってからの成績、高校生になってからの成績はどんどん変わっていきます。
今のところ、最終的に大学入試でどういう実力をもって臨むかということが大事ですが、実は、大学に入って卒業したあとも、人間の実力は日々変化していきます。いい会社に入ったり、いい職業についたりすれば一生安泰だというようなことは、これからの世の中ではもうないのです。
では、何が大事なのかというと、それは、激流の時代の中で、魚の釣れる場所を見つけて確保しておいてあげることではありません。どんな流れにあっても魚が釣れるという釣り方を教えてあげることなのです。
今ある人気職業のかなりの部分は、子供たちが大きくなる十数年後には不人気職業になる可能性があります。既にニュースにも流れているように、現在、構造的な危機に陥っている企業のほとんどは、数年前には超人気企業でした。同じことは、石炭産業の最盛期にも起こっていました。今の危機が、決して一時的なものではなく、かつての石炭産業の危機と同じものだと認識することが、これからの社会をたくましく生きていくための前提となります。
では、そのような時代に、子供たちにどういう教育をしたらいいのでしょうか。
第1は、家庭です。どんなに優れた立派な教師よりも、実の親の方が子供を正しく育てることができます。教育の最後の鍵は、知識でも技術でもなく情熱です。子供がよりよく成長してほしいと願う親の気持ちは、どれほど優れた力量の教師の技術よりも、はるかに大きく子供に影響を与えます。親はまず、そのことに確信を持つべきです。子供は、学校や塾で育てるのではなく、家庭で育てるのです。
第2は、日本語です。日本語で読み書き考える力さえついていれば、ほかの勉強は全く問題ありません。英語も数学も理科も社会も、学校の勉強だけで十分ですし、もし学校の勉強で不足している分があったとしても、受験期の集中的な独学ですぐに追いつくことができます。そのためのノウハウは、豊富にあります。
このような考えから、言葉の森では、今、通学できる作文の家庭教室という仕組みを考えています。家庭で、お母さんが、言葉の森の教材を使いながら自分の子供に作文を教えるシステムです。また、教える技術に自信のある人は、自分の子供だけでなく近所の子供を教えることもできます。
言葉の森の勉強の内容は、暗唱、作文、読書ですが、勉強の中で最も教えにくい作文を指導できるのであれば、そのほかの英語や数学は簡単に教えられます。だから、英語や数学でつまずいているに子は、作文以外の指導をすることもできるでしょう。しかし、基本的にすべての教科は独学でできるものなので、先生は大きな方向と重要なポイントを教えるだけで十分です。
言葉の森の通学家庭教室の制度は、まだ試運転中ですが、現在の通信教室の指導は、既に通学教室での指導に必要な内容をすべて盛り込んでいます。
これから不況が深化すると、ますます子供の教育について真剣に考えざるをえなくなりますが、そのときこそ言葉の森の作文教育を子供の成長のための最も確実な土台と考えていってくだい。
なぜこのように言えるかというと、いろいろな方から、言葉の森で習っていて本当によかった、いちばんプラスになった習い事が言葉の森だった、という声をよく聞くからです。そのときのプラスになったというのは、単に受験で役に立ったということだけではありません。もっと大きく人間形成の上でも役に立ったということです。教育の根幹は、学力向上と人間形成で、それを支えるのが言葉の森の作文指導なのです。