前回は、作文における四つの方向、内側、外側、過去、未来ということを書きました。
今回は、その続きです。これは、趣味の哲学の分野の話なので、具体的なことでは何の役にも立ちません。忙しい方は、読まずに飛ばしてください。(^^ゞ
作文の本質は何かということを考える場合、そもそも世界にある存在するもの、つまり存在物とは何かということから考える必要があります。
どのようなものであれ、存在物を見てみると、「ある」ということが常に「ない」ということとの関連で成り立っていることがわかります。スピノザは、「すべての規定は、否定である」と述べました。つまり、「○○である」は、「○○以外のものではない」という定義と同じだということです。「○○以外のもの」が、その存在物にとっての境界を形成しています。その境界から向こう側をその存在物にとっての無と考えると、存在物は常に外に向かって無と隣接していることがわかります。
つまり、石は、石の表面から外に向かって常に石でないものを否定することによって石であり続けているということです。チャップリンの、「バラはバラらしくあろうとして、岩はいつまでも岩であろうとしてがんばっている」という言葉を思い浮かべる人も多いと思います。
だから、石がガラスにぶつかると、ガラスを打ち壊すことによって自身が石であることを貫徹します。しかし、石がそれよりも硬い壁にぶつかれば、はねかえされるか壊されるかすることによって自身が石であることの否定に直面します。
このように存在物は、外に向かう無と常に共存して成り立っているということができます。これを、外部に対する無化と呼びます。同じように、存在物は、内部に対しても無と共存しています。これが、内部に対する無化です。また、存在物は、常に過去を無化し、未来を無化することによって現在であり続けようとしています。(長くなるので省略しますが)
この存在物の本質がより鋭く現象化するのが生物です。生物の場合は、石のようなものよりもよりはっきりと、外への無化、内への無化、過去への無化、未来への無化ということが表れます。
その生物存在を更にはっきりと現象化させたものが、人間という意識存在です。
そして、その意識の外化したものが言葉です。
人類が最初のころ発していた音声による言葉は、直接的な意識でした。言葉は当初、話す人と聞く人がその場にいなければ成り立たない音声の言葉として成立していました。しかし、その言葉がやがて文字として更に外化していきます。
言葉は文字、そして文章として外化することによって、ひとつの作品としての完結性を持つようになりました。そこで、この完結性を持った文章である作文にも、存在物の四つの側面が反映されているのです。
ですから、作文を樹木になぞらえるということは、単なる思いつきではなく(といっても、やはり思いつきですが)、作文も樹木も同じ存在物だということを根拠にして言えることなのです。
では同様に、作文を、樹木ではなく、花や虫や小動物になぞらえることもできるのでしょうか。それは、もちろんできますが、そうすると、言葉の森という名前を、言葉のお花畑とか、言葉の昆虫王国とか、言葉の動物園などと変えなければなりません。
「さあ、今学期でアザラシの課題が終わったから、次はインドゾウの山だ」なとどいうのもあまりぱっとしません。もっとかわいそうなのは、昆虫の場合で、「やっとゲジゲジの山が合格したと思ったら、今度はゴキブリの山だよ」とか「今週の課題は、フンコロガシの3.4週だ」などということになりかねません。
そうならないように、言葉の森は、植物の名前で、「アカシア」「イバラ」「ウツギ」「エニシダ」などという課題の名称をつけているのです。
先の合格情報の続きです。
合格されたみなさん、おめでとう!
宇都宮女子高校
千葉県立千葉中学校
京都大学医学部
慶應大学法学部
東京女子大学
東京大学文科1類
東北大学理学部
一橋大学商学部
横浜市立大学医学部
しかし、何度も書きますが、第1志望に合格しなかったみなさんも、それがやがて自分の大きなプラスになることを確信して、4月からの新しい勉強を始めていってください。
大学に進学する人は、
「●これから大学生になるみなさんへ」のページも参考にしてください。
小学6年生のMさんよりお手紙をいただきましたので、ご紹介します。
私は、来年から中学生ですが、言葉の森を五年からやっていて、塾に行かずに公文国際学園に合格しました。二年間ありがとうございました。
言葉の森をやっていてよかったことは、大きく分けて三つあります。言葉の森は勉強の時間をそれほど必要としないこと、文章の内容を理解して自分なりの意見が持てるようになること、字数を考えて書く習慣がつくことの三つです。
私は、英語が得意で、英検三級をとるなど英語の勉強をずっと続けていましたが、それも、言葉の森に使う時間が塾よりも短かったからできたことだと思います。私が受験のために一日中勉強していたのは、受験の前の一ヶ月間だけでした。五年生の夏休みにはアメリカの祖母のところに行くこともできて、とても充実した二年間でした。ありがとうございました。