言葉の森の受験コースは、志望校の過去問に合わせた課題を中心に、受験日の5ヶ月前から始めることができます。
過去問に沿った練習を何回か行ったあと、どのような課題にも対応できるように幅広くいろいろな課題で書く練習をしていきます。
受験コースに入る前の普通の課題でも、小学校5年生以上の感想文課題は、受験コースと同じスタイルの学習になっています。ですから、普段の課題ができていれば、そのまま受験コースの課題の実力もついているということになります。
最近の課題の傾向として、題名課題から文章課題へ、文章課題から複数文章課題へという流れがあります。題名課題の場合は、ある程度の準備ができますが、複数文章課題になると、事前の準備というものはなかなかできません。課題が難しくなると、やはりその子の実力が物を言います。
実力をつけるためには、練習を重ねるしかありません。言葉の森の指導法は、正攻法で、たくさん書く中で、いい実例、いい表現、いい意見を増やしていくという方法です。
作文は、書き方のコツのような本をいくら読んでも力がつきません。実際に書くのがいちばんで、自分の書いたものだけが、試験の本番でも役に立ちます。
いい材料を増やしていくには、家族の対話が大事です。お父さんやお母さんの体験を聞いていると、そこから自分の体験も引き出されてきます。
言葉の森では、生徒が課題を読んだあと、先生が事前に書き方を説明します。生徒が自分ですべて考えて書く必要はありません。先生の説明を聞いて、その説明に沿って書ける子は実力があります。
試験の本番では、ほとんどの子が字数いっぱいまで、それまでの練習のいちばんいいところを出すような形で書いてきます。
ただし、一般の教科の試験と違って、作文の試験の場合は、課題による出来不出来がかなりあるのも事実です。そのときに、これまでの蓄積が物を言います。
言葉の森を何年も続けてきた子は、難しい課題が出ても、「これまで長年書いてきたのだから、自分に書けないはずがない」という気持ちを持てるので、実力を発揮できるのだと思います。
「未来予測コルマンインデックスで見えた 日本と経済はこうなる」(高島康司著)を見ると、今後、資本主義経済に代わるものとして、自給自足経済が登場するということが書かれています。
これまでは、孤立した個人が、個人の利益のために競争し、それが全体の調和につながるという考えが社会を形作ってきました。この考え方の裏づけとなったものが、生存競争による食物連鎖や進化論という考え方です。
世界が発展する時期には、そのような競争による淘汰が社会の主要な面を代表していました。しかし、社会の発展が一段落し安定してくると、今西錦司の説くような棲み分けという仕組みが、社会の主要な面を代表するようになります。今は、その過渡期なのだと思います。
社会を人間の意志でコントロールしようとする社会主義経済は、資本主義の発展速度に追いつけなかったために破綻しました。
しかし、今逆に、新しい形の計画経済が可能になりつつあります。それは、例えば、商品の売買を現金ではなくカードですべて決済するようなやり方にすれば、物やお金のやりとりが、データの流れとして把握されるようになります。
そのような大きな計画経済が生まれつつある一方で、物々交換のような売買に基づいたローカルな自給自足経済もまた動き出してきているように思えます
これまでの売り手は、自分が利益を上げて得をするために物を売っていました。今後は、相手に喜んでもらうために物を売るという面が強く出てきます。いわば、学園祭における模擬店のようなものが、商品売買の中心となります。
このような社会では、物を売る喜びは、働くことへの喜びに基づいています。利益を上げる動機だけではなく、相手の喜ぶ顔を見たいということが物を売る動機となります。また、物を買う側についても、自分が得をするために買うだけではなく、相手を喜ばせるために買うという一種のコミュニケーションン的な購入が中心になってきます。
この自給自足経済の中では、教育の形も変化します。今までの教育は、生徒と保護者という買い手に対して、学校と先生という売り手が対応するという形でした。
確かに、高校や大学のような高等教育の分野は、教育内容に精通した専業の教師が必要でしょう。しかし、小中学校の教育の大部分は、教科の教育よりも人間教育と考えられます。とすれば、勉強の教え方が上手な先生というよりも、自分の子供をしつけの面や情緒の面も含めて上手に子育てしている母親が、近所の子供の勉強も一緒に見てあげるという形の方が、より大きな信頼を得られると思います。
これが、教育の専業化から副業化への流れです。この教育における副業化と同じものが、地方自治体の議員のような政治の分野にも起こってくると思います。また、ジャーナリズムやアカデミズムの分野にも、次第に副業化の波は押し寄せてくると思います。
顔の見えないグローバリズムの資本主義社会の中で専業として成り立っていた多くの分野が、顔の見える自給自足経済の中では次々に副業化していきます。
このような社会では、かつてマルクスが人間社会の理想として描いたような、朝は教師で、昼は議員で、夕方はジャーナリストで、夜は学者であるというような生活が、多くの人にとって一般的なものになってきます。
しかし、グローバルな分野で機械化、省力化が進み、ローカルな分野で副業化が進むときに、その副業化を促す分野は逆に専業化していきます。
例えば、だれもが副業的に教育や政治やさまざまな仕事に携われるようになる時代には、その携わり方のノウハウを教えるような分野が専業化します。
言葉の森も、子供たちに作文を教えるという今の教室の形態から、将来は、作文の教え方を教えるというような方向に進んでいくようになると思います。