本は読まないが、学習漫画はよく読むという子がいます。確かに、知識は身につきますが、それはテレビで身につく知識と似ています。絵や映像の助けを借りているので、吸収しやすい知識ですが、読む力はつきません。これは、漫画も同じです。学力で大事なのは、読む力であって知識ではありません。読む力さえあれば、知識はいつでもつけることができるからです。
もちろん、漫画にも字がありますが、漫画が読む力につながるのは、小学校1年生の文字を習い始めたころまでだと思います。
しかし、漫画や学習漫画やテレビの問題点は、読む力がつかないことにあるのではありません。読む力がつかないことと言えば、ほかに、朝ごはんや散歩や入浴もそうです(笑)。問題は、読む力がつかないことではなく、それらが読書と競合するところにあります。
普通の本と漫画が両方手元にあった場合、することがないからと、子供が最初に手にとるのは漫画の方です。ですから、漫画や学習漫画がよいか悪いかというのは二義的なことで、いちばん大事なのは、いかに本を読む生活をするかということです。
本を読む習慣を作るためには、毎日読書を10ページ以上すると決めておくことです。自分で読む力が伴わない子の場合は、読み聞かせも並行して行います。どんな本を読むかというのは親が指定してよいのですが、親が選ぶ基準は真面目で難しくなりがちなので、どちらかといえば楽しくて易しいと思われるぐらいの本を選ぶようにします。
毎日本を読んでいると、「することがないから本でも読む」という場面が出てきます。本の好きな子は、ちょっとした空き時間にも本を読むという形で読書量を増やしています。このわずかな時間の読書があるかないかということが大事なのです。
漫画や学習漫画が普通の本の読書と競合しないようにするためには、漫画や学習漫画は、読んだら片付けるということを基本にします。もちろん、常時置いておいておきたいと思うような価値ある数冊の漫画や学習漫画は残しておいてよいのですが、基本的に家庭の環境として、たくさんの本と数冊のよい漫画又は学習漫画あるという状態にしておくとよいと思います。
テレビも、これに似ています。テレビの場合は片付けるというわけにはいかないので、毎日見る時間を1時間などと決めて、見たい番組を選択するようにします。つまり、暇だからテレビを見るという惰性の見方をしないということです。そのためには、親自身がテレビをコントロールすることが必要です。
ゲームは、魅力のある遊びなので、親でもなかなかコントロールしにくいものです。私(森川林)の家では、子供が小学生のとき、朝早起きして5時までならゲームをしてもよいというようにしていました。ロールプレイングゲームで盛り上がっているときは、結構早起きしてがんばっていました。ひとつは、このように時間帯で決めておくことです。こういう決め方をすると、たまに異常に早起きをして何時間もゲームをする場面も出てきます。そういうときは、「おお、すごいなあ」と感心していればいいのです。そういう無理は長続きしないので、自然に子供の生活時間になじむ形に落ち着いていきます。
もうひとつは、早起きなどの特別の時間帯以外の1日のゲームの時間数を決めておくことです。これも私の家の例ですが、ゲームは平日は1日15分と決めていました。しかし、15分では物足りない場面もあります。そういうときは臨機応変に追加することもありました。この場合、大事なことは、しぶしぶやらせるのではなく、心から楽しくやらせることです。
雨の日曜日で子供が退屈しているときなどは、「読書を50ページ読んだらゲームを15分」というように、読書とセットにしておくといいと思います。子供の生活で大事なことは、勉強することでも、遊ぶことでもありません。「よく学び、よく遊べ」という言葉のように、「よく○○する」ということ、つまり心からする状態を作ってあげることがです。
インターネットと携帯のメールは新しいツールなので、まだコントロールの仕方が社会的にできていません。これも、基本は、本人が自分の力でコントロールできるように話し合いをすることと、インターネットやメールに埋没しなくても済むように、他の生活を充実させることになると思います。
この記事に関するコメント
コメントフォームへ。
テレビゲームでも心から楽しくやらせることはどうして大事なのですか?テレビゲームしているそばで、「そんなにゲームばかりしていると目が悪くなる、とか、頭が悪くなるのよ。」とかいう親の発言は、子どもにどんな悪影響が考えられるのでしょうか?
小言を言われながらやっていると、よけい目が悪くなったり、頭が悪くなったりします。
どんなことでも、家庭での話し合いで一定のルールを決めて、その範囲で楽しくやるようにするといいと思います。
同じカテゴリーの記事
同じカテゴリーの記事は、こちらをごらんください。子育て(117)
これからの時代に求められる教育は、エキサイティングな教育、わくわくする教育です。人生は、好きなことをして生きるためにあります。その人生につながるものとして、勉強することがあります。勉強することは本来楽しいものです。
高校生になると、だれでも勉強というものに対する向上心を持つようになります。しかし、自然に向上心を持てるようになるためには、小学校低中学年で、勉強を競争や賞罰だけのものにしないことが大事です。それは、勝ち負けの喜びに適応しすぎると、学ぶ喜びをかえって感じにくくなってしまうからです。
スポーツには、勝ち負けがあります。しかし、それは、勝ち負けが成り立つようなルールの中でスポーツが行われているからです。スポーツは、人工的なゲームで、そのゲームの中で勝ち負けがあることによって技術の向上があるという仕組みになっています。
勉強も、テストという人工的なルールの中で、競争が向上につながる面を持ちます。しかし、このテストというものの弊害は、ひとつには勉強が狭い範囲に限定されてしまうことです。例えば、テストに関係のない科目は手を抜くというような発想がどうしても出てきます。もうひとつの弊害は、テストによって、勉強というものが本来持つ向上心の喜びを感じることが遅くなるということです。
学問は、もともと、テストのような人工的な枠に限定されたものではなく、無限の可能性を持つ自然のようなものです。すると、その無限に開かれた自然と関わる方法は、個性と創造性を発揮することです。つまり、勉強の究極の姿は、個性と創造性を生かして学ぶものなのです。
その個性と創造性を開花させる土台として、小中学校、そして高校の教育があります。だから、この教育という基盤(インフラ)は、全員が全教科の満点を目指すものでなければなりません。しかし、現状は、教育というインフラにおいて、テストによって点数の差をつけることが目的になり、その目的を達成する手段が競争になっています。
なぜ教育で競争が行われるかというと、それはこれまで、進学先の学校の入学者に定員があったからです。なぜ入学者に定員があったかというと、社会における職業の地位に定員があったからです。
しかし、インターネットの時代には、定員というものは次第に意味がなくなります。勉強については、学校で勉強するという選択肢を超えて、インターネットを利用して自由に学び、自由に発信できる環境が生まれています。また、職業については、世の中が今よりも更に豊かになると、生活のために職業につくという選択肢を超えて、自分で自由に起業をするという生き方ができるようになります。そういう時代に必要な教育が、全員満点の教育を土台にした個性と創造の教育なのです。
この教育は、三つの方向で考えることができます。
第1は、すべての子供たちにトータルな基礎学力をつけることです。基礎学力をつける学び方の基本は、学ぶ対象を受け入れることです。したがって、小中学校の勉強の中心は、模倣の勉強になります。この模倣によって、全員が、早い遅いの違いはあっても満点をとるような教育をしていく必要があります。もちろん、ゲームのようなものとしてテストによる競争も生かす仕組みも残りますが、テストでよい点をとることは、勉強の目的ではなく、余興のようなものになっていくと思います。
第2は、楽しいこと好きなことをして生きる力を育てることです。そのためには、自然、人間、社会、事物というリアルなものの中で生きていくことが大事です。バーチャルなもの、つまり、テレビ、ゲーム、本、インターネットは、人間の生活においてあくまでも二次的なものです。しかし、このバーチャルなものにおいても、自分から働きかけることのできるものはリアルな面を持ちます。例えば、絵をかく、作文を書く、プログラムを作るなどということは、バーチャルな世界におけるリアルな行動です。これからの教育に重要な要素は、受身で感じたり理解したりすることではなく、自ら作り出すことです。楽しく生きるために、実物の世界を中心に、作る教育を行っていくことが重要になります。
第3は、創造性を発揮するということです。そのためには、創造や個性に対する前向きな評価が社会にあることが条件になります。そして、発表する場があることが大切です。つまり、これからの学習のスタイルの大きな特徴は、発表する勉強が中心になるということです。
以上の、全員全教科満点、作る勉強、発表する勉強がこれからの教育のキーワードになっていくと思います。
この記事に関するコメント
コメントフォームへ。
同じカテゴリーの記事
同じカテゴリーの記事は、こちらをごらんください。教育論文化論(255)
言葉の森の通学教室では、現在、希望する生徒を対象に、付箋読書や問題集読書のあと、読書ノートに四行詩を書く練習をしています。これは、将来、通信教室でもやっていく予定です。
力のある生徒は、四行詩で抜き書きをするときも、なるほどと思うところを抜き書きしてきます。また、感想を書くときも、内容をよく把握した感想を書いてきます。
次の例は、中学1年生の生徒が書いた四行詩です。
ディズニーアニメーションの本質は、
夢と魔法と感動だ。
その中でも魔法は多い。
そこは大きな見せ場である。
私もかつて一個の子供、
親との対話は望まない。
必要なのは対話でなく、
子供の前にどんな人間として現れるか。
中学1年生の生徒が、「ディズニーアニメーションの本質は、夢と魔法と感動だ」とか、「必要なのは対話でなく、子供の前にどんな人間として現れるか」などと、自分の考えで書くようなことは普通ありません。しかし、問題集の文章に引かれる形であれば、こういう文も自然に書けるのです。自分で考えて書くのでもなく、単なる書き写しでもなく、自分なりによいと思ったところを発見して書くというのが、読書ノートに書く四行詩のポイントです。
四行詩は、抜き書きでもよいので、だれでも書けるという易しいところがあります。しかし、実力に応じていくらでも深く書けるというところもあります。また、作品として完成させるという創造性もある点で、楽しい勉強だとも言えます。そして、よい文を発見することで、そういう文を味わう力や表現する力が身につきます。
今後、毎日の付箋読書や問題集読書のあとに、四行詩を書く習慣がつけば、子供たちの日記を書く習慣にもつながっていくと思います。
この記事に関するコメント
コメントフォームへ。
同じカテゴリーの記事
同じカテゴリーの記事は、こちらをごらんください。読書(95) 四行詩(13)