言葉の森が小学生の作文指導を始めたころ、作文教室というものは世の中にはまだありませんでした。最初の生徒は、小学1年生が1人、小学6年生が1人の合計2人でした。
しかし、言葉の森は、国語の問題や漢字の書き取りなどの勉強はせずに、作文の勉強だけを続けてきました。漢字の書き取りや国語の問題は、学校でも当然やっていますし、市販の問題集も豊富なので、自分ひとりでも十分にできるからです。
ひとりでもできる国語の勉強に対して、作文は、ほかの人からの評価がないと、自分で自分の作文を評価することができません。また、ひとりで文章を書き続けるというのは、非常に継続しにくいものです。作文というのは、きわめて独学のしにくい勉強なのです。また、作文指導という分野は、方法論というものが確立されていず、どう教えたらどう上手になるかということがわかっていませんでした。
だから、言葉の森は、長年作文指導だけを続けてきたのです。この基本路線はこれからも変わりません。ただし、作文力の土台として読む力が必要なので、読解力と表現力の土台を作るために、音読、暗唱、問題集読書などに力を入れています。
よく、作文の勉強だけで大丈夫なのか、もっと幅広く国語全体の勉強をした方がいいのではないか、と言う人もいます。
しかし、先に述べたように、国語の勉強は、自分ひとりでもできるものです。他の人から教えてもらう利点はあまりありません。また、国語とは、読む力をつけることが勉強の中心ですから、もともと教えてもらって力がつくという性質のものではないのです。
一方、作文の勉強をしていると、作文の勉強がきっかけになって、国語全体の成績が上がることがあります。
先日、中学3年生の生徒の保護者から電話がありました。高校生になると、どういう勉強になるのか教えてほしい、という質問でした。高校生の課題は、中学生の課題よりも難しくなり、それに応じて項目も難しくなるというだけで、基本的なやり方は全く変わりません。そのお母さんの話では、「作文を習っていて本当によかった」「これまで習った習い事の中でいちばんよかった」「書くことが得意になった」「本人も暗唱を毎日やっている」「これからも続けていきたい」ということでした。
作文の学習を始めて、作文だけでなく国語全体の成績が急に上昇する子がいます。そういう子に共通するのは、もともと読む力の土台があったということです。その読む力が、作文を書く練習をすることで引き出されるようになったのです。
作文というものは、国語力の集大成という面があるので、そういうことがよくあります。しかし、同時に、読む力がない場合、作文の勉強だけで読む力を伸ばすことはできません。同様に、漢字の書き取りが苦手な子を、作文の勉強だけで漢字を書けるようにすることはできません。読解力や漢字力は、独自の学習が必要だからです。読解力の場合は、暗唱、音読、読書、問題集読書などによって力がつきます。漢字力は、書き取りの練習をしていくしかありません。
しかし、このような土台ができた子は、作文の勉強を始めると、国語力、作文力が急につくようになるという面があります。
世間では、作文力は、国語力の一部のように考えられています。それは、学校で、国語の勉強は毎日のようにあるが、作文の勉強はたまにしかないからです。だから、一見、国語の勉強をしっかりやっていれば、作文の勉強は特にしなくても済むように思われがちです。
しかし、そうではありません。作文力は、国語力の集大成であり、国語力の広い裾野の上に作文力という頂上があるのです。だから、作文力を見れば、その子の国語力がわかります。しかし、国語のテストの成績を見ても、その子の作文力はわかりません。
中心になるのは作文力で、作文がしっかり書けるようになることが勉強の目標です。その目標を達成するために、土台としての国語力が必要になるという関係にあるのです。
作文が得意な子は、国語も得意です。しかし、作文の勉強をしていれば自然に国語の勉強もできるようになるのではありません。逆に、作文の力をつけるために、国語の力をつける必要があります。
その国語の力をつけるための勉強の基本は読書です。しかし、読書だけでは国語力をつけるのに時間がかかるので、言葉の森では、読書の中の国語的な面を抽出した学習として、暗唱や問題集読書に力を入れているのです。
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勉強というと、ひとりでポツンと机に向かって取り組むイメージがあります。たまに、子供が、ひとりで勉強していてわからないことをお父さんやお母さんに質問すると、お父さんかお母さんがちょっと面倒そうに教えます。そして、「何で、こんなこともわからないの」などと言うこともあります(笑)。
ところが、作文の勉強は少し違います。それは、対話が可能な勉強なのです。ただし、うまくやるための工夫は必要です。その工夫とは、作文の書き方に関する批評はせずに、その作文に書かれている内容を認めてあげることです。
言葉の森の作文の勉強における対話の第1は、音読と暗唱です。例えば、朝の食事の前の時間に、食卓で子供たちが大きな声で暗唱をします。子供たちの元気な暗唱は、聞いていても楽しいものですが、暗唱する当の子供たちも10分間で達成感のある勉強ができるのが楽しいものなのです。
その暗唱の長文が、対話の種になります。テレビの番組を見て話題にすることはよくありますが、子供の読んでいる文章を家族の対話の材料にする方が更に話がはずみます。暗唱以外に、課題の長文を1ページ音読している子もいると思います。課題の長文は、更に豊富な話題を提供してくれます。
対話の第2は、作文です。小学校1、2年生までは自由な題名ですから、どこかに遊びに行ったり、面白い出来事があったりしたときに、作文の材料として使うことができます。また、普段の何気ない日常生活の中でも、身近なものをたとえを使って表現する遊びができます。たとえを作る能力とダジャレを作る能力は共通していますから、日常生活でダジャレを使うことも、子供の言語感覚を育てることにつながります。
小学校3年生以上は題名が決まっている課題なので、次の週の課題に合わせて、作文に書く材料を準備することができます。例えば、「虫をつかまえたこと」「玉子焼きを作ったこと」などの題名の場合は、その題名に合わせて実際に経験をしてみることもできます。また、「がんばったこと」「初めてできたこと」などの一般的な題名でも、家族で話題をふくらませていくことができます。例えば、「初めてできたこと」などという題名の場合は、次のような話ができるでしょう。
父「来週の課題は、『初めてできたこと』か。お母さんは、どんなことがあった」
母「そうねえ。小学生のとき、初めて自転車に乗れたときが感動的だったわねえ」
子「あ、ぼくも、それある、ある」
父「お父さんが初めて自転車に乗ったときは、そのまま曲がれなくてへいにぶつかったなあ」
子「へえ」(笑)
母「いなかにいるおじいちゃんにも、電話で聞いてみようか」
作文の勉強における対話の第3は、書き上がった作文についてです。しかし、ここで大事なことは、書き方の注意や批評はしないことです。子供が書いたものに注文をつけるのではなく、書かれている内容に共感して読んであげることが大切です。
中学生になると、子供は親とはあまり話をしなくなります。それは、子供が内面的な成長をしている時期なので、話をしないことが、ある意味で子供の成長にとって必要な時期でもあるのです。しかし、小学生のときまでに家族でたっぷり対話をしていれば、中学生や高校生になっても、必要なときにいつでも心をこめた話をすることができるようになります。
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高校生で作文が上手な子も、小学生のころは普通でした。
幼稚園年長から小学1、2年生にかけて、作文のすごく上手な子がいます。このような子をどう指導したらいいのでしょうか。
この子たちがなぜ上手なのかというと、本が好きで、読んだ本の文体や語彙がすっかり身についているからです。つまり、自分で書いているというよりも、読んだ本の文体で書いているのです。これは、いい意味での模倣ですが、本人にとってはごく自然に自分の言葉として出てくるので、模倣という意識はありません。
しかし、こういう子供たちも、成長とともに自分らしさが出てきます。すると、これまでの本の文体から抜け出そうとして、一時的に作文が下手になることもあります。そして、また新しい内容に合った新しい文体の模索が始まります。このようにして模倣と模索を繰り返して次第に自分の文体ができてくるのです。
ですから、小学1、2年生で作文の上手な子を、もっと上手にさせようとは考えないことです。その時代の表現を楽しむとともに、文章を書く習慣を継続し、学年が上がったときに必要な文章力をつけていくという展望で考えていく必要があります。
しかし、もちろんただ書かせるだけではなく、上手な子には、次のような点に留意しながら指導していきます。
第1は、体験です。作文に書く題材となる自分らしい体験を増やしていくことです。
第2は、取材です。作文に書く題材を広げるために、両親や祖父母に取材したり、関連する事柄を調査したりすることです。
第3は、観察です。作文に書く対象をよく観察して、自分の目や耳を使って書くことです。
第4は、比喩です。自分が書き表そうとする対象を自分らしいたとえで表現することです。
第5は、感想です。自分が心の中で思ったことを、できるだけ自分らしい感想として書いていくことです。
つまり、上手な子の指導は、作文の書き方以外の指導という面が大きくなるのです。
高校生で、作文が好きで上手な子がいます。その子たちのほとんどは、小学生のころ普通に上手という程度の作文を書いていました。つまり、書くことが楽しいという程度に上手な作文であって、決して目を見張るように素晴らしく上手な作文を書いていたわけではありません。
そういう普通に上手な子供たちが、中学生のころから少しずつ書き方を変化させて、高校生になると高校生の思考力にあった読書力と文体を身につけて上手に書く力をつけていきました。小学生の上手さの延長ではなく、それぞれの年代に応じた読書力と思考力を身につけて、上手さの内容を変化させつつ成長していったのです。
小学校低学年のころの作文の上手さは、低学年の子供のかわいらしさと似ています。低学年のころのかわいさがそのまま成長するのではなく、途中で反抗や脱線があって、親をときどき困らせて(笑)、だんだんと自分らしい個性と魅力のある人格になって成長していくのです。
では、逆に、小学校1、2年生ですごく下手な子の指導はどうしたらいいのでしょうか。これは、心配いりません。低学年のころは、みんな似たり寄ったりで作文が下手です。コンクールに入選するような上手な子と比較するから下手に見えるのであって、もともとは下手な方が自然なのです。
こういう子供たちの指導は、第1に自信を持たせること、第2に読む力をつけることです。書くことを直接指導するのではなく、書くことの土台となるところに力を入れていくことが大事です。何を書いても、いいところを見つけて褒めてあげて、その一方で毎日、暗唱と読書を気長に続けていくことです。
褒めることと読むことを気長に続けながら作文を書いていると、代り映えのしない状態がいつまでも続くように見えますが、やがて、ある日ふと忘れたころに、「あれ、いつのまにか上手になっていた」と気がつくのです。
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不況は、これからますます深化する可能性があります。
すると、子供の教育に関しても、必要最低限のものにしぼって、余分なものは削っていこうという動きが出てきます。
では、何を残して、何を削ったらいいのでしょうか。
残すものは、本当の学力です。削ってもいいものは、見た目の成績です。
お母様方の中には、最初から成績で上位を走っていればあとあとまで有利だと考える人が多いと思いますが、そんなことはありません。小学校のときの成績と、中学生になってからの成績、高校生になってからの成績はどんどん変わっていきます。
今のところ、最終的に大学入試でどういう実力をもって臨むかということが大事ですが、実は、大学に入って卒業したあとも、人間の実力は日々変化していきます。いい会社に入ったり、いい職業についたりすれば一生安泰だというようなことは、これからの世の中ではもうないのです。
では、何が大事なのかというと、それは、激流の時代の中で、魚の釣れる場所を見つけて確保しておいてあげることではありません。どんな流れにあっても魚が釣れるという釣り方を教えてあげることなのです。
今ある人気職業のかなりの部分は、子供たちが大きくなる十数年後には不人気職業になる可能性があります。既にニュースにも流れているように、現在、構造的な危機に陥っている企業のほとんどは、数年前には超人気企業でした。同じことは、石炭産業の最盛期にも起こっていました。今の危機が、決して一時的なものではなく、かつての石炭産業の危機と同じものだと認識することが、これからの社会をたくましく生きていくための前提となります。
では、そのような時代に、子供たちにどういう教育をしたらいいのでしょうか。
第1は、家庭です。どんなに優れた立派な教師よりも、実の親の方が子供を正しく育てることができます。教育の最後の鍵は、知識でも技術でもなく情熱です。子供がよりよく成長してほしいと願う親の気持ちは、どれほど優れた力量の教師の技術よりも、はるかに大きく子供に影響を与えます。親はまず、そのことに確信を持つべきです。子供は、学校や塾で育てるのではなく、家庭で育てるのです。
第2は、日本語です。日本語で読み書き考える力さえついていれば、ほかの勉強は全く問題ありません。英語も数学も理科も社会も、学校の勉強だけで十分ですし、もし学校の勉強で不足している分があったとしても、受験期の集中的な独学ですぐに追いつくことができます。そのためのノウハウは、豊富にあります。
このような考えから、言葉の森では、今、通学できる作文の家庭教室という仕組みを考えています。家庭で、お母さんが、言葉の森の教材を使いながら自分の子供に作文を教えるシステムです。また、教える技術に自信のある人は、自分の子供だけでなく近所の子供を教えることもできます。
言葉の森の勉強の内容は、暗唱、作文、読書ですが、勉強の中で最も教えにくい作文を指導できるのであれば、そのほかの英語や数学は簡単に教えられます。だから、英語や数学でつまずいているに子は、作文以外の指導をすることもできるでしょう。しかし、基本的にすべての教科は独学でできるものなので、先生は大きな方向と重要なポイントを教えるだけで十分です。
言葉の森の通学家庭教室の制度は、まだ試運転中ですが、現在の通信教室の指導は、既に通学教室での指導に必要な内容をすべて盛り込んでいます。
これから不況が深化すると、ますます子供の教育について真剣に考えざるをえなくなりますが、そのときこそ言葉の森の作文教育を子供の成長のための最も確実な土台と考えていってくだい。
なぜこのように言えるかというと、いろいろな方から、言葉の森で習っていて本当によかった、いちばんプラスになった習い事が言葉の森だった、という声をよく聞くからです。そのときのプラスになったというのは、単に受験で役に立ったということだけではありません。もっと大きく人間形成の上でも役に立ったということです。教育の根幹は、学力向上と人間形成で、それを支えるのが言葉の森の作文指導なのです。
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先生に対する話し方で、小学3年生までは、「先生、これとって」という言い方をする子がほとんどです。低中学年は、親しみを持ってもらう方が勉強を進めやすいので、そういう言い方でもかまいません。
しかし、小学5年生以上になると、機会を見て、「先生、これをとってください」と改めるようにします。高学年からは、ある程度けじめをつけた方が勉強を進めやすくなるからです。そのとき、一緒に、「お父さんが」「お母さんが」という書き方を、「父が」「母が」という書き方にするように説明します。
さて、敬語の使い方で間違いやすいものがいくつかあります。
第1は、二重敬語です。
「言う」の敬語として「言われる」「おっしゃる」がありますが、これを重ねて「おっしゃられる」とするのは二重敬語です。間違いというほどではありませんが、やや不自然です。
第2は、謙譲語を敬語として使ってしまう場合です。
「申す」「いただく」「うかがう」「おる」「まいる」「いたす」などは謙譲語ですが、「(目上の人が)申されました」「(目上の人に)いただいてください」「(目上の人に)うかがってください」という言い方をしてしまうことがあります。
第3は、「お○○する」「ご○○する」は謙譲語だということです。
「私があなたにお話しする」は謙譲語です。だから、「あなたが私にお話しする」は、謙譲語を相手に使っていることになります。相手の尊敬語として使う場合は、「あなたが私にお話しいただく」「あなたが私にお話しくださる」などになります。
「私がご連絡します」「私がご案内します」も、謙譲語です。だから、「あなたがご連絡してください」「あなたがご案内してください」は、謙譲語を相手に使っていることになります。「あなたがご連絡ください」「あなたがご案内ください」が尊敬語です。
「私があなたにご連絡します」「私があなたにお知らせします」というのは、自分の言うことに「ご」や「お」をつけておかしいのではないかと思う人もいるかもしれませんが、これは、自分の動作に対する「ご」や「お」ではなく、相手に対するていねいさを表すものですから間違いではありません。
第4は、外部の人に、自分の身内の目上の人のことを話すときに尊敬語を使ってしまうということがあります。
例えば、会社の外の人に、「うちの会社の社長がおっしゃっています」などと言ってしまう場合です。この場合は、「うちの会社の社長が申しております」が謙譲語で正解です。
中には、身内の人に尊敬語を使うだけでなく、更に多重敬語を使ってしまう人もいます。
「うちの会社の社長がおっしゃられておられます」
更に、ていねいな言い方をしようと思って、「社長」を「お社長」などと言ってしまうのも、やはり正しい敬語とは言えません。
「あ、お社長、これは、この間旅行に行ったときのお土産です」
「ほう、ありがとう。何だね」
「お奈良漬です」
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常体は、自分の心の内部に確認しながら書く書き方です。ですから、日記や思索などは、常体で書くのが一般的です。
「果たして、あれでよかったのだろうか。僕は、それでよかったのだと思う。」などという書き方です。
敬体は、他の人に呼びかける言葉づかいです。したがって、手紙や対話などは、ていねいな敬体が一般的です。
「果たして、あれでよかったのでしょうか。私は、それでよかったのだと思います。」などという書き方です。
小学校の国語の教科書では、小学4年生までは敬体の方が多くなっています。しかし、小学5年生から、常体と敬体が半々になり、やがて常体の方が多くなってきます。それは、教科書の内容が物語的、対話的なものから、次第に説明的、思索的なものに変わっていくからです。
読書でも、やさしい物語文は敬体が多く、難しい説明文は常体が多いという傾向があります。
したがって、一般に、高校生で敬体を書きがちな子は、あまり本を読んでいないといえます。逆に、小学校低学年で常体を書きがちな子は、よく本を読んでいるという傾向があります。読書好きと常体は、意外と高い相関があるのです。
常体で書く子は、ほぼ共通して作文が得意です。敬体で書く子には、得意な子も苦手な子もいます。
作文や小論文の試験では、常体の方が書きやすいというのは、意見を論じるようなテーマが多いからです。
また、常体は、文末の変化をつけやすいという利点があります。敬体は、いつも同じような「です」「ます」「でした」「ました」になりますが、常体は自然にさまざまに変化します。
日本語は、英語などに比べて文末が同じ単調な形になりやすいので、その点でも常体の方が文章を書くことには向いているようです。しかし、手紙的なものは敬体の方が自然なので、志望理由書などは、常体と敬体のどちらでも書きます。
昔の日本語は、この文末の単調さを避けるために、なかなか区切りの来ない、だらだらした文を書くか、一律に「候(そうろう)」で終わる形式で書きました。
しかし、現代の日本語は、平均40-50字ぐらいの文で区切るのが一般的です。そして、文末も単調にならないように工夫しなければならないので、昔よりも文章を書くことが難しくなっています。
面白いのは、話し言葉です。大抵の場合、話し言葉は昔の日本語のように、句点のなかなか来ない、だらだらした文として続きます。
「果たして、あれでよかったのでしょうかというと、私は、それはそれでよかったと思うのですが、また、一方では、それはよくないのではないかという人もいて、まあ、いろいろな考え方があるのではないかという気がしますが、私はやはり……」と延々と続いていっても、聞き手はあまり違和感を感じません。文末の単調さを避けるために、日本語は文末がなかなか来ない文になる傾向があるのです。
さて、常体と敬体は、混ぜないのが原則ですが、混ぜる書き方を意識的にする人もいます。
「形容詞+です」という形の「うれしいです」などは、昔は間違いと言われていました。現在は、「うれしいです」も認められています。しかし、まだ言葉の感覚として抵抗を感じる人も少しいるようです。
敬体の文章の中に、「うれしい。」という形が入っても、敬体と常体の混用ではないので間違いではありません。
このようなことを考えると、将来は、常体と敬体の区別はあまりうるさくは言われなくなるような気もします。しかし、現在では、敬体と常体を混ぜて書くと、区別があることを理解していないと見なされ、作文試験では、大幅減点になります。
言葉の森では、常体と敬体の区別を知るために、小学4年生までは敬体で書く練習をし、小学5年生からは常体で書く練習をしています。
敬体と常体の区別は簡単です。敬体は、「です」「ます」「でした」「ました」だけです。せいぜい、「でしょう」「ましょう」「ません」が付け加わるだけです。だから、それ以外が常体と考えておけば、読み返すときに、常体と敬体が混じっていないかどうかを確かめることができます。
と、真面目なことばかり書いているとつまらないので、もうひとこと。
さて、話し言葉では、常体、敬体以外の形もよく使われます。
「僕は、君が好きだ。」「僕は、あなたが好きです。」というかわりに、「僕は、あなたが好き、なんて言っちゃったりして。」というような言い方です。
やがて書き言葉にも、こういう便利な形ができるようになるかもしれません、なんて言っちゃったりして。
というのは、冗談だよーん。(こういうのもあった)
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とてもわかりやすかったです。
ありがとうございます。
質問してもいいですか?
〜を知っていますかの常体は何というのですか。
良かったら、教えて下さい。
「知っているか」です。
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作文を書くのが遅い理由は二つあります。
ひとつは、書くための中身がないことです。これは、材料を豊富にする、熟考するということで対応していくしかありません。構成図を書くことによって材料を広げていくということが役に立ちます。
もうひとつは、書き直しが多いために速く書けないという場合です。書くのが遅いという場合、ほとんどがこのケースです。
話し言葉では、普通、言い直しをしながら喋るということはありません。
通常の会話は、
「昨日、海に行ったのよ」
「へえ、どこ」
「城ヶ島」
「あ、そう」
というふうに進んでいきます。
ところが、これを文章に書こうとすると、考える速さの方が書く速さよりもはるかに速いので、書きながら考えが次々とわきあがってきます。
「私は、(えーと、私じゃなくて私たちの方がいいか)。昨日、(じゃなくて、昨日の朝としておこうか)。海に、(というよりも城ヶ島の海に、と書いておこうか)。行きました、(と書いてもいいけど、ドライブに行きました、と書こうか)」
などと次々と考えながら書いていきます。
話し言葉では、話すスピードと考えるスピードが同じなので、こういう言い直しは起きませんが、書き言葉では、書くスピードの方がずっと遅いので書き直したくなるところが次々と出てくるのです。
体験学習などで子供たちが作文を書いた机のあとを見てみると、消しゴムのカスがたくさん残っています。パソコンで書くときには消しゴムのカスは残りませんが、同じような書き直しがたくさんあるはずです。
書き直すというのは、よい文章を書くために推敲するというプラスの面もありますが、ただ書き直すのが癖になっていて、とりあえず書いておいて、あとから書き直すという習慣が定着しているということも多いのです。
したがって、文章を速く書くための対策は、ひとつひとつの文をあとから書き直さないつもりで書くということになります。
そのためのひとつの方法が、手書きの場合は消しゴムを使わないということです。書き間違いは当然ありますが、消してもいい書き間違いは1文字だけとしておきます。2文字以上を続けて消すというのは、書き間違いではなく文を書き直していることになるからです。
もうひとつの方法は、制限時間を決めておくということです。これは、全体の時間を決めるだけでなく、途中の時間も決めておくことが大事です。全体を4つぐらいの段落で書く場合、作文試験の場合は、全体の2分の1の時間で、字数は4分の3まで書くという配分で書いていきます。普段の練習では4つの段落をそれぞれ4分の1ぐらいの時間を目安にして書いていきます。
消しゴムを使わない、制限時間を決めておく、という以外のもうひとつの新しい方法が、いったん音声入力をしてから書くという方法です。
この方法はまだ一般的ではありませんが、今後、だれでもが簡単にできるようなものにしていく予定です。
音声入力では、構成図を見て、自分が書こうとする文章を最初に全部音声で入れておきます。あとでテキスト化しやすくするために、1文ずつ切りながら入れておくのがコツです。音声で入れるときは、考えながら言うのではなく、普通に話すときと同じスピードで入れるようにします。音声を全部入れ終わったら、1文ずつ再生して文章にしていきます。
音声化して書くスピードに慣れておくと、普通に書く文章も書き直しをせずに一度で書けるようになってきます。
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本日3月2日午後6時半ごろ、土曜日9時の体験学習のお申込みいただいた「東京都文京区」の小4女子の保護者の方、お電話番号が書いてありませんでしたのでお知らせください。<(_ _)>
電話0120-22-3987(9:00-20:00)
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