「中学生の自宅学習法」を書いた内藤勝之氏は、少し変わった勉強経歴の持ち主です。普段は自分の好きなことをして遊んでいて成績も平凡なのに、受験の直前になって猛勉強をすると急に成績が上昇し、難関校に合格するという経験を繰り返してきました。
このような例は、実は、ときどき目にします。受験向けの勉強をする前は、成績も普通なのに、いったん受験に向けた勉強を始めると、どんどん成績が上がるという人がいます。
このコツのひとつは、勉強の仕方です。成績の上がる勉強法に共通しているのは、1冊の(薄いものであることが多い)参考書や問題集を何度も繰り返して、百パーセント自分のものにするという方法です。
しかし、それとともに、もうひとつ見落とされがちなのは、実はその子が、成績は普通だったが頭がよかったのではないかということです。
成績というのは、人工的なものですから、その人工的な枠組みに合わせないと成績は上がりません。逆に、人工的な枠組みに合わせて取り組めば、表面上はすぐに成績が上がるようになっています。
例えば、国語の問題で、作者名と作品名を結びつけるような問題があります。その作品を実際に読んでいて自然に作者名を知っているという子よりも、作品の内容など知らずに機械的に覚えている子の方が成績はよいのです。
ところが、そういう成績をよくする勉強は、決して頭をよくしているわけではありません。むしろ、成績をよくするための勉強を早くからしすぎると、かえって頭を悪くすることがあります。
受験生で、夏休み以降に急に成績の上がる子がいるのは、以上のような事情があるからです。
江戸時代の日本人の勉強法は、模範となる文章を素読やなぞり書きで反復して身につけるというやり方でした。そして、子供たちは、勉強以外の多くの時間をのびのびと明るく自由に遊んで過ごしていました。
これと正反対なのが、賞や罰や競争で刺激をしながら、理解の度合いや記憶の定着の結果を評価するヨーロッパ的な勉強の仕方でした。
西洋の学問を仮に成績と考えると、江戸時代の終わりごろ、成績的には0点だった日本人が、いったん成績向けの勉強を始めると、またたく間に欧米の成績に追いつき、やがて追い越すまでになったのは、当時の日本人が、成績は悪かったが頭がよかったからです。
この頭のよさを育ててきたものが、少数の精選された教材を反復する勉強法と、明るく楽しく自由な日常生活でした。
更に、日本には、日本語という特色のある言語をあったことも見落とせません。(つづく)
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前回、無理のきく作文の勉強法として構成図の例を挙げました。無理のきくもうひとつの勉強法が、暗唱用紙を使った暗唱の勉強です。
子供が何かを勉強していてい理解できないときに、叱って理解させることはできません。何度も説明して、何度もテストでチェックして理解を確かめるというのが普通の勉強法です。これが、現在の教育の主流になっています。
この方法は、教える先生の負担が大きいこと、教わる側も教わっている最中の苦痛が大きいこと、教わっている時間に無駄の多いこと、などが欠点です。
この方法は、実はヨーロッパ的な教え方と言ってもいいものです。近世のヨーロッパでは、先生がムチを持って子供たちを教えるというやり方が一般的でした。この教育の対象は、一部の裕福な子供たちに限られ、しかも能率が悪く、社会全体の識字率は低いままでした。
一方、近世の日本で行われていた勉強は、読む勉強、なぞる勉強が中心でした。この方法では、先生は子供たちを遠くから見守るだけで、豊かな子も貧しい子もだれでも参加することができ、それぞれ自分のペースで能率よく勉強をこなしていました。
言葉の森で現在、子供たちの自習の課題として行っているのは、この読む勉強、なぞる勉強のひとつである暗唱という勉強です。
理解する勉強で無理をするためには、先生がひとりの生徒につきっきりで教えなければなりません。暗唱の勉強では、最初のうちはつきっきりになることがあっても、途中からすぐに子供が自主的に勉強を進めていくようになります。
暗唱の勉強で、子供たちが自主的に進めていくきっかけになるものとして暗唱用紙があります。
暗唱用紙では、例えばある文章を1回読んだら紙を1回折ります。繰り返しの勉強というのは退屈ですから、何の目当てもないままに繰り返すだけならば2、3回ですぐに嫌になるのが普通です。ところが、暗唱用紙を使うと用紙を折るという作業が入るので、繰り返しが目に見える形で残ります。その結果、暗唱が抵抗なくできるようになるのです。
暗唱用紙で音読を繰り返していると、だれでも例外なく長い文章の暗唱ができるようになります。そのため、暗唱用紙を使うことによって、無理にでも勉強をさせることができます。
勉強でもスポーツでも、無理にさせること自体がいけないのではありません。無理にさせてもできるようにならなかったという、「できなかった」という結果がいけないのです。ですから、無理矢理やらせたことであっても、その無理のあとすぐに成果が出れば、子供たちには「できた」という満足感が残ります。
理解させる勉強では、無理にやらせても成果が出るまでに時間がかかります。そのために、結局「できなかった」ということになり、かえってやる気をなくすことも多いのです。しかし、暗唱の勉強はそうではありません。すぐに「できた」という結果が表れます。
理解させる勉強では、同じように教えてもできる子とできない子がいるので、理解度に差があることは当然とされます。そして、その理解度の差を点数の差として競争させることによって意欲を持たせようとします。しかし、理解させるという教え方は手間がかかるので、理解のための努力が本人任せになる結果、点数の差は、競争による意欲づけにも関わらず次第に固定化していきます。
これが、現在の世界のほとんどの国が直面している、教育の高コストと低効果という非能率の原因になっています。
教育予算や学校設備や教員の多い少ないに関わらず、世界中の子供たちが教育の恩恵に浴することができるためには、日本の歴史が効果を証明した「読む勉強、なぞる勉強」を現代に復活させていく必要があります。
それは、競争という手段をとらずに子供たちに無理をさせることができ、またどの子にも達成感をもたらすことのできる勉強なのです。
▽参考「暗唱用紙を使った暗唱法」
https://www.mori7.net/mori/mori/annsyou.php
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記事トップに掲載されている写真は、どれも素敵です。
今回の写真は「姿見の池からの旭岳」ですね?
すがすがしい空気が伝わってきそうです。
記事の内容ももちろんですが、写真も楽しく拝見しています。
うっとりさん、ありがとうございます。
大雪山は、まだ行ったことがありません。
自然が好きなので、できるだけ自然の写真を使うようにしているのです。
毎日が、教室と自宅の往復という人工的な日々なのでなおさら。(^^ゞ
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作文というのは、無理のきかない勉強でした。
昔、ある生徒が教室に来たとき、送ってもらう車の中で、お母さんに何か叱られたらしく、半分泣き顔で入ってきたことがありました。そのときに書く課題の題名が、「楽しかったこと」のようなものだったということがありました。悲しい気持ちでいるときに、「楽しかったこと」という題名の作文は書けません。これが、作文の勉強が、英語や数学などほかの勉強と違うところです。
作文の勉強は、感情を伴うものなので、書けないときに叱って書かせるようなことはできないものでした。
ところが、子供によっては、準備不足で書くことを決めてきてこなかったり、そのときの課題が書きにくいテーマだったり、たまたま気分的にやる気の出ないときだったりするという状態で教室に来ることがあります。
そういうときに、その子供が甘えて、「今日は書けない」などと言うと、いくら先生や親が、「こういうこともあるでしょう」「ああいうこともあるでしょう」と水を向けても、なかなか書き出すことができません。
このように、小学校低中学年の子が作文を書けないとき、家庭でうまく対応する方法があります。
その方法のひとつは、親が続きの文を言ってあげることです。親の言ったとおりに何行か書いていくと、子供はそのあと自然に自分で続きを書けるようになります。
もうひとつは、構成図を使うという方法です。子供を横にすわらせて、お父さんやお母さんが子供と話をしながら、構成図の枠を埋めていきます。子供がやる気のないときでも、半分尋問のように(笑)、叱りながらでもいいので話を聞いてどんどん枠を埋めていきます。
質問しても話があまり出ないときは、似た話に広げていきます。例えば、「おふろ」という作文の課題で、お風呂の話題が尽きたときは、お風呂でもぐったこととか、石鹸(せっけん)が目に入って痛かったこととか、小さいとき親と一緒にお風呂に入ったときのこととか、お風呂の掃除をしたこととか、旅行に行って温泉に入ったこととか、話の幅を広げて聞いていきます。
構成用紙の枠が全部埋まったところで、「これで作文を書いてごらん」というと、ほとんどの子は喜んで書き出します。
構成図は、よく書ける子の場合は作文のシミュレーションとして、あまり書けない子の場合は作文の呼び水として使っていくことができます。
構成図を使うと、作文はかなりの程度まで無理のきく勉強になります。
●構成図の書き方(
https://www.mori7.net/mori/mori/kouseizu.html )
ところで、小学校高学年、中学生、高校生の生徒が、作文の続きをなかなか書けないときの対応は、少し異なります。これは、心理的に書けないというよりも、内容が理解できなくて書けないということだからです。
言葉の森の生徒が家庭で作文の勉強をしているとき、作文を書けない状態が10分以上続いたら、迷わずに教室に電話で相談してください。追加の説明をすれば、ほとんどの子が書けるようになります。
担当の先生は、一般に、子供が普通に理解できていることを前提にして説明します。しかし、その説明で書けなかった場合、教室に電話をしてくれれば、教室では、その子がよく理解できなかったことを前提にして易しく説明し直します。それで、ほとんどの子は書けるようになるのです。
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本日7月3日20時8分ごろ、体験学習のファクスを送っていただきましたが、ファクスの画面が黒くて中の文字がほとんど読めませんでした。^^;
かろうじて電話番号だけが「……360-80……」のように見えます。
再度、お電話でご連絡くださるか、体験学習のページよりお申込くださるようお願いいたします。
▽体験学習のページ
https://www.mori7.net/mori/taikenn.php
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「脳と音読」(川島隆太+安達達夫著)を読みました。ちょうど今、暗唱と学力の関係を研究しているところなので参考になりました。
川島氏の調査によると、音読は脳を活性化する効果があるということです。小学生を対象に、音読を2分間させたあとに、記憶力や空間認知力のテストをしたところ、音読をしないときに比べて20-30%も学力の向上があったそうです。
本を読む場合、能率よく内容を吸収するという点では黙読ですが、頭脳を鍛えるという点では音読の方が効果があるようです。
ところが、何度か音読を繰り返しているうちに、その文章を覚えてしまい、歌を歌うような感じで音読を続けるようになると、今度は逆に脳はリラックス状態になります。
これは、私も簡単な脳波計で実験したことがありますが、単純な言葉を音読で繰り返していると、脳波に急にΘ波が増えてきます。それだけ、脳が休んだ状態になるということなのでしょう。
このように、音読は、最初のうち脳を活性化させますが、同じ文を覚えるぐらいまで読み続けると今度は脳をリラックスさせるようになります。
しかし、この音読よりも活性化とリラックスの度合いの激しいものが暗唱です。
暗唱をしていると、途中から急に眠くなってきます。50字程度の文章の暗唱では短期記憶がそのまま使えるので眠くなるようなことはありませんが、300字や900字の暗唱になると、脳がフルに活性化されるので、くたびれて眠くなるのだと思います。
ところが、この300字と900字の暗唱がだんだんスムーズにできるようになり、無意識のうちに暗唱を繰り返せるようになると、脳は今度はリラックス状態になります。
こういうことを考えると、暗唱は、音読よりも更に頭をよくする効果があるのではないかと思います。
言葉の森の暗唱法は、手順さえ踏めば、だれでも例外なくできるようになるものですが、その手順を説明する前に自己流で暗唱をしてもらうと、暗唱ができるようになるまでのスピードの差に、子供たちの現時点での頭のよさの差がはっきり表れているようです。
しかし、暗唱という勉強の長所は、やり方さえわかれば、だれでもできるということです。ということは、頭のよさというものも、生まれつきではなく、やり方によって後天的に育つものだということです。
江戸時代、日本人の識字率は世界最高でした。それも、当時の先進国であるヨーロッパに比べても、比較にもならないダントツの第一位でした。その秘訣は、江戸時代の日本の教育の中心が、文章の音読を中心としたものだったからだと思います。
現代の教育の問題は、問題を解くようなスタイルの、いかにも勉強をしているような形の勉強が多いために、かえって実力がつかないことにあります。
解く勉強と読む勉強を比較すると、解く勉強は点数の差が出やすい面があります。そこで、多くの子が勉強を嫌いになります。できなかったところが×になるという形の勉強は、ほとんどの子にとって面白いわけがないからです。
勉強が面白くなくなる結果、無理に意欲をつけさせるために、今度はテストで競争を煽ることになります。解く勉強、勉強嫌い、テストによる競争は、ひとまとまりのものなのです。
江戸時代の寺子屋が、競争もテストもない中で、なぜあれほどのびのびと子供たちが集まり、しかも日本人の学力を世界最高のものにしたかというと、そこで行われていた勉強が、解く勉強ではなく読む勉強だったからです。
言葉の森では、今、暗唱や問題集読書に力を入れていますが、この暗唱や読書の効果は、今後もっと研究を進めていくべき分野になると思います。
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夏休み中の1ヶ月以上の休会については、次のように扱っています。
1、在籍したままの休会
・受講料の引き落としはあります。
・山のたよりや言葉の森新聞は毎週送られます。
・7月、9月など別の月に振替で授業を受けられます。(事情によっては学期をまたいだ10月以降の振替もできます)
・9.1週の進級試験に合格すれば進級できます(ただし各月の課題を最低1回は提出していることが条件になります)
2、在籍をしない休会
・受講料の引き落としはありません。
・山のたよりや言葉の森新聞は送られません。
・休会中の授業の振替はありません。
・1ヶ月に1回も提出しない月が出るので、次の10-12月の学期はいったん級が下がったところから開始します。
(ただし、10-12月の学期に進級すれば、次の1-3月の学期は通常の進度に戻ります)
夏休みは、電話先の臨時変更や、休んだ授業の振替などが随時できるので、できるだけ工夫して授業を継続していかれることをおすすめします。
子供にとっても、忙しい中にも関わらず何とか続けたということが、その後の勉強の意欲につながるからです。
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言葉の森の受験コースは、志望校の過去問に合わせた課題を中心に、受験日の5ヶ月前から始めることができます。
過去問に沿った練習を何回か行ったあと、どのような課題にも対応できるように幅広くいろいろな課題で書く練習をしていきます。
受験コースに入る前の普通の課題でも、小学校5年生以上の感想文課題は、受験コースと同じスタイルの学習になっています。ですから、普段の課題ができていれば、そのまま受験コースの課題の実力もついているということになります。
最近の課題の傾向として、題名課題から文章課題へ、文章課題から複数文章課題へという流れがあります。題名課題の場合は、ある程度の準備ができますが、複数文章課題になると、事前の準備というものはなかなかできません。課題が難しくなると、やはりその子の実力が物を言います。
実力をつけるためには、練習を重ねるしかありません。言葉の森の指導法は、正攻法で、たくさん書く中で、いい実例、いい表現、いい意見を増やしていくという方法です。
作文は、書き方のコツのような本をいくら読んでも力がつきません。実際に書くのがいちばんで、自分の書いたものだけが、試験の本番でも役に立ちます。
いい材料を増やしていくには、家族の対話が大事です。お父さんやお母さんの体験を聞いていると、そこから自分の体験も引き出されてきます。
言葉の森では、生徒が課題を読んだあと、先生が事前に書き方を説明します。生徒が自分ですべて考えて書く必要はありません。先生の説明を聞いて、その説明に沿って書ける子は実力があります。
試験の本番では、ほとんどの子が字数いっぱいまで、それまでの練習のいちばんいいところを出すような形で書いてきます。
ただし、一般の教科の試験と違って、作文の試験の場合は、課題による出来不出来がかなりあるのも事実です。そのときに、これまでの蓄積が物を言います。
言葉の森を何年も続けてきた子は、難しい課題が出ても、「これまで長年書いてきたのだから、自分に書けないはずがない」という気持ちを持てるので、実力を発揮できるのだと思います。
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「未来予測コルマンインデックスで見えた 日本と経済はこうなる」(高島康司著)を見ると、今後、資本主義経済に代わるものとして、自給自足経済が登場するということが書かれています。
これまでは、孤立した個人が、個人の利益のために競争し、それが全体の調和につながるという考えが社会を形作ってきました。この考え方の裏づけとなったものが、生存競争による食物連鎖や進化論という考え方です。
世界が発展する時期には、そのような競争による淘汰が社会の主要な面を代表していました。しかし、社会の発展が一段落し安定してくると、今西錦司の説くような棲み分けという仕組みが、社会の主要な面を代表するようになります。今は、その過渡期なのだと思います。
社会を人間の意志でコントロールしようとする社会主義経済は、資本主義の発展速度に追いつけなかったために破綻しました。
しかし、今逆に、新しい形の計画経済が可能になりつつあります。それは、例えば、商品の売買を現金ではなくカードですべて決済するようなやり方にすれば、物やお金のやりとりが、データの流れとして把握されるようになります。
そのような大きな計画経済が生まれつつある一方で、物々交換のような売買に基づいたローカルな自給自足経済もまた動き出してきているように思えます
これまでの売り手は、自分が利益を上げて得をするために物を売っていました。今後は、相手に喜んでもらうために物を売るという面が強く出てきます。いわば、学園祭における模擬店のようなものが、商品売買の中心となります。
このような社会では、物を売る喜びは、働くことへの喜びに基づいています。利益を上げる動機だけではなく、相手の喜ぶ顔を見たいということが物を売る動機となります。また、物を買う側についても、自分が得をするために買うだけではなく、相手を喜ばせるために買うという一種のコミュニケーションン的な購入が中心になってきます。
この自給自足経済の中では、教育の形も変化します。今までの教育は、生徒と保護者という買い手に対して、学校と先生という売り手が対応するという形でした。
確かに、高校や大学のような高等教育の分野は、教育内容に精通した専業の教師が必要でしょう。しかし、小中学校の教育の大部分は、教科の教育よりも人間教育と考えられます。とすれば、勉強の教え方が上手な先生というよりも、自分の子供をしつけの面や情緒の面も含めて上手に子育てしている母親が、近所の子供の勉強も一緒に見てあげるという形の方が、より大きな信頼を得られると思います。
これが、教育の専業化から副業化への流れです。この教育における副業化と同じものが、地方自治体の議員のような政治の分野にも起こってくると思います。また、ジャーナリズムやアカデミズムの分野にも、次第に副業化の波は押し寄せてくると思います。
顔の見えないグローバリズムの資本主義社会の中で専業として成り立っていた多くの分野が、顔の見える自給自足経済の中では次々に副業化していきます。
このような社会では、かつてマルクスが人間社会の理想として描いたような、朝は教師で、昼は議員で、夕方はジャーナリストで、夜は学者であるというような生活が、多くの人にとって一般的なものになってきます。
しかし、グローバルな分野で機械化、省力化が進み、ローカルな分野で副業化が進むときに、その副業化を促す分野は逆に専業化していきます。
例えば、だれもが副業的に教育や政治やさまざまな仕事に携われるようになる時代には、その携わり方のノウハウを教えるような分野が専業化します。
言葉の森も、子供たちに作文を教えるという今の教室の形態から、将来は、作文の教え方を教えるというような方向に進んでいくようになると思います。
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