先日、「小沢革命政権で日本を救え」(副島隆彦・佐藤優 著)という本を読みました。現代の社会を考えるための必読書の1冊になると思います。しかし、今回は、その中のごく一部の話だけ。
この本の中で、副島氏と佐藤氏は、永住外国人の地方参政権について正反対の意見を述べています。
副島氏は、
1、外国人の地方参政権は、ヨーロッパ(つまり世界)のワールド・バリューである、
2、外国人に乗っ取られるほど、日本は柔(やわ)な国ではない、
3、代表なければ課税なしの原則がある、
という意見です。
一方、佐藤氏は、
1、北朝鮮や中国とは、相互主義の原則が取れない、
2、地方自治体であっても、日本が国家として機能しなくなる事態が生まれる、
3、外国人の参政権を課題にすること自体が、国内の対立を生み出す、
という考えです。
そして、二人に共通する見解は、
1、民族の純血性にこだわるべきではない、
2、人種主義、排外主義になるべきではない、
3、日本に帰化できる要件を緩和するべきだ、
ということです。
日本に住んで、同じ顔同じ言葉の日本人の中で暮らしていると気がつきにくいことですが、私たちは、個人でも、市民でも、地球人でもなく、まず第一に日本の国民として生きています。つまり、日本という国が繁栄したり衰退したり、自立したり隷属したりする中で、その国家という土台の上に個人の生活が成り立っています。
国家が豊かになれば、自然に個人の生活も豊かになります。国家が貧しくなれば、それに応じて個人の生活も貧しくなります。国民から強引に税金を徴収して、警察と軍隊を持って政治を遂行できる国家というのは、それほど大きな影響力を持っています。
そして、この国家というのは、私たちから離れたところにある顔のない組織ではなく、私たちが選挙によって選ぶことのできるひとりひとりの集合意識が形を持ったものです。
そのような国家の動向を左右する権利を、国家に属していない人が持つべきではないというのは、むしろこれからの世界のワールド・バリューになると思います。
にも関わらず、今の政治情勢の中では、外国人参政権を推進しようとする政党や政治家が多いのも事実です。
しかし、こういう一種のシンボルをめぐる綱引きのようなところで、日本人どうしが無意味な争いをしているべきではありません。いちばん大きいマイナスは、互いに協力しあわなければならない国民どうしが、大きな一致点を見ずに小さな相違点で争うことなのです。
そう考えると、今大事なことは、日本という国をどのような外国の圧力にも動じない更に「柔でない国」にしていくことです。
そのためには、今の日本人が日本をもっと強力な国にしていく必要があります。しかし、その強力とは、軍事的、血縁的な強力ではなく、文化的な強力です。
日本というものを、つまり、日本の自然、文化、歴史を、日本語を通して自分と一体のものとし、それをいつでも発信できるようにしていくことが、日本人の集合意識である日本を強力にする道です。
もちろん、この日本との一体化をほとんどの日本人は無意識のうちに日々の生活で実践しています。しかし、これから多くの外国人が日本に住むようになったときに、この日本との一体化を自覚的に伝えていく必要があります。
例えば、日本のことをよく知らない外国人に、「日本人ならこうする」「日本文化ではこう考える」「日本ではこうだ」ということを、日本の特殊性としてではなく、世界に共通する普遍性の新しい一部として伝えていく必要があるのです。
これまでは、その自覚が足りなかったために、欧米の基準に無条件に追随してみたり、逆に、日本の偏狭なナショナリズムを主張してみたりするようなことがありました。
これからは、欧米の価値観をも納得させるような、より大きな日本の価値観を作っていく必要があります。それが、新しい日本の抽象化です。
しかし、それは、教科書的な一律の基準でできるものではありません。問題となる事柄のそれぞれのケースに対応して創造的に考えていく必要があります。
例えば、イルカやクジラの捕獲や食用利用について、これを日本の文化と考える人がいます。
確かに、日本人は昔からクジラのひげをぜんまいがわりに使うなど、捕獲したクジラをほぼ百パーセント利用しきる文化を築いてきました。しかし、その前提には、イルカやクジラは魚であり、動物の殺生は避けるが、魚の食用はやむをえないとする誤解がありました。
現在、イルカやクジラは哺乳類であり、人間と同じような喜びや悲しみを感じる動物であるということがわかったあとでは、これを魚と同じ扱いで捕獲することはやめるべき時期に来ています。
イルカやクジラの食用を古い日本文化であるとすれば、新しい抽象的な日本文化は、次のようなものになります。
イルカやクジラに限らず、牛や豚も含めて動物を食用に利用することをやめ、そのかわり、科学技術の力によって大豆たんぱくなどで最高級のステーキ以上の食感を持った食品を開発するという方向です。
同じように、政治や経済の世界でも、議院内閣制、共和制、三権分立制、市場主義など、現在使われている概念はすべて欧米の文化の中で生まれたものです。日本文化には、これらの欧米の価値観を上回る新しい世界のビジョンを作る可能性と役割があります。
欧米の文化に流されないということは、後ろ向きに過去の日本やアジアの文化に回帰することではありません。日本発の新しい世界基準の文化を作っていくことです。
それを軍事力によってではなく、文化的な影響力によって自ずから世界に広がるようにしていくのが、これからの日本の役割になります。
そのためには、日本人がまず日本の自然、文化、歴史と一体感を持ち、日本を世界の模範となるようなよりよい国にしていく必要があります。もちろん、その場合の日本人とは、日本と一体感を持った韓国出身、中国出身、ブラジル出身の日本人であっても、青い目の日本人であってもよいのです。
日本人は、世界中のだれとでも仲よくしていく必要があります。しかし、それは無国籍の顔のない個人としてではなく、日本の自然と文化と歴史を背景に持った日本人として仲よくしていく必要があるのです。
同様に、日本は、世界のどの国とも仲よくしていく必要があります。しかし、それは経済力と軍事力の順位に還元されるような顔のない国としてではなく、日本という政治的、文化的統一性を持った自立した国として仲よくしていく必要があるのです。
小学校3年生の子のお母さんから質問がありました。森リンのベスト10で、総合点が10位の子と同じ点数なのに、その子が表示されていないというのです。
森リンの上位の点数の差はほんの数点差ですから、総合点が同じ場合は表現点で順位を決めるようになっています。その子の場合は、表現点がほんのわずか少なかったのだと思います。
しかし、問題は、少し別のところにあると思いました。
森リンの点数を作文の客観的な基準として利用するのはよいことですが、小学校4年生までは、それを作文の評価の一つの参考として見る程度にとどめ、その点数による競争や勝敗を目標にしない方がよいのです。
今の受験体制のもとでは、親自身が、競争に勝つことを目標にしてしまいがちです。そして、子供もすぐにそういう競争の雰囲気に適応します。
そこで、動機としてわかりやすいからということで競争を目標にしてしまうと、あとで必ず反動が来ます。
例えば、森リンで10位以内に表示された場合、うれしいからといって、更に上位を目指そうとすることがあります。
しかし、みんなが毎回同じように熱心に作文を書いている中で、ひとりだけ毎月少しずつ上位に進むということはありえません。
文章の進歩は、1年かけて少しずつ進んでいくものです。
毎月、他の人よりも少しずつ上手になっていくという発想自体に無理があるのですが、そういう競争の世界に入ってしまうと、それが無理だと思わずに、親も子も点数に一喜一憂するようになります。そして、この一憂のときに、挫折してしまうことがあるのです。
これは、出発点で、勉強の意欲づけに競争という一見便利なものを使ってしまったからです。
競争がそれほどマイナスにならないのは、勝ち負けをゲーム感覚で考えられるようになる小5以降です。小5から中2までは、年齢的にも、競争に燃えるような時期になります。
そして、中3になると、人間は競争のようなものではなく、自分自身の向上のために努力するようになります。ですから、本当に勉強に身が入るのは、中3以降です。
小4までは、競争よりも、親や先生の心からの褒め言葉が子供にとっていちばんの励みになります。そして、子供にやる気が出ない場合も、やはり親や先生の心からの注意がいちばん力になります。
小学校4年生までは、点数で他人と比較をするのではなく、自分の子供だけを見て、いいところ褒めて励ますようにしていくといいのです。