スポーツの練習では、「今日はかったるい」「休みたい」などと子供が言ったら、コーチは、「何を言ってるんだ」「しっかりしろ」とどなって練習をやらせて、何も問題はありません。できないことをさせるわけではありませんから、がんばらせることは無理なくできます。子供は、「えー」などと言っても、コーチが断固として決めたことについては、喜んで従います。子供は、大人からはっきりし指示をされることを求めているのです。
ところが、勉強になると、迷いだす大人がいます。子供が、「くたびれた」「やりたくない」などと言うと、「そう、困ったね」などと、それに引きずられてしまう人が多いのです。
例えはよくありませんが、小6の長文に、「ペットの犬に引っ張られて散歩する日本人」という話が出てきます。吠える犬、噛む犬など、言うことをきかない犬の共通点は、犬が自分を主人だと思っていることです。そういう関係になると、人間はいつも犬を叱り、犬はいつも言うことをきかないという状態が固定化します。
ところが、人間と犬の関係がうまくいっていると、人間は自由に犬に任せ、犬は自然に言うことをきくという状態になります。こうなると、ムチもアメも必要ありません。
教室で勉強をしていると、ときどき、「先生、わからない。来て」と、遠くから叫ぶ子がいます。生徒の方が、自分が主人だと思っているのです(笑)。だから逆に、先生が、「○○君、説明するからちょっとおいで」などと言ってもなかなか来ません。
スポーツの練習であれば、こういう場面はまずありません。「○○、ちょっと来い」「はい!」と、呼ばれればすぐにダッシュで来るのが普通です。
企業が、スポーツをしていた学生を採用するのは、スポーツをしていると、このように自然に健全な人間関係ができるということと、スポーツをしていると勝ち負けにタフになるということがあるからです。
いったんできた人間関係は、なかなか変えられません。先生と生徒の関係も、親と子の関係も同じです。しかし、犬と人間の関係と違い、人間どうしの関係は、方針がはっきりしていれば、徐々にいい方向に変えていくことはできます。その方針とは、スポーツの練習のように、日常生活や勉強を、明るく単純にきびきびと行っていくということです。
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教室の玄関によくスズメが来るので、えさをやっていたらだんだん慣れてきて、手の届くぐらいのところまで近づくようになりました。
ある日、新聞で、都会からスズメが減っているという記事を見ました。スズメの住宅難なのだそうです。
そこで、楽天で、セキセイインコ用の巣箱が安く出ているのを見て、早速10箱注文して、表に出した本棚に並べておきました。
翌日、ふたを開けてみると、何とその中にもう巣の材料の草が運び込まれています。10箱とも全部そうなので、思わず笑ってしまいました。
子供はみんな生き物が好きです。しかし、住宅事情やアレルギーなどで、なかなかペットを飼う機会が持てません。そういうとき、自然に目を向けると、人間と仲のよい生き物はたくさんいます。例えば、奈良公園のシカです。奈良公園と同じように日本中の公園にシカを放し飼いにしたら、子供たちは大喜びするでしょう。
シカがだめなら、ニワトリやアヒルでもかまいません。子供が朝起きたらすぐに公園に行って、朝ごはん用の玉子を探してくるなどということになれば、子供たちは毎朝張り切って早起きするでしょう。
本当は、街路樹も、ユリノキなどではなく、実のなるイチョウやカキやクリなどを植えて、そこにアケビやノブドウのつるをはわせておけば、毎日学校に行くのも楽しくてたまらなくなるはずです。
と、そこまで行かなくても(笑)、ベランダにスズメ用の巣箱を一つ設置しておき、毎朝あまったご飯でえさをやっておけば、家の中でカゴに入れたペットを飼うよりも、ずっと面白い生き物体験ができるということがわかりました。
未来の地球は、人間どうしの争いがなくなるとともに、人間と動物の間にも争いはなくなるようになると思います。それでも、ステーキやフライドチキンを食べたいという人はいるでしょうから、植物性タンパク質で肉と同じような食感のものが開発されるようになるはずです。そうすれば、もう牛や豚や鶏を食べる必要はなくなります。
動物園も、やがてなくなるので、動物を見たければ、その土地に行けばよいというようになるでしょう。
ペットも、カゴに入れて飼うようなものではなく、自然の生き物と人間が共存することがペットのある生活ということになると思います。
日本人は、ツバメと仲よく暮らす文化を持っています。その文化を、スズメやほかの生き物たちに少し拡張するだけで、すぐにたくさんの和やかな、動物たちとの関係が生まれてくるのです。
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小学校4、5、6年生で、もうすっかり上手に書けるという子がいます。こういう子をどう指導したらよいのでしょうか。
こういう子に、更に上手に書かせるようとすれば、あら探しをするような指導になります。小学生の生活作文の一つの完成した形に到達したと見なしておく必要があります。
そこで、学習の目標は、ひとつには、この段階で小学校時代の思い出に残る生活作文をたっぷり書くということになります。
もうひとつは、次の説明文、意見文の課題の準備をするということです。
小学校高学年の上手な子の中には、「こう書けば先生に受けるだろう」というような発想をする子もいます。しかし、こういう技術的なことに満足してしまうと進歩は止まります。
感想文や意見文では、裏の裏の裏の考えまで意見を深めることができます。そういうことを親や先生など大人の人が話してあげると、作文についてもずっと向上心を持って取り組むことができます。
実は、小学校6年生まで上手だった子が、中学生になるとがくんと下手になる(ように見える)ケースがよくあります。それは、生活作文(事実文)は上手に書けても、意見文には慣れていないからです。意見文にふさわしい、語彙、実例、意見は、事実文で書いていたものとは異なります。
したがって、小学校4、5、6年生の作文の勉強というのは、作文だけではなく、途中から読解の勉強に力を入れる必要が出てきます。生活作文的な題名の文章は上手に書き続ける一方で、感想文課題で実例を広げたり、問題集読書などで難しい文章を読む練習をしたりしていくことです。
あくまでも一般論ですが、小学校6年生までは、女の子の方が上手に作文を書きます。しかし、中学生、高校生になると、体験実例は上手に書くものの、なかなか社会的実例の広がりのある文章が書けなくなります。一方、小学校6年生までは、ごく普通に書いていた男の子が、中学生、高校生になると、社会的な実例のあるよく考えた文章を書いてくるようになります。
作文の勉強は、その学年の中で見るのではなく、その先の学年との関連の中で見ていく必要があります。
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全国の学力テスト、体力テストで、福井県が秋田県と並んでトップの位置を占めています。
月刊誌「致知」6月号に、フリーライターの大田あやさんが「福井県の教育に迫る」と題して、示唆に富んだ記事を書いています。
これによると、福井県の特徴は、
○先生が尊敬されている
○塾に通う子が少ない
○学校から毎日宿題が出る(日本でいちばん宿題が多い)
○共働きの家庭が多いが(全国1位)
○三世代同居の家庭も多い(全国2位)
○子供部屋ではなくリビングで勉強している子が多い
ということです。
福井県では、戦後すぐに行われた全国学力テストが組合の反対などで廃止されたあとも、独自に県内一斉の学力テスト、体力テストを継続していました。
つまり、学校の中に、子供たちの学力や体力をつけるために、どのようなことをしたらいいのかというノウハウが蓄積されているのだと思います。こういう蓄積が宿題の出し方にも生かされているので、家庭でも安心して学校の宿題に専念させる環境が整っているのでしょう。
これに対して、都会の学校では、宿題があまり出ないか、ときどき変わった宿題が出るという形が多いのではないかと思います。学力をつける上で大事なことは、毎日コンスタントに同じような勉強を習慣としてすることです。日によって違うことをやっても、なかなか実力はつきません。
では、学校で定期的な宿題が出ない場合、家庭ではどのような勉強をしていったらいいのでしょうか。
すぐに考えつくのは、市販の問題集などを用意して、毎日のページ数を決めてやっていくことですが、実は、こういう形の勉強は、あまり身につきません。なぜかというと、問題集を解くという勉強は、できた問題はもともとやらなくてもよかった問題ですし、できなかった問題は、ほとんどの場合答え合わせをしてやりっぱなしで終わってしまうことが多いからです。つまり、問題集を解く形の勉強は、できなかった問題だけを再度ピックアップしてできるようになるまで繰り返し解くという仕組みにしなければ、ほとんど勉強にはならないのです。
家庭での勉強の中心にしていくものは、このような問題集を解く勉強よりも、実は読書です。読書は、日本語によって物事を考える力をつけるという点で、実は問題を解くような勉強よりも優先して行っていく必要があるのです。
言葉の森では、今、毎日の自習として暗唱の勉強を進めていますが、今後、毎日の読書も確実にできるような工夫をしていきたいと思っています。
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どうしたら上手な作文が書けるようになるかということを考える場合、その前提として考えておくことが二つあります。
第一は、上手か下手かということよりも、その作文が価値ある中身を持っているかどうかということが本当は重要だということです。野口英世の母の手紙は下手ですが、読む人を感動させます。
おまイの しせにわ(出世)には みなたまけました
わたくしもよろこんでをりまする
はるになるト みなほカイド(北海道)に いてしまいます
わたしも こころぼそくありまする
ドカはやくきてくだされ
はやくきてくたされ はやくきてくたされ はやくきてくたされ はやくきてくたされ
いしょ(一生)のたのみて ありまする
にしさむいてわ おかみ(拝み) ひかしさむいてわおかみ しております
きたさむいてわおかみおります みなみたむいてわおかんておりまする
はやくきてくたされ いつくるトおせて(教えて)くたされ
これのへんち(返事)ちまちてをりまする ねてもねむられません
(明治45年(1912年)母シカが英世に宛てた手紙より抜粋)
「
http://www.geocities.jp/ikiiki49/page018.html 」より引用
しかし、では、中身がよければ上手下手はどうでもよいのかといえば、そうではありません。人間は、自信が持てないものには表現を遠慮します。せっかくよい中身を持っていても、それを必要なときに表現するためには、ある程度の自信として「自分はそこそこに文章が書ける」というものが必要なのです。
第二に、では、文章の上手さと何なのでしょうか。実は、日本語の上手さは、英語や中国語などの他の言語と比べて要求されるレベルが高いのではないかと思います。それは、日本語という膠着語の特徴として、微妙なニュアンスが活用語尾の多様さの中にこめられているからです。この微妙なニュアンスの発展したものが顔文字だとも言えます。日本語の顔文字は、英語圏の顔文字よりもはるかに豊富です。
例えば、日本語の顔文字
(^_^) (´∀`)(*゚ー゚) (^○^) (*゚ー゚) (^-^) (・∀・) (^_-)-☆ (∈^▽゚)キラッ☆ (^-^) ( ^ω^)(*゚∀゚)アヒャヒャ (*_*) Σ(゚Д゚;) (゚o゚) キタ━━━━(゚∀゚)━━━━!! (;_;) (ノд`) (ToT) (´;ω;`) (T_T) (ノдT) (/_T) 。・゜・(つД`)・゜・。
(@_@) ( ゚∀。) ( . .) (´・ω・`) (・~・) マターリ(ノ´∀`*)マターリ (#゜皿゜) (#゚Д゚)ゴルァ!! ( #`Д´) m9(^Д^)プギャー!! (^_^; (;´Д`) ( ´ー`)y─┛ (,,゚Д゚)y─┛ m(_ _)m m(__)m ( ´,_ゝ`)プッ (゚c_、゚ )プッ ( ´_つ`) =^.^= (=^ェ^=) (=^. .^=) ミ^・.・^彡 u・ェ・u _l ̄l○、OTL, orz、or2
今度は、英語の顔文字
:-) :) =) :-( )-: :( :/ :| :-D :D :-P :P ;-) (-; ;) B-) 8-) :-O :o XD :/
「
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A1%94%E6%96%87%E5%AD%97 」より引用
このニュアンスの微妙さは、またアニメの技術にも表れています。欧米のアニメは、表情がほとんど同じです。日本のアニメは、微妙な心の動きや情景を表現する技術を持っています。
よく日本語の語尾で、「である」「であろう」「であるまいか」「であると思われる」「であると言いたい」「でありはしないか」などの微妙な使い分けを見ると、欧米の人は、「どうして『である』と言い切らないのか」という疑問を持つようですが、これは、英語圏には、このような微妙なニュアンスを知覚する語感がないことから来る行き違いなのです。
このため、日本語は推敲にもかなり時間がかかります。「推敲」という言葉の語源である「梨花」を「一枝」にするか「数枝」にするかというレベルよりもはるかに細かい推敲が要求されるのです。
では、そういう文章の上手さは、どのようにして身につくのでしょうか。
第一は、幼児期の読み聞かせや語りかけです。これは、同じようなパターンが繰り返されることが重要で、母親のような同じ人が同じような本を読んだり話しかけたりしていくことが必要です。
第二は、したがって、幼児期の多様すぎるインプットは、かえって幼児の言語感覚の発達を阻害するのではないかということです。例えば、なぜ幼児にテレビを見続けさせるのがいけないかというと、そこで聞き取る言語のニュアンスが多様すぎるからです。同様に、ビデオやCDやDVDなどの教材も、使い方を十分に工夫する必要があります。いちばんよいのは、母親を中心に家族内の固定した少数の人間の言語感覚の中で、幼児期の言語環境を作っていくことです。
第三は、しかし、幼児期ですべてが決定するわけではありません。成長してから好きな本にめぐりあって、その文章を味読すると、そこでも言語感覚が身についていきます。
第四は、作文を書く機会を持つことです。作文を書く機会がないと、文章の中身と表現のギャップが自覚できないからです。
第五は、暗唱のように繰り返し読む教材で学習することが役に立ちます。同様に、暗写や毎日の10ページ読書なども効果があります。
作文の上手さは、作文以外の生活の中の言語環境から大きく影響を受けているのです。
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子供に勉強の意欲を持たせる方法には、賞罰、競争、ゲーム化、褒めることなどがあります。しかし、もう一つ見落とされがちなのは、叱ることです。
高い進学実績を上げている小さな塾の中には、塾の宿題をやってこないと厳しく叱るところがあります。そういう塾では必ず成績が上がりますが、厳しいので生徒はあまり増えません。
勉強で厳しく叱るというのは、スポーツで厳しく叱るのよりも難しいのです。賞罰は簡単ですが、叱るには、叱る側にそれなりのエネルギーが必要です。赤の他人を叱るというのは、子供に対してでも、なかなかできないものです。
そう考えると、勉強の基本はやはり、学校や塾ではなく厳しく叱ることのできる家庭にあると考えられます。
大学入試の勉強などでも、力をつける子は、予備校で真面目に授業を聴くだけの勉強の仕方ではなく、必ずその予備校の予習や復習を自宅でしっかりやっています。勉強の中心は、自分ひとりで取り組んでいるときの取り組み方です。
したがって、子供の勉強に親がコミットしていくというのはとても大事です。
よく成績が悪いと、「どこか、よい塾はないか」と考える人がいます。大事なことは、その前にまず親が子供の成績の点数だけではなく、成績の中身を見て分析することです。親が同じ問題を実際に解いてみて、子供の成績を把握することが大事なのです。
塾にすべて丸投げで任せてしまうと、塾で勉強していることに親がタッチできなくなります。そういう形では、肝心の叱る機会も見つけられません。
しかし、叱る勉強には弊害もあります。それは、叱ることが重なると、親もくたびれるし、子供もくたびれることです。また、叱られながら暗い生活をしていると、子供の頭脳の成長にもブレーキがかかります。
そこで大事なことは、叱ることと褒めることを入れ子構造にしておくことです。「だめじゃないか」と叱ったあとに、「本当はよくできると知っているからこそ叱ったんだよ」というふうに、叱ることを部分化するような褒めることを追加していくのです。そして、そのメッセージを確実に子供に伝えることが大事です。
夕方の勉強で叱ったあとでも、寝る前までには必ず笑って褒める、又は、叱ったことを修正するというような対応の仕方が必要になってきます。または、もう少し長期間で、試験前の1週間は叱り続けても、試験が終わったら(結果がどうであれ)褒めるというような入れ子構造にすることです。
スポーツの世界には、「練習で泣いて、試合で笑え」という言葉があります。親が家庭で勉強を見るときも、このスポーツチームのコーチのような目で見ていく必要があるのです。
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これからは、勉強の技術とともに、勉強の意欲を高める工夫も大事になってきます。やる気のない10時間よりも、やる気のある1時間の方が得るものが多いからです。そして、現代の豊かな社会は、昔のようなハングリー精神を動機とすることができないからです。
ただし、現代の子供たちは、賞罰や競争という直接的なもので意欲を強化されがちです。それは、既にどこでも行われているやり方ですが、やりすぎれば弊害を生み出します。例えば、百マス計算のような能率のよい学習方法についても、スピード競争にこだわりすぎれば、もともとの目的とは違う方向に進みます。
そこで、意欲というものの本質を考えることが大事になってきます。意欲の前提となるものは、意欲の支点としての自分の今いる位置を知り、そこからどのように進むことが可能かを知ることです。つまり、意欲の出発点は、「知ること」です。
ある目的に到達することが心から可能だと思えば、行動は自然に始まります。そのように自然に行動できないから、賞罰や競争で強化するという方法が生まれてくるのです。
重力は、質量に比例し距離の二乗に反比例します。1等が百万円で全国に1人という目標と、10メートル先に落ちている百円玉を拾うという目標と、どちらがすぐに行動に結びつくかを考えれば、到達できる可能性というものが大きな意味を持っていることがわかります。
しかし、距離を短くすることは、単純なスモールステップというのではありません。というのは、スモールステップという考え方には、魅力というものが欠けていることが多いからです。大きな魅力のある目的を得るための小さな方法というのが距離を短くするという意味です。
つまり、わくわくできる目的のために明確な方法があり、その方法を新たな目的とした更に細分化された方法があり、更にまたその方法のためのより具体的な方法があるというような、方法の媒介化によって、最後に実行可能な方法にまで到達するというのが、意欲化の仕組みです。この目的→方法……方法→実行という流れの中で、言葉の森の勉強をこれから作り上げていきたいと思っています。
では、それは、具体的にはどういう形になるでしょうか。
まず、作文を書くということが大きな魅力のある目標にならなければなりません。そのためには、単に定期的に清書を書いて投稿したり発表したりするだけでなく、その発表をよりビジュアルで感動的で芸術的なものにしていく必要があります。上手な作文を書くことがすばらしいことだと実感できるような作品発表会にしていくことが第一に重要なことです。
第二に、そのすばらしい作文を作るための方法を、毎日の暗唱や読書などの自習に結びつけることです。作文を発表するための場所や時間や外観という外的なものを、自習や読書の努力と結びつけるのです。
その自習や読書の努力も、ただ、毎日同じように褒めるのではなく、毎日の小さなシールが3回続いたら大きなシールになり、大きなシールが5回続いたらきらきら光るシールになり、きらきら光るシールが4回続いたら、作品発表の際の作文に豪華な額縁がつく(笑)というような仕組みにします。つまり、大きな目的のために小さな方法があり、その小さな方法のために更に小さな方法があり、その小さな方法の最後の形は実行可能な行動になるという流れです。
この意欲を高める方法を生かしながら、これからの言葉の森の勉強を作っていきたいと思っています。
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私は、付箋読書をするようになってから、読書がはかどるようになりました。
これまでは、読む本に線を引いて読んでいましたが、そういう読み方だと借りてきた本などは読めません。そこで、付箋を貼る読書の方法を考えました。
よく付箋を貼るのが面倒ではないかという人がいますが、線を引くよりもずっと簡単です。また、付箋を作るのが大変ではないかという人がいますが、先日試しに時間を計ってみたら、7分半で720枚の付箋が、のりとはさみで簡単にできました。これなら、購入した付箋と違って、いくら使ってももったいなくありません。
夜寝る前に、読みたい本を5冊ぐらい積んで、付箋読書で並行して読んでいきます。1冊の本について数十ページ読んで、読むのに少し飽きたら別の本に移ります。面白いところに縦に付箋を貼りながら読んでいくので、あとで再読するときに能率が上がります。付箋の貼ってある箇所だけを読んでいけば、十数分もあれば読み直しができるからです。また、読みかけのところには横に階段状に付箋を貼っておくので、どういう経過で読んだか外から一目でわかります。
本の中には、面白い本、つまらない本、難しい本、易しい本などがありますが、読書が進まなくなる原因は、難しい本で読むのが止まってしまうことと、面白い本でもずっと同じ本を読んでいると飽きるということにあります。付箋読書は、これらを解消します。
なぜ付箋読書で本をよく読むようになるかというと、本を読んだ経過が質の面と量の面の両方で外側からわかるからです。つまり、自分が読書をコントロールできる感覚があるので、自然に本を読むようになるのだと思います。
このコントロール感覚を、ほかの勉強にも生かすことができます。その話は、またいつか。
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