5月31日の日本経済新聞に、「授業についていけない高校生が4人に1人」というPTAの調査結果が出ていました。
同じ日の日経新聞の教育欄のコラムに、塾の先生が、「23-1.8」の小4の正答率が40%弱だという結果を紹介して、中高の先生はこの実態を知らないと述べています。
こう見てくると、高校生の授業についていけないという内容が、主に数学、次に英語で、小中学校で行うべき積み重ねができていないからではないかということがわかります。
では、この対策は、どうすればよいのでしょうか。
すぐに考えつくのは、授業についていけなくなった数学に力を入れることです。わからなくなったところまで戻って勉強するというのが、オーソドックスな考えです。
しかし、苦手な子の力を短期間に向上させるコツは長所伸展法です。
考えてみれば、数学や英語は、授業についていけるのにこしたことはありませんが、それができないからといって、特に大きな困難に見舞われるわけではありません。普通の社会人で、仕事や生活に高校の数学や英語の学力が必要な人はそれほど多くありません。
問題は、これらの高校生が、たかだか数学や英語が苦手なために、勉強そのものが苦手だと勘違いして向上心そのものを失ってしまうことにあります。
教育で最も必要なのは、日常生活の判断力につながるような勉強をしていくことです。それが国語力です。しかし、漢字書き取りのような国語力では、苦手をなくすというよりも逆に短所是正法の迷路に入り込みます。
苦手を見つけて直すのではなく、普通の高校生が既に自分の実力相応にできて、苦手意識を持たないものに力を入れていく必要があります。
それが、暗唱、読書、作文です。
授業についていけない高校生が面白く取り組める勉強が、同時に、今の教育に欠けている理解力、思考力、創造性を育てる勉強につながっているということなのです。
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前回は、暗唱の教材と、暗唱の時期について説明しました。今回は、暗唱の意義について説明したいと思います。
しかし、実は、暗唱に対する研究というものは、ほとんどありません。塙保己一、湯川秀樹、シュリーマンのような、有名な人の有名な話はいくつかありますが、理論的な裏づけを持った説明というものは、今のところないようです。
ここで、自分の経験と、これまで生徒に指導してきた経験から、暗唱の意義というものを考えていきたいと思います。
まず、暗唱というと、暗記することや記憶することと考えがちです。暗唱によって記憶力がつくかというと、そういう直接的な効果はそれほどありません。長い文章でも、手順どおりやれば記憶ができるという確信はわきますが、記憶力がつくということではないようです。
また、暗唱を記憶するものと考えると、易しい文章のうちは苦もなく暗記できますが、難しい長い文章になると、途端に全くできなくなるという状態になります。
暗唱は、記憶ではなく、方法であると考えることが必要です。その方法とは、言葉の森でやっている暗唱用紙などを使った反復法です。
暗唱によって力がつくのは、第一に理解力です。第二に読解力です。第三に発想力です。第四に感受力です。つまり、暗唱によって文章を深く読む力がついてくるのです。
暗唱と作文力には関連がありますが、それは、暗記した表現がそのまま作文に出てくるというだけの根の浅いものではありません。暗唱が読む力を育て、その育った読書力によって書く力が伸びるという関係にあるようです。
だから、暗唱の勉強だけでは不十分で、暗唱とともに読書に力を入れていくことが必要です。更に、読書の成果を表現するために作文の勉強が必要になってくる、という関係にあるのです。
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暗唱という学習法には、伝統があります。しかし、現代ではこの暗唱という方法は、あまり一般的ではありません。そのため、理論化が不十分で、ともすれば形式にこだわる傾向が出てきます。
その形式化が最も強く出るのが教材選びです。暗唱の教材というと、ほとんどが古典的な名文から選ばれています。古典的な文章から選ぶのは、文化的な教養を身につけるという点ではいいのですが、暗唱という学習法で徹底してやるほどのものではありません。
暗唱の教材は、その学年の子が書く作文と同じか少し高いレベル、つまり自分が文章を書く際に生かせる日本語で書かれていることが大事です。漢文を直読するような素読も、文化的な意味ではとてもよいことだと思いますが、それだけでは現代日本語の助詞や助動詞の感覚がわかりません。
これまで、暗唱という学習法は、小学校低中学年までの勉強のように思われていたために、大人が読むような古典を読ませることが中心になっていました。しかし、暗唱を中学生や高校生まで継続できる勉強と考えれば、その学年で書く作文に結びつくような文章を読む方がずっとよいのです。
では、暗唱の学習はいつごろから始めたらよいのでしょうか。小学校1年生ぐらいからというのが理想です。小学校1、2年生のころは、暗唱の学習が全く苦になりません。しかし、小学校3年生以上で始めると、軌道に乗るまで本人がかなり苦しい思いをするようです。ただし、言葉の森の暗唱法は、手順どおりにやれば、だれでも必ずできるようになるので、問題はできると確信が持てるようになるまで継続できるかどうかということになります。
暗唱の勉強を幼児期から始めるのは早すぎます。本当は、うまくやれば早すぎるということはないのですが、早くから始めようとすると、やり方に不自然さが伴ってしまうことが多いのです。幼児期は、ある特定のやり方を徹底するよりも、母親や父親ができるだけたくさん話しかけたり読み聞かせたりするという、言葉の生活を豊かにするという感覚でやっていくのがよいと思います。
では、暗唱の学習はいつごろまで続けたらいいのでしょうか。教室の子供たちを見ていると、中学生ぐらいからだんだん暗唱ができなくなります。学校の勉強が忙しくなるということもありますが、それとともに、物事を理解する力が育つ時期なので、単純に反復する勉強というものがしにくくなるからです。しかし、作文力は、高校生になるまで毎年変化していきますから、高校生まで続けていく方がもちろんよいのです。
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今日は、ちょっと堅い話です。(^^ゞ
未来の教育の重要な一つの分野は、心身教育です。その心身教育の中の一つの重要な教科が意識工学になると考えられます。
意識についての研究は、アメリカなどを中心に進められていますが、現代の科学のパラダイムではカバーできない面があるようです。そのため、当面の研究は、哲学と工学に担われるようになるでしょう。(どうして、現代の科学のパラダイムでカバーできないかというと、研究の大勢が、意識を媒介する物質やその測定に明け暮れていて、一向に成果を上げていないように見えるからです)
科学のパラダイムを超える哲学として今求められているものは、欧米の文化が築いてきた個体としての人間という考え方を克服する哲学です。
もちろんに、人間には個性を持つ個体としての面があります。しかし、それと同時に、個人は、世界との固定した境界を持たない、全体と濃淡の差でつながっている、全体の一部としての面も併せ持っています。
全体の一部というのは、より厳密に言うならば、単なる部分としての一部ではなく、部分の中に全体を再現したフラクタルな一部でもあるとも言えます。それは、個体が単に世界を構成する部品なのではなく、一つ一つが世界の雛形となる、全体としての個体だということです。あたかも、一つ一つの細胞が、その生物体の持つすべての遺伝情報と同じものを持っていることと同じであるかのようです。
では、どこで、人間は、世界と一体化しているのでしょうか。方向は、三つあると考えられます。
第一は、私たちの身体を構成する材料となっている自然や土地です。人間は、その土地から取れる作物を食べて生きています。食べ物は、人間という個体から離れた対象なのではなく、その個体と分かちがたく結びついている、個体の一部となっている世界でもあるのです。
第二は、私たちの身体の遺伝子に組み込まれている情報です。遺伝の情報は、だれひとり例外なく両親から受け継ぎ、その両親は更にその両親から情報を受け継ぎ、何十代、何百代とさかのぼれば、人間は結局、その家族や民族や人類の歴史の中で存在していることになります。
想像すればわかるように、自分の中に流れている生命の情報は、戦時中や戦前の親や祖先の中にも流れていたものであり、それは更に明治時代、江戸時代をさかのぼり、鎌倉時代、平安時代、奈良時代、弥生時代、更には縄文時代にも、同じように連綿と流れていたものです。決して、自分の誕生ととともに突然生まれて育ってきたものではありません。
第三は、私たちの、ものの見方、考え方、感じ方、そして、行動の仕方を形作っている文化です。それは、目の前に広がる世界が、私たちの個体が見ているものであると同時に、私たちの文化という全体が見ているものでもあるということです。
例えば、春、軒先にツバメが飛んでいるときに、私たちが感じる何かは、私たちが生まれてからの短い経験で作られたものではありません。日本の文化の長い伝統を背景にして作り上げられてきたものです。それは、これから春に向かい、育てた稲が次第に実るとき、虫たちを捕食してくれる働き者のかわいい仲間としてツバメたちを迎えた、私たちの先祖のものの見方感じ方なのです。
このようにして、人間は、世界から自立した個体であるとともに、世界という全体と連続的に結びついた、全体としての個体という面を持っています。しかし、ここで、その全体というものの焦点をどこに置くかということが問題になります。
人間は、地球の自然、人類の歴史、人間の文化という三つの方向で、全体の一部として生きています。しかし、ここで言う自然、歴史、文化は、それぞれの時代によって異なる深さを持っています。それぞれの時代によって、異なる深さに密度の濃い岩盤を持っていると言えるのです。
はるか遠い未来の人間は、自分自身を、地球と人類と世界の一部として生きていくでしょう。一方、はるかな過去の時代には、人間はごく身近な狭い範囲の自然と歴史と文化の中で生きてきました。
ところが、現代は、近代の国家主権が、さまざまな深さの全体の中で最も密度の濃い層として全体を形成している時代です。とすれば、私たちがつながる全体とは、日本の自然と歴史と文化という全体です。
しかし、それは、より狭い過去にさかのぼろうとする日本ではなく、未来の地球、人間、世界につながる広い日本でなければなりません。それが、日本の抽象化という意味です。
意識工学の根底にあるものは、人間が孤立した個人ではなく、自身の中に全体を反映した個人であるということと、その全体とは現代の社会にあっては、日本の自然と歴史と文化により密度の濃い土台を持つということと、その日本という土台を世界に共通する普遍的な全体にまで昇華させていく展望を持つ必要があるという考え方です。
かなり堅い話になった……。^^;
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20年前筑波大学教授の猪俣修二先生が会長の意識工学会に参加していました。難しい式はわかりませんでしたが、概念がとても面白く参加させてもらいました。仏教とくに法華経の説く世界観を話す方がいました、気の世界を話した方もいました。植物の先生もいました。この理論の読んで思い出しましたみなさんいかがしているのでしょうか。
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公立中高一貫校では、ほとんどの学校が作文の入試を行っています。高校入試でも、推薦で作文の試験を行うところが増えています。大学入試では以前から小論文の入試がありましたが、最近更に推薦での作文試験が増えてきました。また、就職試験でもエントリーシートなど文章を書く機会が増えています。
社会人になってからも、自分の書いた文章を発表する機会はますます多くなっています。仕事以外にも、ブログなどで文章を書く機会は増えています。作文力の重要度は、年々高まっていると言えます。
作文は、自分で自分の書いた文章の評価ができないという点で独学の難しいものです。しかし、作文の勉強を進める上で最も大きな問題は、作文の評価に手間がかかることです。特に中学入試などで、大量に作文の採点をする場合、採点する側の負担はかなり大きいはずです。
ここで提唱したいのは、森リンという自動採点ソフトの活用です。森リンで評価するには、手書きで書いた文章をテキスト化するという手間はありますが、いったんテキスト化された文章であれば客観的な採点ができます。
人間が採点する方式では、採点するたびに、又は、採点する人によって点数がかなり動きます。人間には、文章や個々の表現に対する好みの問題があるからです。森リンは、語彙の多様性と分布をもとに文章力そのものを評価するので、何度採点しても同じ結果が出ます。
現在の森リンは、表記のミスをチェックすることにはそれほど力を入れていません。文の長さや、段落の多さ、常体と敬体の区別などをチェックする程度です。その理由は、表記のミスは人間が見ればすぐにわかるからです。しかし、これも人間の手間を減らそうと思えば、森リンのデータベースに、生徒のよく間違えそうな表記ミスを網羅して入れておけばすみます。また、漢字力や語彙力については、作文という形をとらなくても個別に試験を行えば十分にできます。
もう一つ、森リンは作文の内容の評価はしません。出されたテーマと書かれた内容が合っているかどうかということを機械で評価する方法が全くないわけではありませんが、内容の評価は機械が行うよりも人間が行うべきものです。
しかし、人間が文章を全部読んでその内容が的確かどうかを考えるというのでは、やはり採点の負担が大きすぎます。そこで、提案したいのは、言葉の森で行っているような構成と表現項目を指定した作文の課題を出すことです。
例えば、「○○というテーマで、60分以内に600-800字の作文を書きなさい。その際、一つの段落は150-200字でまとめるようにし、二番目と三番目の段落の冒頭にそれぞれ理由を書き、四番目の段落には反対意見に対する理解と名言を入れなさい。(名言は別表の名言集の中から選んでください)」というような出題の仕方です。
こういう形で書かれた文章であれば、採点者は一応全文に目を通すとしても、重要なポイントにしぼってチェックすることができるので、採点の能率が大幅に向上します。こういう構成と項目で書くことができていれば、それだけでもう基本的な作文力は十分にあると考えることができます。
以上は、採点する側の事情に沿っての話でしたが、作文を書く生徒の側についても、作文の勉強に森リンの活用を考えることができます。森リンの採点を使うと、自分の書いた作文がおおまかにどういうレベルにあるかを見ることができます。
将来の作文指導、特に中高生の作文小論文指導に関しては、この森リンのような自動採点ソフトを使った形が主流になってくると思います。
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人間には、だれにも向上心があります。人生のある時期に、「よし、これからがんばってやろう」と思う転機のようなものが必ずあります。そして、その転機は往々にしてたっぷり遊んだりさぼったりしたあとにやってきます。
親は子供の成長を願うあまり、幼稚園や小学校の低学年のころから、子供を向上させようとしがちです。しかし、本人に向上しようという自覚のない時期に勉強をさせると、やらせすぎる弊害の方が大きくなることがあります。この時期は、遅れる心配よりも、やらせすぎる心配の方をする必要があるのです。
低学年のころ、真面目で、勉強もよくでき、本もよく読んでいた子が、中高学年になるとだんだん勉強しなくなるというケースはよくあります。また、小学校時代しっかり勉強していて小6まで真面目だった子が、中学生になって急にさぼりだすということもよくあります。
こういう状態になると、親はとまどいますが、これは、いったん休んで、また子供自身が納得してがんばりはじめるまで待つしかありません。子供は、小さいころの勉強のやりすぎを、途中でたっぷりさぼることによって回復しているのです。
一生がんばり続ける子も、一生さぼり続ける子もいません。ある時期さぼって自分を回復した子は、必ずまた自分の力でがんばるようになります。
こういうことを見るにつけても、人間は、ブロイラーのように管理できるものではないということを思わされます。
親と子では年齢が違うので、つい親は、子供のすべてをコントロールできるように考えがちですが、それぞれの魂の成熟度は、実はそれほど変わりません。一人一人は、自分でしか解決できない課題を持ってこの人生を生きているのです。
親のできることは、年長者としての知識を生かしながら、子供を対等の人格を持ったものとして尊重していくことです。子供が未熟なように親も未熟です。お互い未熟な者どうしが試行錯誤の中で次第によりよい人生を築いていくというのが真実の姿にいちばん近いと思います。
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すいません。申し上げにくいのですが、ちょっと参考にしてもらってもよろしいでしょうか。
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旧小1(現在小2)の生徒が3月4週に行った読解問題の採点が「山のたより」に正しく表示されていませんでした。
原因は、新学期の切り替えと採点がぶつかっていたためのようです。
該当者は、次の13名の生徒です(abc順)。今は正しく表示されています。どうも申し訳ありませんでした。<(_ _)>
kariwa kihesi kikuhi kimeku kineyu kiriru kirito kisuwa kitato kitayu kitie rihimi torata
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小学校1、2年生の子の保護者の方からときどき、「学校で日記や作文の宿題があるが、うまく書けない」という相談を受けることがあります。小学校5、6年生でも、苦手意識を持つ子は多いようです。
言葉の森の作文指導は、どんなに苦手な子でも大丈夫です。そのコツは、事前指導にあります。
一般に、通信の教室でも通学の教室でも、作文指導は、書いたあとの指導に力を入れることが多いものです。しかし、書いたあとの添削だけでは、作文の力はなかなか身につきません。
スポーツの場合でも、サッカーなどで、「あのシュートがよくなかった」と言われて、次回からいいシュートができるようになるかというと、そういうことはありません。悪いシュートを注意することではなく、いいシュートを放つ練習をして初めて、いいシュートが身につくのです。
作文の場合、その練習が、読書と暗唱と、実際に作文を書くことです。
では、書けない子がいた場合、どのように指導するのでしょうか。言葉の森では、先生が生徒に書くことを教えてあげます。苦手な子の場合は、文そのものを言ってあげるような形で教えます。
このやり方は、家庭でも生かすことができます。
構成図を使う場合は、お母さんが鉛筆を持って子供の横にすわり、子供と話をしながら構成図をどんどん埋めていきます。十分ほどで構成図がほとんど埋まったら、「これを見て書いてごらん」と言えば、子供はすぐに書き出せます。構成図を使わない場合は、お母さんが一文ずつ言ってあげます。
私(森川林)が教室で一文ずつ言う場合は、ときどき冗談を入れます。例えば、「料理を作ったこと」で書く場合、
先生 「はい、じゃあ、言うよ。『ぼくは、きのうブタの丸焼きを作りました』」
生徒 「えー! そんなの作ってないよ」
先生 「まず、近くの公園にブタをつかまえに行きました」
生徒 「だから、作ってないって。それに、公園にブタなんていないって」
先生 「じゃあ、何を作ったの」
生徒 「えーとねえ。玉子焼き」
先生 「じゃあ、『ぼくは、きのう、玉子焼きを作りました』。はい、書いてごらん」
生徒 「……。書きました」
先生 「まず、最初に、玉子を空手チョップでわりました」
生徒 「えー! そんなことしてないよ」
こういう感じで書いていけば、親子が対話を楽しみながら作文を書いていくことができます。
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