未来の仕事は、どうなるでしょうか。
それを考える前提となるのは、現代の社会がとても豊かだということです。では、豊かな社会でなぜ失業者がいるのかというと、働きたくても働けない人がいるほと社会が豊かになっているということの裏返しなのです。
原始時代とまで行かなくても江戸時代には、だれもが、子供も含めて働かざるを得ませんでした。しかし、江戸時代はそれなりに豊かな社会だったので、武士階級という生産活動に携わらない人も多数存在しました。現在は、それよりも更に豊かになっているのです。
では、社会の豊かさがなぜ個人の貧しさとして現象するのかというと、流通しているお金を、その流通の過程から引き上げてしまう人がいるからです(笑)。生産が10あって、その生産をするために労働が10必要で、また消費が10であるならば、生産と消費の循環は永続的に進みます。しかし、やがて生産の技術革新があり、10の生産をするために8の労働しか必要ない状態になれば、本来ならば豊かさはそのままで、余暇だけが増えるということになります。しかし現実は、必ずしもそうはならず、新たに生まれた豊かさが消費に結びつかない形で、生産と消費のサイクルから引き上げられていくのです。その引き上げられた形が、昔なら武士階級のような存在で、現在ならば軍事費のようなものだと思います。
さて、このように本当は社会が昔よりもはるかに豊かになっているということを前提に考えると、現在1日8時間の労働で週に5日働いているような仕事も、将来は、1日4時間で週2日も働けば十分だということになってきます。すると、そこで従事する仕事は、フルタイムで働くような大きな仕事である必要は必ずしもなく、趣味の内職のような仕事でも可能になるということです。この趣味の内職が、自分の好きな分野を高度に専門化した起業ということにつながるのです。
すべての人が自分で立ち上げた仕事を持つことが可能になるというのが、未来の仕事の姿です。なぜなら人間は、多数のさまざまな興味と得意の分野を持ち、しかもそれらを組み合わせれば無数の新しい事業分野が可能になるからです。また、身体的な技能や知識は、熟練するために何千時間も必要とするので、その人だけの独自性のある技能や知識として保持することができます。アイデアだけで始めた仕事は、同じことをやる人がすぐに現れますが、時間をかけて腕を磨くという形で始めた仕事は、続ければ続けるほどその人だけの独自な仕事になっていきます。
このような状態が出現したのが江戸時代で、その時代に日本では、多様な「道」化された文化が生まれました。しかし、当時生まれた文化で、現代に伝わっていないものもかなりあります。なぜかというと、さまざまな「道」文化の創始者は、自分の技を磨くことに専念していたので、それを後進に教育するような体系を作る余裕がなかったからです。そのため、当時の教育は、「師の技を盗む」という方法で行われていました。もし江戸時代があと数百年続いたら、さまざまな「道」文化の教育体系ももっと整備されたかもしれません。
未来の職業は、この江戸時代に庶民の間から生まれたさまざまな文化と同じように、創造性に価値を置くものになります。売上が多いとか、利益が上がるとかいうことよりも、創造的でわくわくできる仕事かどうかということが未来の仕事の大きな関心になっていきます。現在、中国で生まれている巨大な需要と生産の多くは、既に欧米や日本で行われたことのある過去の需要と生産です。そのような過去の需要と生産を通り越した日本でこそ、未来の需要と生産が生まれる可能性があります。
教育は、社会から離れて存在するものではありません。すべての人が創造的に仕事をし、豊かに消費する社会と結びつく形で、教育もまたわくわくしたものになっていきます。未来の学校は、勉強を教えるとともに、その勉強を自分の仕事にどう生かしていくのかということも教える場所になると思います。
さて、では、今の若者は、それまでどうしたらいいのでしょうか。毎日、仕事に追われる多忙な生活の中でも、自分の好きなことを大事にし、そこに、時間をかけなければ身につかないような技能化、身体化の過程を結びつける工夫をすることです。映画鑑賞が好きだといっても、映画をただ見ているだけでは技能化にはなりません。ただ好きなことをするだけでなく、その好きなことを自分なりの生産活動に結びつけ、やがては他の人に提供できるような完成度の高い商品にする展望を持って追求していくことです。
これまでのローカルな社会では、自分の好きなことを共有できるような同じ関心を持つ人は多くありませんでした。しかし、インターネットの世界では、世界中の同じ関心を持つ人に結びつくことができます。
人が何かの分野に熟達するためには、4000時間費やすことが一つの目安になると言われています。逆に言えば、それは、特に今は何も目立った才能がないと思っている人でも、自分の好きな分野で毎日1時間で約11年間、技を磨けば、その道のプロとして通用することが可能になるということです。現代は、このように明るい可能性がだれにも開かれている時代です。そして、この傾向はこれからますます加速していくと思います。
「未来は、えらべる!」という、バシャールと本田健さんの対談を読みました。参考になる点がいくつかありました。
本田健さんは、バシャールに対してアメリカに住み、自分の子供をサドベリー・スクールに通わせています。サドベリー・スクールとは、子供たちが自分の好きなことをしながら自然に勉強をしたくなるのを待つという教育法を実践している学校です。
本田さんは、カリキュラムがなく子供たちが好きなことをできるのがよいのではないかと質問をしました。バシャールは、カリキュラムはあってもよいが、子供の興味を引き出すようなものになっていることが大事と答えました。つまり、カリキュラムの有無というのは、本質的なことではないということでした。
また、本田さんは、子供が時間をかけて自分の好きなことを見つけるのが大事ではないかと質問し、その例として、5年間釣りだけをしていた子が、その後勉強をして立派な社会人になったという例を挙げました。それに対して、バシャールは、その釣りをしていた子供の例は特殊な一例で、時間をかけることは必ずしも必要ではないと答えました。大事なことは、勉強が楽しいと子供に教えてあげることだということでした。
更に、本田さんは、サドベリー・スクールのような学校を日本にも広げたいと自分の希望を述べました。それに対して、バシャールは、どの学校でも、また家庭でも、勉強の楽しさを教えることができる、大事なのは、子供が学ぶ対象に興味を持てるようにすることだと答えました。
私は、この対談を読んでいて、バシャールの本質をついた的確な返答に感心しました。もちろん、そういう返答を引き出す、本田さんの優れた質問にも感心しました。
さて、バシャールは、わくわくして学ぶためには、体験を通した学び方をすることだ大事だと述べています。その例として、子供が自分で仕事を立ち上げる、そのための勉強をするという仕組みを作っている学校が既にあると説明していました。
今の教育では、確かに、学んだことをどう人生に生かすかという視点がありません。学んだことを生かすという教え方をすれば、数学の方程式も現実の仕事の中でどのように役に立つかということを実感するような教え方をすることができるでしょう。
ところで、江戸時代の寺子屋教育という優れた勉強法は、決してわくわくした学び方ではありませんでした。そこで教えられた方法は、四書五経の素読や手本となる文字の書き写しでした。
しかし、この勉強法は、勉強の方法ではなく生活の方法だったのだと私は思います。朝起きて、顔を洗う、歯を磨く、掃除をするということと同じ感覚で、人生の前提となる基礎教育が行われていたのです。生活と同じ感覚で行われている勉強は、苦痛でも我慢でもありません。音読や暗唱や読書というのも、勉強としてではなく生活の一部として取り組んでいくものだったと思います。
そして、江戸時代は、この優れた基礎教育の大衆的な普及の上に、さまざまな知識や技能の「技を盗む」という形の職業教育が行われていました。しかし、その「技を盗む」教育というのは、それらの知識や技能が高度であったために、体系的な教育法にまで手が回らなかったことからくる暫定的な方法論だったのではないかと思います。
さて、体験を通して学ぶということを作文にあてはめると、作文には、バシャールの言う「知識の現実への適応」と同じ面があることがわかります。自分の書いた作文が他人に読まれて喜ばれるということは、自分が作った製品が、他人に買われてうれしいという感覚と同じです。
言葉の森が、これまで考えていたのは、次のような勉強法です。
中学生の作文で、歴史実例という項目があります。これをただ作文の上で自分の知っている歴史実例を入れるという書き方をするのではなく、あらかじめ歴史の学習をして歴史の本を読み、そこから作文に書く自分の意見にふさわしい歴史実例を引き出すという書き方をするのです。これは、歴史の知識を、生きた作文に適用するという学び方です。
同じようなことは、英語、数学、理科、社会などの勉強にもあてはめることができます。このように、知識を学びながら、それを作文という現実に生かすという勉強の仕方を、これからの言葉の森の勉強法にしていきたいと考えています。