作文というのは、無理のきかない勉強でした。
昔、ある生徒が教室に来たとき、送ってもらう車の中で、お母さんに何か叱られたらしく、半分泣き顔で入ってきたことがありました。そのときに書く課題の題名が、「楽しかったこと」のようなものだったということがありました。悲しい気持ちでいるときに、「楽しかったこと」という題名の作文は書けません。これが、作文の勉強が、英語や数学などほかの勉強と違うところです。
作文の勉強は、感情を伴うものなので、書けないときに叱って書かせるようなことはできないものでした。
ところが、子供によっては、準備不足で書くことを決めてきてこなかったり、そのときの課題が書きにくいテーマだったり、たまたま気分的にやる気の出ないときだったりするという状態で教室に来ることがあります。
そういうときに、その子供が甘えて、「今日は書けない」などと言うと、いくら先生や親が、「こういうこともあるでしょう」「ああいうこともあるでしょう」と水を向けても、なかなか書き出すことができません。
このように、小学校低中学年の子が作文を書けないとき、家庭でうまく対応する方法があります。
その方法のひとつは、親が続きの文を言ってあげることです。親の言ったとおりに何行か書いていくと、子供はそのあと自然に自分で続きを書けるようになります。
もうひとつは、構成図を使うという方法です。子供を横にすわらせて、お父さんやお母さんが子供と話をしながら、構成図の枠を埋めていきます。子供がやる気のないときでも、半分尋問のように(笑)、叱りながらでもいいので話を聞いてどんどん枠を埋めていきます。
質問しても話があまり出ないときは、似た話に広げていきます。例えば、「おふろ」という作文の課題で、お風呂の話題が尽きたときは、お風呂でもぐったこととか、石鹸(せっけん)が目に入って痛かったこととか、小さいとき親と一緒にお風呂に入ったときのこととか、お風呂の掃除をしたこととか、旅行に行って温泉に入ったこととか、話の幅を広げて聞いていきます。
構成用紙の枠が全部埋まったところで、「これで作文を書いてごらん」というと、ほとんどの子は喜んで書き出します。
構成図は、よく書ける子の場合は作文のシミュレーションとして、あまり書けない子の場合は作文の呼び水として使っていくことができます。
構成図を使うと、作文はかなりの程度まで無理のきく勉強になります。
●構成図の書き方(
https://www.mori7.net/mori/mori/kouseizu.html )
ところで、小学校高学年、中学生、高校生の生徒が、作文の続きをなかなか書けないときの対応は、少し異なります。これは、心理的に書けないというよりも、内容が理解できなくて書けないということだからです。
言葉の森の生徒が家庭で作文の勉強をしているとき、作文を書けない状態が10分以上続いたら、迷わずに教室に電話で相談してください。追加の説明をすれば、ほとんどの子が書けるようになります。
担当の先生は、一般に、子供が普通に理解できていることを前提にして説明します。しかし、その説明で書けなかった場合、教室に電話をしてくれれば、教室では、その子がよく理解できなかったことを前提にして易しく説明し直します。それで、ほとんどの子は書けるようになるのです。
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本日7月3日20時8分ごろ、体験学習のファクスを送っていただきましたが、ファクスの画面が黒くて中の文字がほとんど読めませんでした。^^;
かろうじて電話番号だけが「……360-80……」のように見えます。
再度、お電話でご連絡くださるか、体験学習のページよりお申込くださるようお願いいたします。
▽体験学習のページ
https://www.mori7.net/mori/taikenn.php
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「脳と音読」(川島隆太+安達達夫著)を読みました。ちょうど今、暗唱と学力の関係を研究しているところなので参考になりました。
川島氏の調査によると、音読は脳を活性化する効果があるということです。小学生を対象に、音読を2分間させたあとに、記憶力や空間認知力のテストをしたところ、音読をしないときに比べて20-30%も学力の向上があったそうです。
本を読む場合、能率よく内容を吸収するという点では黙読ですが、頭脳を鍛えるという点では音読の方が効果があるようです。
ところが、何度か音読を繰り返しているうちに、その文章を覚えてしまい、歌を歌うような感じで音読を続けるようになると、今度は逆に脳はリラックス状態になります。
これは、私も簡単な脳波計で実験したことがありますが、単純な言葉を音読で繰り返していると、脳波に急にΘ波が増えてきます。それだけ、脳が休んだ状態になるということなのでしょう。
このように、音読は、最初のうち脳を活性化させますが、同じ文を覚えるぐらいまで読み続けると今度は脳をリラックスさせるようになります。
しかし、この音読よりも活性化とリラックスの度合いの激しいものが暗唱です。
暗唱をしていると、途中から急に眠くなってきます。50字程度の文章の暗唱では短期記憶がそのまま使えるので眠くなるようなことはありませんが、300字や900字の暗唱になると、脳がフルに活性化されるので、くたびれて眠くなるのだと思います。
ところが、この300字と900字の暗唱がだんだんスムーズにできるようになり、無意識のうちに暗唱を繰り返せるようになると、脳は今度はリラックス状態になります。
こういうことを考えると、暗唱は、音読よりも更に頭をよくする効果があるのではないかと思います。
言葉の森の暗唱法は、手順さえ踏めば、だれでも例外なくできるようになるものですが、その手順を説明する前に自己流で暗唱をしてもらうと、暗唱ができるようになるまでのスピードの差に、子供たちの現時点での頭のよさの差がはっきり表れているようです。
しかし、暗唱という勉強の長所は、やり方さえわかれば、だれでもできるということです。ということは、頭のよさというものも、生まれつきではなく、やり方によって後天的に育つものだということです。
江戸時代、日本人の識字率は世界最高でした。それも、当時の先進国であるヨーロッパに比べても、比較にもならないダントツの第一位でした。その秘訣は、江戸時代の日本の教育の中心が、文章の音読を中心としたものだったからだと思います。
現代の教育の問題は、問題を解くようなスタイルの、いかにも勉強をしているような形の勉強が多いために、かえって実力がつかないことにあります。
解く勉強と読む勉強を比較すると、解く勉強は点数の差が出やすい面があります。そこで、多くの子が勉強を嫌いになります。できなかったところが×になるという形の勉強は、ほとんどの子にとって面白いわけがないからです。
勉強が面白くなくなる結果、無理に意欲をつけさせるために、今度はテストで競争を煽ることになります。解く勉強、勉強嫌い、テストによる競争は、ひとまとまりのものなのです。
江戸時代の寺子屋が、競争もテストもない中で、なぜあれほどのびのびと子供たちが集まり、しかも日本人の学力を世界最高のものにしたかというと、そこで行われていた勉強が、解く勉強ではなく読む勉強だったからです。
言葉の森では、今、暗唱や問題集読書に力を入れていますが、この暗唱や読書の効果は、今後もっと研究を進めていくべき分野になると思います。
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夏休み中の1ヶ月以上の休会については、次のように扱っています。
1、在籍したままの休会
・受講料の引き落としはあります。
・山のたよりや言葉の森新聞は毎週送られます。
・7月、9月など別の月に振替で授業を受けられます。(事情によっては学期をまたいだ10月以降の振替もできます)
・9.1週の進級試験に合格すれば進級できます(ただし各月の課題を最低1回は提出していることが条件になります)
2、在籍をしない休会
・受講料の引き落としはありません。
・山のたよりや言葉の森新聞は送られません。
・休会中の授業の振替はありません。
・1ヶ月に1回も提出しない月が出るので、次の10-12月の学期はいったん級が下がったところから開始します。
(ただし、10-12月の学期に進級すれば、次の1-3月の学期は通常の進度に戻ります)
夏休みは、電話先の臨時変更や、休んだ授業の振替などが随時できるので、できるだけ工夫して授業を継続していかれることをおすすめします。
子供にとっても、忙しい中にも関わらず何とか続けたということが、その後の勉強の意欲につながるからです。
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言葉の森の受験コースは、志望校の過去問に合わせた課題を中心に、受験日の5ヶ月前から始めることができます。
過去問に沿った練習を何回か行ったあと、どのような課題にも対応できるように幅広くいろいろな課題で書く練習をしていきます。
受験コースに入る前の普通の課題でも、小学校5年生以上の感想文課題は、受験コースと同じスタイルの学習になっています。ですから、普段の課題ができていれば、そのまま受験コースの課題の実力もついているということになります。
最近の課題の傾向として、題名課題から文章課題へ、文章課題から複数文章課題へという流れがあります。題名課題の場合は、ある程度の準備ができますが、複数文章課題になると、事前の準備というものはなかなかできません。課題が難しくなると、やはりその子の実力が物を言います。
実力をつけるためには、練習を重ねるしかありません。言葉の森の指導法は、正攻法で、たくさん書く中で、いい実例、いい表現、いい意見を増やしていくという方法です。
作文は、書き方のコツのような本をいくら読んでも力がつきません。実際に書くのがいちばんで、自分の書いたものだけが、試験の本番でも役に立ちます。
いい材料を増やしていくには、家族の対話が大事です。お父さんやお母さんの体験を聞いていると、そこから自分の体験も引き出されてきます。
言葉の森では、生徒が課題を読んだあと、先生が事前に書き方を説明します。生徒が自分ですべて考えて書く必要はありません。先生の説明を聞いて、その説明に沿って書ける子は実力があります。
試験の本番では、ほとんどの子が字数いっぱいまで、それまでの練習のいちばんいいところを出すような形で書いてきます。
ただし、一般の教科の試験と違って、作文の試験の場合は、課題による出来不出来がかなりあるのも事実です。そのときに、これまでの蓄積が物を言います。
言葉の森を何年も続けてきた子は、難しい課題が出ても、「これまで長年書いてきたのだから、自分に書けないはずがない」という気持ちを持てるので、実力を発揮できるのだと思います。
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「未来予測コルマンインデックスで見えた 日本と経済はこうなる」(高島康司著)を見ると、今後、資本主義経済に代わるものとして、自給自足経済が登場するということが書かれています。
これまでは、孤立した個人が、個人の利益のために競争し、それが全体の調和につながるという考えが社会を形作ってきました。この考え方の裏づけとなったものが、生存競争による食物連鎖や進化論という考え方です。
世界が発展する時期には、そのような競争による淘汰が社会の主要な面を代表していました。しかし、社会の発展が一段落し安定してくると、今西錦司の説くような棲み分けという仕組みが、社会の主要な面を代表するようになります。今は、その過渡期なのだと思います。
社会を人間の意志でコントロールしようとする社会主義経済は、資本主義の発展速度に追いつけなかったために破綻しました。
しかし、今逆に、新しい形の計画経済が可能になりつつあります。それは、例えば、商品の売買を現金ではなくカードですべて決済するようなやり方にすれば、物やお金のやりとりが、データの流れとして把握されるようになります。
そのような大きな計画経済が生まれつつある一方で、物々交換のような売買に基づいたローカルな自給自足経済もまた動き出してきているように思えます
これまでの売り手は、自分が利益を上げて得をするために物を売っていました。今後は、相手に喜んでもらうために物を売るという面が強く出てきます。いわば、学園祭における模擬店のようなものが、商品売買の中心となります。
このような社会では、物を売る喜びは、働くことへの喜びに基づいています。利益を上げる動機だけではなく、相手の喜ぶ顔を見たいということが物を売る動機となります。また、物を買う側についても、自分が得をするために買うだけではなく、相手を喜ばせるために買うという一種のコミュニケーションン的な購入が中心になってきます。
この自給自足経済の中では、教育の形も変化します。今までの教育は、生徒と保護者という買い手に対して、学校と先生という売り手が対応するという形でした。
確かに、高校や大学のような高等教育の分野は、教育内容に精通した専業の教師が必要でしょう。しかし、小中学校の教育の大部分は、教科の教育よりも人間教育と考えられます。とすれば、勉強の教え方が上手な先生というよりも、自分の子供をしつけの面や情緒の面も含めて上手に子育てしている母親が、近所の子供の勉強も一緒に見てあげるという形の方が、より大きな信頼を得られると思います。
これが、教育の専業化から副業化への流れです。この教育における副業化と同じものが、地方自治体の議員のような政治の分野にも起こってくると思います。また、ジャーナリズムやアカデミズムの分野にも、次第に副業化の波は押し寄せてくると思います。
顔の見えないグローバリズムの資本主義社会の中で専業として成り立っていた多くの分野が、顔の見える自給自足経済の中では次々に副業化していきます。
このような社会では、かつてマルクスが人間社会の理想として描いたような、朝は教師で、昼は議員で、夕方はジャーナリストで、夜は学者であるというような生活が、多くの人にとって一般的なものになってきます。
しかし、グローバルな分野で機械化、省力化が進み、ローカルな分野で副業化が進むときに、その副業化を促す分野は逆に専業化していきます。
例えば、だれもが副業的に教育や政治やさまざまな仕事に携われるようになる時代には、その携わり方のノウハウを教えるような分野が専業化します。
言葉の森も、子供たちに作文を教えるという今の教室の形態から、将来は、作文の教え方を教えるというような方向に進んでいくようになると思います。
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受験勉強は、夏休みで決まると言っても言い過ぎではありません。なぜかというと、夏休みは朝から晩まで勉強ができるからです。この長時間収集して何日間も継続して勉強できるという環境が、成績を急上昇させる力になります。
と言っても、人間の集中できる時間は限られていますから、中学3年生でしたら、1日7時間(朝3時間、午後3時間、夜1時間)の勉強ができれば十分です。しかし、1日7時間を40日間続けるというのは、中学3年生ではかなり大変だと思います。
夏休みは、塾の夏期講習に行く人も多いと思いますが、塾や予備校での勉強の弱点は、志望校の傾向にも関係なく、自分のわかっていることわからないことにも関係なく、みんなが同じように授業を聴かなければならないことです。つまり、勉強の無駄が多いということです。塾で授業を聴いている時間は、自分で勉強している時間の半分か3分の2ぐらいの密度だと考えておくとよいと思います。
ですから、塾に通う時間とは別に、自分なりに勉強する時間も確保しておくことが大事です。ただし、小学6年生は、まだ自分で勉強の計画は立てられませんから、親がリードするのでない限り塾に通って塾中心の勉強になるのはやむをえないと思います。
大学受験生は、志望する大学と学部によって勉強の仕方がかなり違ってきますから、自分流の勉強の仕方をすることが最も大事になります。日本の大学入試はガラパゴス化しているため、塾や予備校によって至れり尽くせりメニューが用意されています。そういうメニューに乗って勉強して首尾よく合格してしまうと、かえって自分で試行錯誤して勉強するという力が育ちません。できるだけ自分なりの工夫をして勉強をしていく必要があります。
高校入試は受験勉強の傾向が似ているため、中学3年生の塾での勉強は比較的能率よくできますが、この場合でも、自分の得手不得手に対応した自分なりの勉強時間を確保しておくことが大事です。
中学3年生の自分なりの勉強は、次のようになります。
英語は、中1から中3までの教科書を1ページにつき30回ぐらい音読して暗唱と暗写ができるようにしておくことです。また、前年度の英語の全国入試問題集を1冊買って、英語の長文を読むスピードに慣れておくことです。
数学は、自分にとってはやや難しいぐらいの1冊の問題集を、100%1問も残らずできるようにしておくことです。特に大きく差がつくのは、中3の終わりごろに学習する図形の問題です。図形の問題は、できるできないの差がはっきりしています。図形問題を解くセンスは、できなかった問題を100%できるようになるまで何度も繰り返し解くことで身につきます。決して才能の問題ではなく、単純な反復ができるかどうかの問題です。
国語は、問題集読書で力をつけるとととに、志望校の過去問を答えを書き込みながら解いて難易度をつかんでおきます。この難易度を把握しているといないとでは、点数がかなり変わってきます。
理科や社会は、志望校の過去問を答えを書き込みながら解いてみて傾向をつかみます。そのあと、同じように参考書や問題集も答えを書き込みながら何度もくりかえし読むことが勉強の中心になります。大事なことは、じっくり解いたりじっくり書いたりすることではなく、何度も繰り返し読むということです。
以上のやり方は、基本的には小6の人にも高3の人にもあてはまります。
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公立中高一貫校の志望校別の受験コースは、受験の5ヶ月前から始まります。2月の試験の場合は、9月ごろからスタートできます。
公立中高一貫校を志望する場合、夏休み中は、志望校の過去問や、言葉の森の毎週の長文や、日々のニュースなどをもとに、家族の対話に力を入れていくとよいと思います。ただし、子供の話を聞くというよりも、親が自分の体験や意見をどんどん話してあげて、子供の考える材料を増やしていくというのが勉強の中心になります。
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小6かりくの母です。
いつも娘がお世話になっています。
最近学校で行われた、授業参観での娘の授業態度で気になったのですが、一見聞いているようで、実は授業を集中して聞いていない気がしました。
いくら家で親がうるさく言って勉強させても、うっかりミスがなくならなかったり、テストで見落としが多く、いまひとつ良い点がとれない理由は、ここにあるのではとおもいます。
それに今後このことでとても困るのではないかと不安に思っています。
親がいくら言っても本人の自覚がなければ治らないと思います。
そこでお願いなのですが、毎日の暗唱分を、
「いかに学校で授業中、先生の目を姿勢よくきちんと見て、話を集中して聞くことが大切なのか」
を徹底的に説いた文章をうちの子に出して頂けないでしょうか?子どもが自覚を促す文章です。
勝手なお願いなのですが一度ご検討いただけませんか?
それは、たぶんそのときの授業があまり面白くなかったからだと思います。
また、うっかりミスや見落としがあるというのは、愛嬌です。
小学校6年生のころから、そんなにしっかりやっていては、あとが続きません。
本当の勉強は、本人が勉強を自覚したときから始まりますから、それまではきれいな花を咲かせようとするよりも、大きく根を張る時期と考えておくとよいと思います。
大きく根を張るためには、お母さんのおおらかな接し方が必要です。
今度、うっかりミスがあったときは、そのミスを叱らずに、「人間には少しぐらい失敗があった方が魅力的なんだから、このぐらいはかえっていいのよ」と励ましてあげるといいと思います。
あまり、答えになっていませんが。(^^ゞ
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現代の教育の前提に、個人の努力によって個人の利益を手に入れるという考え方があります。
勉強をして、いい成績を取り、いい学校に入り、いい報酬を手に入れることが、教育の成果だと考えられています。そのために、競争に勝つという発想が生まれます。
その根底にあるのは、個人の利益が全体の利益につながるという前提に基づいた個人主義的な考え方です。
日本で初めて個人主義の教育を説いた福沢諭吉の立身出世主義は、当時の社会風潮に対する建設的なアンチテーゼ(反論)でした。つまり、当時の、国内だけに埋没し自己の修養のためのカビの生えた四書五経を学ぶ旧態依然の教育に対して、開明的な個人主義に基づいて西洋の学問を吸収する自立した個人を目指す教育を提案したのです。
しかし、現在、この福沢諭吉の理想は矮小化された形で受け継がれ、小中学生における競争による教育を肯定する風潮を生み出しています。
競争が必要なのは、学校や教員であって生徒ではありません。
呉善花(オ・ソンファ)さんは「私を劇的に変えた日本の美風」(李白社)という著書の中で、日本の文化における、「ありがとう」という言葉の多さ、「おかげさまで」という発想、一生を修行と考えるアマチュアリズムなどの特徴を挙げています。
日本人は、修行というものを、だれでも手順を踏んで学べばそれなりの境地に達することができ、進歩は一生続くものであり、時に個人の才能による成果があったとしてもそれは「おかげさま」であり、社会に還元されるべきものだと考えていました。
一方、これまでの教育は、個人が特殊なノウハウを手に入れて、他人との競争に勝ち、個人の努力に応じた利益を手に入れるという個人主義的な文化を背景にして成り立っていました。
これからの教育は、だれでも同じように進歩できる方法で、だれもが同じように向上し、個人の才能によって得た利益は、相互に社会に還元し合うという発想で行われていくようになると思います。
このような人間観、社会観に基づいた教育は、個人主義に対する集団主義の教育と考えられるかもしれません。しかし、これを、集団への埋没というマイナス面を持った集団主義ではなく、新しい集団主義、敢えて名前をつければ貢献主義の教育と考えていくべきです。
それは、個人の個性を尊重し、個人が才能を発揮することを促しはするが、その個性的な才能から生まれた利益は個人が所有するのではなく、社会の他の人々と分かち合うという考えです。
優秀な子がいた場合、これまで大人はその子に対して、その優秀さを生かしていい地位につき、自分だけ得をしろというような言い方をしてきました。これからは、そうではなく、その優秀さを生かして社会に恩返ししろというアドバイスをしていくようになると思います。
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