文章の自動採点ソフトは、日本ではまだアレルギー反応があります。
海の向こうのアメリカでも、最初に自動採点ソフトが登場したときは、「ソフトに人間の書いた文章が採点されてたまるか」という反応があったようです。しかし、人間が採点するプラスマイナスとソフトが採点するプラスマイナスを勘案した結果、公立高校の卒業試験に自動採点が使われるようになりました。
日本でも、やがて文章の自動採点ソフトのプラス面とマイナス面が冷静に評価されて、いろいろな試験に利用されるようになると思います。しかし、今はまだ、そういうソフトがあること自体知らない人がほとんどです。
さて、ここで、文章自動採点ソフトと、グーグルなどの検索ロボットとの類似性について考えました。
検索ロボットは、インターネット自体が新しい媒体だったということもあって、スムーズに社会に受け入れられました。それでも、最初のころは、ロボットによる検索よりも人間の手による分類の方があてになるという意識がありました。なぜかというと、最初の頃のロボット検索は、かなり大雑把なものだったからです。例えば、あるページに対象となるキーワードが多数埋め込まれていると、それだけで上位に表示されました。アルゴリズムが単純であれば、裏技も簡単です。内容のないページにキーワードだけをたくさん埋め込むようなサイトが出てきて、ロボット検索は信頼性が低いと思われるようになりました。
文章の自動採点ソフトも、今はまだこのロボット検索の初期段階のところにあります。
しかし、このあと、ロボット検索は大きく変化していきます。
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川崎製鉄の付属川鉄総合病院は、私が二人の赤ちゃんを産んだ病院である。
当時私は千葉市園生町のあやめ台団地に住んでいた。蘇我にある病院までは遠かったが、友人の村上さんの紹介でこの病院にお世話になっていた。
結婚して八年目にして最初の子が生まれた。娘の亨子である。親族の誰もが待ちに待った赤ちゃんで、それは何に例えようもない無上の喜びであった。
病室は六床の部屋で、六人分の喜びで満ちており、入れ替わり立ち替わり親族や友人らのお見舞いに互いに遠慮のない談笑が絶えなかった。
ところが、私たちが有頂天になっているとき、私の隣の若いお母さんには、一人の見舞客も居ないと気がついた。新しい命を祝うはずの父親も彼女の両親も来ていなかった。そういえば、彼女は朝の挨拶ぐらいの会話で他の同室のママたちとはあまり交じっていなかった。喜びを分かち合えないことは寂しいことであった。
出産して三日目ぐらいだったろうか、私たちの病室にナースステーションから「○○さん、至急母子手帳を持ってきてください」とアナウンスがあった。
○○さんとは、隣の無口なママのことである。
その彼女が、私に「今、何手帳を持ってくるようにといってましたか」と聞くので、
「母子手帳と言ってましたよ」そういうと、「そんなのないんだけど」と不安そうにして持ち物のなかを探っている。
「ははこ手帳ならあるんだけど」
「そう、ははこと書いて〝ぼし手帳〟と読むのよ」
私はこのとき三二歳、彼女は十代の終わりか、二十代のはじめだろうか。何しろ私たちと世代が違う感じであった。
〝ぼし〟を〝ははこ〟と読む彼女はまだ大人になりきって居ないのだろうかとも想像した。
今頃何故母子手帳が必要なのだろうかと思ったが、私はそれ以上考えもしなかった。
出産後の母親の体力の回復のため赤ちゃんは別室の乳児室に預けられていた。授乳時間になると、私たちが授乳室に行き、赤ちゃんを胸に抱き授乳する。ぐいぐいと飲む赤ちゃんもいれば、私の赤ちゃんは吸う力が弱いようで、なかなか飲んでくれない。私のような新米の母親はなんとか乳首にくらいついて欲しいと思うのだが、うまくいかない。第二子、第三子というベテランのお母さんは心配ないと励ましてくれる。
赤ちゃんの顔だけを見て何とか飲ませようと必死の母親にとって、一人彼女がいないことに気がついたのは、これで授乳時間終わりというような時であった。
病室に戻ると、彼女が一人ぽつねんと窓の外を眺めていた。眺めていると言うよりも、ただ虚ろに視線を外に向けているだけで、焦点を定めているようには思えなかった。その姿は不安とさびしさのようなものに満ちあふれているように見受けられた。私たちに気がつくと、涙をふいているようでもあった。声をかけることをはばかれるようなそんな雰囲気でもあった。
その日、私の両親が、お乳が出るようにとブドウをたくさん持って見舞いに来てくれた。 同室のお母さんたちに一房ずつ配った。みなさんがこうして見舞い品を分け合っていた。
だれもが、お裾分けを喜んで納めていたが、彼女だけは違った。かたくなに遠慮していた。
でも、私が無理強いしたとは思わないが、それならと受け取ってくれたので、人の好意を受けてくれたことが私は嬉しかった。そして応えてくれるかどうか不安であったが、思い切って、授乳室に来なかったことについて聞いてみた。
すると彼女は、寂しげに、
「あかちゃんの心臓の動きが悪いから、手術をするんだって」
それは、彼女には青天の霹靂であったろう。陣痛の苦しみ痛みを乗り越えて得たはずの新しい命の心臓に欠陥があるなどと宣告されたら、もし私だったらと思うと他人事ではない。彼女の涙がわかった。この母親になったばかりの若いママにこんなに重い十字架を背負わされたのだから。
「ご主人に話したの」と聞くと、
「あいつとは別れた」と、声を落とした。
男と別れ、女ひとりたくましく子育てをしながら大地を行く気持ちでいたのだろう。
しかし、この不安をともにするべきパートナーが居ないとは、彼女の小さい胸に、か弱い肩に、どれほどの重荷だろうかと、私は胸が痛くなった。
その翌日であったろうか。私たちが授乳室に行っているときに、彼女はひとり退院して行った。
私たちの有頂天のにぎわいは、彼女にはどれほどうとましかったのだろうか。
彼女が去った後のサイドテーブルには、ブドウが一房そのまま残っていた。
今年、娘は四十二歳。結婚して四歳の男の子の母親となっている。
娘の節目、節目に、彼女のあのぽつねんとした寂しげな姿を思い出していた。
赤ちゃんは手術によって命が助かったろうか。助かっていれば娘と同じ四十二歳である。
あの悲しいお母さんは、大地に根を下ろしてしっかりと歩いて居て欲しいと願っている。
どうしているだろうかと、忘れられない一人となっている。
無料での作文自動採点はなくなったのですか。是非再開してください。
森リンの自動採点が停止状態ですみません。
実はサーバーの引っ越しに伴い、森リンを入れ直したのですが、文字化けの部分が直らないのです。
夏休み中に直したいとは思っているのですが……。
私は興味のある職種が2つあります。
1つ目はエンジニアです。私は7月頃に行われた職業体験で車屋へ行ってきました。父が車関係の仕事をしているので小さい頃から車に興味がありました。職業体験の仕事内容は車の整備を中心に行いました。その中で更にエンジニアという機械関係の職種に興味がわきました。
2つ目は宇宙関係の仕事です。小学校三年生の頃の担任の先生がとても宇宙好きな先生でした。その先生は授業中、休み時間などいつでも宇宙の話をしてくださいました。そんな話を聞いているうちに宇宙に興味が出てきました。その後もインターネットを使って調べ、小学校の卒業文集にも書きました。
私は「このどちらかの職業を選びなさい」と言われても選びきれません。そこで「ものづくり」と「宇宙」を組み合わせた宇宙開発技術者という職業に目を向けました。宇宙開発技術者とはロケットや人工衛星を始めとする機器を製造したり宇宙や地球環境の観測に携わることのできる職業です。
その中でも私は人工衛星の開発に携わりたいです。JAXAのプロジェクトの一つに「超低高度軌道を利用する最初の地球観測衛星」というものがあります。簡単に説明すると人工衛星を地上600~800kmで飛ばしていたのを地上180~300kmで飛ばすというプロジェクトです。こうすることにより人工衛星を作る際にかかるコストを軽減することができます。
もしかすると私が就職する頃にはこのプロジェクトは完全に達成されているかも知れません。その場合私はその人工衛星を活用した取り組みをしていきたいと考えています。
今私が考えているのは電子マップのグレードアップです。例えば山に遭難した、運転中に道が複雑でどこを曲がればいいかわからない。といったトラブルが今現在発生しています。これを高度な人工衛星の技術を使って解決したいです。そして一人でもマップを使用する際に不便さを感じないようなものを作っていきたいです。
今、僕が重要な悩みを抱えているのは、誰でもあるかもしれないが、僕は特にそうなってしまっている. 夢中になっているときに周りが見えない癖だ。まあ大丈夫だろうと言われたがこの癖のせいで道で迷子になってしまうことがあった。この重大な悩みネタがあるせいで、この卒業文集で書くぐらいすごい悩みになってしまったのだ。もし仮に、今回は軽めの迷子で良かったが、そのせいで帰り道がわからなくなると、本当に最悪だ。スマホがあるとナビで帰れるかもしれないが、最近だとナビはあくまでも機械だからバグってしまって、間違う可能性だってある。だから、自分はこの夢中になってしまったらすべてを忘れてしまう癖を忘れたいが、本当に癖になってしまうので、中学生になったら、極力この癖に向き合って、改善していきたいと思っている。
あ君へ
人間には個性がある。
その個性を活かすことが大事。
夢中になって他のことを忘れるという個性を活かす仕事をする方向で考えてみよう。
学校の評価は、当面関係なしで。
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文章を書く人の方が読む人よりも相対的に増えつつある。これが現代の特徴です。
これは、文章の読み手と書き手の関係にとどまるものではありません。あらゆる商品がやがてこういう運命になりつつあるのです。
労働についても同じです。
「売る」立場と「買う」立場とどちらが楽しいでしょうか。
文化祭や地域のお祭りを見るとわかるように、売る立場の人は買う立場の人よりもずっと大変な仕事をしているのに生き生きとしています。「まったくこんなことやっていられないよ」などと言いながらうれしそうに焼き鳥などを売っています。(おまえのことだろ^^;)買う立場の人はのんびりとお金を出して買うだけですから楽なはずなのに、売る人ほど生き生きとはしていません。
ソフトなども同じです。便利なソフトを使う人よりも、そのソフトを苦労して作る人の方が生き生きとしています。作る人は見返りがほとんどなくても平気で朝から晩まで仕事をします。使うよりも作る方が楽しいからです。しかし、給料をもらって「作らされる」人は過労で倒れます。「作る」と「作らされる」ではプラスとマイナスぐらいの違いがあるからです。
起業が一種のブームになっていますが、これは決して一過性のものではありません。時代的な流れとして、自分で仕事をしたいという人が増えているのです。
教育は時代を反映します。
読む人が大多数である時代に必要な力は読解力でした。しかし、書く人が読む人よりも増えつつある時代に必要な力は作文力です。
ところが、作文力を評価する本格的な方法はまだありません。森リンぐらいです。(ここに来た(笑))
ほかの教科でも事情は同じです。今の学校の授業は、自分で起業したい人を育てる内容ではありません。従順で有能な労働者を育てるためのカリキュラムになっています。もちろんそれが悪いわけではありませんが、人間の本来の教育に対する要求と微妙にずれた内容となっています。この教育もやがて大きく変わっていくでしょう。
次回は、森リンの今後について
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それは、「ためになる」「わかりやすい」「おもしろい」「個性的」です。
どうしてこういう四つの分類になるかというと、文章に対する需要と供給の相対的な関係で四通りの組み合わせがあるからです。
┃読み手 ┃読み手 ┃
┃多い ┃少ない ┃
━━━╋━━━━━━╋━━━━━╋
書き手┃(3) ┃(4) ┃
多い ┃おもしろい ┃個性的 ┃
━━━╋━━━━━━╋━━━━━╋
書き手┃(2) ┃(1) ┃
少ない┃わかりやすい┃ためになる┃
━━━╋━━━━━━╋━━━━━╋
(1)昔は、読み手も少なく書き手も少ない状態でした。そういう時代に文章に求められる要素は、その文章が何かの「ためになる」ということでした。
(2)やがて文化が発達し、読み手の数が増えてきます。そういう時代に文章に求められる要素は、「ためになる」に加えて「わかりやすい」ことでした。
(3)更に文化が発達すると、次第に書き手の数が増えてきます。書き手も数も読み手の数も多い時代に文章に求められる要素は、「おもしろい」ことです。ときには、「ためになる」という要素を上回って「おもしろい」ことが評価されるようになりました。
(4)そして更に文化が発達すると、今度は書き手の数の方が相対的に読み手の数を上回ってくるようになります。これがブログ時代です。この時代の文章の要素は「書いている人に対する個人的な関心」です。「個性」というよりも「個人性」というようなものです。
と、この図を私は今から20年以上も前に考え付きました。そのころはブログなどはもちろんインターネット自体もまだ存在していませんでした。しかし、社会が発展していけば次第に読み手の数よりも書き手の数の方が上回るという予感はそのころからあったのです。
と言いつつも、私自身は古い人間なので、つい「ためになる」ことを優先して考えてしまいます。
いくら「ためになる」つもり書いても、「わかりにくく」て「つまらなく」て「一般論」で書いてある文章は読まれません。反省しつつ。(笑)
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作文というものは、きわめてメンタルな勉強なので、心理的なブレーキがあるために書き出せないという子がときどきいます。
いちばん多いのが、せっかく自分がいいと思って書いた作文を批判されて傷ついたという例です。
小学校低中学年の子供は、長く書くことがいいことだと思っているので、先生に褒めてもらうために無理をして長く書くことがあります。
ところが、先生がそういう子供の心理を知らずに、いい批評をしてあげるのつもりで、「長く書くよりも中心を決めて書くことが大事なのよ」などとアドバイスをすると、それから作文が書けなくなるということがあります。そういう些細なことが原因になって作文嫌いになる子がかなりいます。
次に多いのが、書く意欲がないときに書かせようとすることです。
例えば、学校で作文を書いて、同じ日に言葉の森の勉強でも同じ題名で作文を書くというケースでは、書く意欲がわきません。
ときどき、休んだ分を取り戻すために一日に二つの作文を書かせようとするお母さんがいます。自分で書いてみるとわかりますが、それは書く当人にとってみれば、とても苦しいことなのです。
言葉の森では、本人が「今日は二つ書きます」と言ってきても、「一つでいいよ」と言うようにしています。本人の最初の気持ちとしては二つ書くつもりでも、一つ書いたあとはもう書く意欲がなくなるのが普通です。
これに似ているのが、叱りながら書かせることです。その題名が「楽しかった思い出」などという場合、子供の心は分裂します。叱られて泣きながら「楽しかった思い出」など書けるはずがありません。ここが、英語や数学の勉強と作文の勉強が違うところです。
書く前にたくさん喋ると書けなくなるということもよくあります。書く意欲というものは、一種の圧力をかけないと出てきません。子供の書く内容を引き出そうとしていろいろなことを聞きすぎると、子供は喋って伝えたことに満足して、逆に作文が書けなくなります。内容を引き出すのもほどほどにということです。
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まだわずかですが、言葉の森の授業風景をフラッシュで流しています。
ビデオキャスト授業の渚
いちばんの目的は、指導のレベルを一定に保つためです。
言葉の森の授業は、指導の課題と項目が決まっているので、どの先生が指導してもその内容は同じです。
しかし、先生によって易しめに説明したり、難しめに説明したりという差はどうしても出てきます。
この授業の渚を見れば、同学年でどのぐらいの話がされているか実際の映像でわかると思います。
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読解力をつけるためには難読の復読が必要でした。
それが形骸化しないために音読が有効でした。音読の敷居を低くするために聴読という仕組みができました。
しかし、敷居の低い勉強は受け身の勉強になりがちでした。
そこで出てきたのが速度です。
読む方に関しては速読、聞く方に関しては速聴です。
スピードを高めると、人間は自然に意識を集中させます。意識を集中させないと、速度についていけないからです。
速読や速聴については、右脳が鍛えられるとか、大脳が活性化するとかいうことも言われています。しかし、そういう効能はさておいて、何よりも速読や速聴によって意識が勉強に集中するということがいちばんの効用です。
速読で5000字や1万字読む人もいるようですが、それは内容を伴った読み方ではありません。小説のような本をあらすじを把握するために読むのでしたらそういう読み方も可能です。しかし、普通の説明文で内容を理解しながら読む場合は最高で2000字程度が速読の到達点になると思います。
すると、速聴も普通の音読の2倍速から3倍速あたりまでが理解しながら聴き取る限界になると思います。
速読や速聴は、それ自体が目的なのではありません。速く読み速く聴くことによって、読むことに集中することが目的です。
真の目的は難読の復読で、そのための手段として音読と聴読があり、その音読と聴読の手段として速読と速聴ががあるという関係です。
読解マラソンでは、今後速読と速聴を組み合わせた指導をしていく予定です。
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書く力をつけるためには、読む力をつけなければなりません。
読む力をつけるためには、難読の復読です。
しかし、難読の復読は形骸化しやすいので、音読という形で勉強します。
ところが、音読はスタートするときの敷居の高い勉強です。
そこで、言葉の森では聴読という方法を考えました。聴読とは、文章を耳で聴くことです。
毎日の音読では敷居が高くてなかなか継続してできない子でも、ただ聴くだけでしたら気楽に始められます。勉強というものは、最初のスタートさえスムーズに行けば、あとは楽に高いレベルまで進めていくことができます。物理学的に言うと、静止摩擦係数は高いのに、動摩擦係数は低いのです。聴読という形で読む勉強を何しろスタートしてしまえば、あとは、聴読をしつつ文章を目で追うことや、聴読に合わせて音読をすることも楽にできるようになります。。
話は変わりますが、この敷居の高さは、作文の勉強にも共通しています。
教室にときどき、作文が超のつくほど苦手という子が体験学習に来ます。年齢層はいろいろで小学校低学年から高校生まで、それぞれこれまでの人生で作文に苦しめられ続けてきた子です。
こういう子たちをどう指導したらいいのでしょうか。
「何でも自由に書いていいよ」というアドバイスでは、ほぼ絶対に書き出せません。これまで、先生や親など多くの人にそう指導されてきたはずです。それでも書けないからここに来ているわけです。
言葉の森では、こういう子たちにもほぼ100パーセント作文を書き出させることができます。その場面を実際に横で見ているお母さんは、これまで書けなかった子が、急に書き出すので本当に驚かれるようです。(通学の体験学習は父母も一緒に参観できます)
この方法は別の機会で述べますが、コツは静止摩擦係数を減らすということです。
さて、聴読によって読む勉強はスムーズに始めることができるようになりました。
しかし、そのあと更にもう一つの問題が出てきます。それは、聴読だけだと受け身の勉強なので、次第にだれてくるということです。つまり、勉強に取り組むときの意欲が低下してくるのです。スタートするときの敷居の低い勉強は、敷居の低さが逆に裏目に出て、生き生きと取り組む姿勢を続けにくいのです。
では、この意欲の低下にどう対処したらいいのでしょうか。
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作文力をつけるためには、読む力をつけることと書き慣れることが基本です。そのほかのさまざまな指導は、いずれもこの二つの能力(読解力、書き慣れ力)が育ってからできるようになります。
世の中の作文指導の多くは、作文力をそれだけで取り上げて指導しようとするので、力のある子はその指導に応えることができますが、読む力や書き慣れる力のない子には通用しないのです。
さて、では読解力はどのようにして身につくかというと、それは難読と復読によってです。つまり、自分の実力よりも少し難しい文章を読むことと、それの文章を繰り返し読むことによってです。
ところが、口で言えば簡単そうに見える難読の復読も、実際にやってみるとなかなかできません。それは、難しい文章を繰り返し読むという作業は、その性質上どうしても形だけのものになってしまいがちだからです。
そこで、音読が出てきます。音読をすることによって、形骸化しがちな難読の復読という勉強に中身が伴うようになります。声を出さなければ斜め読みになってしまうところを、声を出すことによって、しっかり内容を読む意識がついてくるのです。
ところが、ここでまた問題が出てきます。
毎朝時間を決めて音読する習慣がついている子は、難読の復読の音読という勉強方法でやっていけますが、多くの子はそのような習慣をつけることがなかなかできません。というのは、音読をするという勉強は簡単なように見えて、実はスタートするときの敷居が高い勉強だからです。ちなみに、敷居のいちばん低い勉強は、読書好きな子にとっての読書です。
では、敷居の高い音読をどう継続したらいいのでしょうか。
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