体験学習のお母さんから、「もっと厳しく注意してほしい」という要望をときどき受けます。しかし、それは、無条件にお断りしています(笑)。
厳しく注意すればよくなるという発想に、実はもっと大きな問題があるのです。
注意したり直したりして作文がうまくなるのであれば、すぐにみんな作文が上手になっています。しかし、作文指導に熱心な先生に教わると、注意したり直したりする指導が増える結果、作文が嫌いになる子が多くなるのです。
作文を書くときに、「間違った書き方をして叱られたい」と思いながら書く子はいません。みなそれぞれ一生懸命に書いています。
提出するときも、「さあ、今日は何を注意されるかなあ」と期待しながら出す子はいません。やはり、いいところを見て褒められたいと思いながら作文を出すのです。
だから、基本は褒めることです。注意したり叱ったりするのは、意識的にさぼっているときだけです。
では、欠点はどうしたら直るのでしょうか。
第一は、読む力をつけることです。読む力が十分につけば、欠点は一言の注意で直ります。
第二に、そのために、長続きすることを優先し、楽しく勉強することです。
したがって、家庭でお母さんがすることは、間違いを注意することではなく、いつもよいところを見て褒めて、そのかわり、毎日の読む勉強としての暗唱や読書は妥協せずに続けることです。
この逆の人、つまり、毎日の暗唱や読書の自習はせずに、作文の欠点だけを直すというやり方をする人が多いのです。
子供が小学校低学年のときは、だれでも親の言うことを素直に聞きます。その時期に、親が勉強をやらせすぎると、大きくなって子供は親の言うことを聞かなくなります。
子供が素直に言うことを聞く年齢であればあるほど、勉強に関しては甘く、しつけに関してだけ厳しくという姿勢が大事です。(ただし、その場合のしつけも、最小限のものです。例えば、あいさつをする、返事は「はい」と言う、くつをそろえる、イスをしまう、食事中はテレビを見ない、何でも正直に言う、などそれぞれの家庭でルールとして決めたことだけです)
このやり方で子育てをすれば、親はいつもにこにこしていられるし、子供はいつも楽しく生活ができるのです。
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この3月に、小学5年生以上の希望する生徒に問題集読書の見本を送り、問題集読書の体験をしていただきました。
今回は、問題集を各自で用意していただく形で、本格的に問題集読書をスタートします。現在、約50名の人が問題集読書の自習に登録しています。「手引」と「分冊の表紙」は、8月1週までに登録した人にお送りする予定です。
▽問題集読書の登録ページ(問題集読書の自習オプションは無料。問題集は各自でご用意ください)
https://www.mori7.com/mori/mdds.php
問題集は、言葉の森でまとめて注文したためか、アマゾン書店で品切れが続いていますが、楽天ブックスでは在庫があるようです。
(2010年7月28日9:48現在)
▽楽天ブックスの「中学入学試験問題集」
http://tinyurl.com/27mg3kc
問題集読書は、小学生は毎日6ページ、中学生高校生は毎日4ページ、問題集の問題文を読書代わりに読んでいくという勉強です。読みながら、印象に残ったところに傍線を引いていきます。そして、傍線を引いた箇所をもとに四行詩を書いて先生に提出します。
四行詩は、文章の一部の抜き書きでも、自分の感想のようなものでも、どちらでもかまいません。抜き書きならば簡単にできますが、簡単なわりに、ほとんどの子はいい四行詩を書いてきます。ここで書いた、ちょっと背伸びをした表現が、やがて自分で書く作文にも生かされていくようになると思います。
言葉の森の生徒が、中学生や高校生になるまで勉強して、大学生や社会人になったときに、言葉の森で勉強していた成果を実感することがあります。
一つは、文章を書く際に抵抗がなく、レポートなどが楽に書けるということです。
もう一つは、言葉の森で感想文を書くために読んだ多くの長文を覚えていて、それが何かの折にときどき出てくるということです。テレビや漫画の軽い文化が多い中で、真面目で硬い、しかしセンスのよい文章を読んだことが大きな蓄積になっているのです。
問題集読書は、この優れた文章を読む機会を更に拡大させるものになると思います。
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日本の経済が持ち直してきたと言われます。もともとリーマンショックによって世界経済が落ち込んだのは、それまで旺盛だったアメリカの需要が急速に収縮したからです。しかし、その後アメリカに代わるものとして中国の市場が成長しました。日本の景気回復も、中国の市場に依存したものです。
しかし、その内実は、日本ではもはやあまり売れなくなったものを中国の市場に供給したり、日本ではもはやあまり人が集まらなくなった観光地に中国人の観光客を呼び入れたりしているようなものではないでしょうか。
中国の13億という人口に目を奪われて、「そこに市場があるから売る」という対応をしていれば、その市場はやがて中国自身の生産によってカバーされるようになるでしょう。したがって、中国市場による景気の一時的な回復は、長期的には日本経済のより大きな後退を引き起こすと思われます。
日本は、中国という市場に頼るのではなく、日本の内部でより高度な市場を創造していく必要があります。
世界のインフラ整備に需要を見出すという考えももちろんありますが、その需要は、期間は長いもののやはり一時的な需要です。日本経済の本質的な発展のためには、永続的な需要を作り出す必要があります。
医療、介護、福祉など後ろ向きの産業に需要を見出すことは、経済の発展に結びつきません。少子高齢化社会の先進国という特徴は、経済的なものではなく主に文化的なものにとどまるでしょう。
新しい高度な市場とは、外需としては研究開発産業、内需としては教育文化産業になると思います。
研究と教育の分野に新産業を創造するためには、意識的な呼び水が必要です。その呼び水とは、投資を先行させてバブルを作り出すことです。
オランダのチューリップバブルは、植物の生産という希少性の維持しにくい分野で起こったために数年間で破綻しました。その後のイギリスの南海泡沫事件、フランスのミシシッピー計画のバブルは、いずれも約束された果実が手に入らないことが明らかになって破綻しました。
日本の土地バブルやアメリカの住宅バブルは、実物の資産である土地や住宅に裏付けられていましたが、その土地や住宅がそれ自体新たな果実を生み出すものでないことがわかることによって破綻しました。
アメリカのITバブルは、マネーゲームで巨大化して破綻しましたが、それは単なるバブル崩壊ではなくIT産業における生産性の向上という果実をアメリカと世界にもたらしました。
今の日本に求められているものは、教育、研究、文化、芸術の分野で、将来大きな果実をもたらす可能性のあるものに向かって、政策的なバブルを作り出していくことです。世界経済の収縮に対抗するためには、途上国の発展に期待するのではなく、先進国が創造的なバブルを作り出し、新「米百俵」政策を打ち出していくことだと思います。
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作文でも感想文でも、なかなか書き出せないとか、長く書けないとかいう場合の原因は、材料不足にあります。
その証拠に、楽しい出来事があったときは、ほとんどの子供は長い作文を書いてきます。
逆に、楽しい出来事でも、長く書けないのは、「明日の○○が楽しみ」という未来のことを書く作文です。これは、出来事がまだ始まっていないので、書きたい気持ちは十分にあっても、書くための材料がないからです。こういう未来のことを作文に書く場合は、去年の似た話などを思い出して書くというのがコツです。
さて、作文が長く書けないときは、構成図を使って書くと、長く書けるようになります(言葉の森では、小3から構成図を使って書く練習をしています)。しかし、作文が長く書けない子は、構成図もなかなか書けないという面があります。
では、構成図をうまく書くためにはどうしたらいいのでしょうか。
実は、構成図という名前にやや問題があって、子供は、作文と同じようによく考えて書かないといけないという気持ちを持ちがちです。しかし、そうではなく、構成図は脱線してもいいので、思いついたことを次々と書いていくことが大事です。
短文と短文の間は矢印で結んでいきますが、その矢印は、作文に書く順序ではなく、自分が思いついた順序があとでわかるようにするための矢印です。
構成図は、ブレイン・ストーミングのような雰囲気で気軽に自由に書いていくものなのです。
ときどき、構成図がなかなか埋まらない子がいます。「先生、ここまでしか書けない」と、途中で投げ出します。そういう子は、大抵の場合、「作文用紙に直接書いた方が簡単だ」と言います。
言葉の森の構成図は、作文の設計図のようによく考えて書くものではなく、材料になりそうなものをとりあえず全部自由に並べてみるというものです。
構成図が埋まらない子は、先生の横に座らせて、子供と話をしながら、先生が枠をどんどん埋めていくようにします。気軽に書くのが大事なので、先生が、「それからどうしたの」と聞いたときに、子供が「えーと、忘れちゃった」と言えば、構成図に、「えーと、忘れた」などと入れます。そこで、子供が「ははは」と笑えば、その「ははは」も書いてしまいます。このような感じでやっていくと、楽しくお喋りをしながら、ものの10分もかからずに構成図を全部埋めることができます。
構成図の枠が全部埋まってから、「はい、これで作文を書いてごらん」と言うと、ほとんどの子は普段よりも長い作文を、ずっと早い時間で書き上げてきます。つまり、材料があれば、作文は書けるということなのです。
このように構成図の書き方がわかった子は、次の回からは、自分で構成図を全部埋めてくるようになります。
構成図がすばやく全部埋められるようになったら、「それから」「それで」と時間の順序で埋めていくのではなく、ある場面だけを詳しく書き出していくとか、「前の話」「似た話」「聞いた話」などに話題を変えて書くなど、構成図を立体的に埋めていく指導をすることができるようになります。
構成図の書き方を、大人が子供につきっきりで教える時間は一見長くかかるように見えますが、一回教えれば、その次からはほとんどの子が自分の力でできるようになります。
家庭で勉強していて、作文が長く書けないとか、構成図がなかなか埋まらないとかいう場合は、一度、お父さんやお母さんが一緒に構成図を埋めて、「構成図は気軽に何でも書いていい」という感覚を伝えてあげてくださるといいと思います。
▽構成図の書き方
https://www.mori7.com/mori/mori/kouseizu.html
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長い文章を暗唱をしていると、途中から眠くなります。特に眠くなるのは、だんだん暗唱ができるようになってきたときです。暗唱のし始めや、暗唱がすっかりできるようになったあとは眠くはなりませんが、暗唱がもう少しでできるようになるというころが、いちばん頭脳に負荷がかかるようです。
脳の研究によると、音読は脳を活性化させるそうです。また、すっかり覚えた文章を音読しているときは、逆に脳はリラックスするそうです。ここから考えると、暗唱ができるようになる直前は、脳が、活性化でもリラックスでもない一種独特な状態になるときのようです。
その独特な状態とは、文章が身体化する過程という状態です。50字程度の短い文章は、文節でいうと7文節以内であることが多いので、短期記憶で処理できます。しかし、300字から900字の長い文章は、身体の外部にあるもので、それを内部に取り入れるためには、普通は、文章を部分的に理解していくしか方法がありません。暗唱は、この長い文章を部分的に理解して消化する方法ではなく、長い文章のまま丸ごと自分の内部に取り入れようとする方法です。
言葉は普通、道具として使われているので、言うときは言っておしまい、聞くときは聞いておしまい、という使われ方をします。例えば、犬がいることを相手に伝えようすれば、「犬がいる」といえばそれで済みます。また、相手から、「犬がいる」という言葉を聞いて理解できればそれで言葉の役割は終了します。長い文章の場合も、この小さい単位の部分的な理解を次々と連続させていくだけです。
しかし、暗唱は、このような道具的な使い方ではなく、言い続ける、聞き続けるという行為を反復することですから、この反復を繰り返す中で言葉が道具以外のものに変化します。言い続けることで言葉が身体化し、聞き続けることで言葉が世界化すると言ってもいいでしょう。
視覚や聴覚は、生まれつき身体化しています。これに対して、視覚や聴覚を補う眼鏡や補聴器は道具ですから、必要に応じて簡単に取り外すことができます。言葉は、眼鏡や補聴器ほど簡単につけたり取り外したりすることはできませんが、視覚や聴覚ほど身体化していない道具です。
視覚や聴覚は、身体の一部になっているので情動と直接的に結びついています。しかし、言葉と情動の結びつき方は間接的です。だから、映像や音楽は、だれにとっても同じように感情的な影響を与えますが、言葉は受け取る人の言葉の身体化の度合いによって感情への影響度が異なります。
この言葉を身体化する過程が、暗唱です。言葉が単なる道具ではなく、身体の一部になるにつれて、言葉の感受性や吸収力が増していきます。これは、あらゆる道具に共通する性質で、道具が反復によって身体の一部になると、その道具による表現力が増すだけでなく、その道具の対象となる世界に対する感受力も増してくるからです。
絵筆が体の一部になっている人は、世界を見るときも、その絵筆の表現力に応じて世界をより絵画的に見ることができます。音楽でも詩でもスポーツでも同じです。表現力が高まり、道具が身体化する度合いに応じて、表現の対象に対する感受性が増してきます。
言葉の吸収力が増すと、本を読んだ場合でも、その本の内容がより早く深く自分の内部に消化されるようになります。暗唱は、単独でも効果がありますが、毎日の読書と結びつくことによって更に大きな効果が発揮できるようになるのです。
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6月の清書をもとにした森リン大賞です。
中学3年生以上のみなさんは、いずれもよく考えて書いています。
受験勉強の時期に入って多忙な人も多いと思いますが、これからもよい本を読んで、考える材料を増やしていってください。
6月の森リン大賞(中3の部61人中)
光と影
おむふ
ハレー彗星はいわずとしれた名高い彗星である。古くは紀元前239年に中国で観測されていた。この観測記述をはじめとしてバビロニアの粘土板、日本書紀にもハレー彗星の記録はあり、新約聖書のベツレヘムの星だと説く神学者もいる。この彗星の周期性を見出したのはイギリスのエドモンド・ハレーである。そしてこの彗星は人類史に多大なる影響を与えたものでもあるのだ。先述したように地上のあらゆる文献に記録されている上、世界規模のパニックをもたらしたものでもある。
1910年のことである。この年はハレー彗星が地球に接近していたときであった。そしてこの接近に世界中は慌てふためいたのだ。太古の古文書に「彗星は不吉の前兆」としているものもある。こうしたことが関与して世界各地にあらゆる噂がとびかった。日本ではハレー彗星接近の際、地球上の空気が一時的に失われるという噂が一部でささやかれた。そのため自転車のチューブを大量購入して、チューブ内の空気を吸気として酸素枯渇に備えるもの、全財産を遊びにつぎ込むもの、水を張った桶で息を止める訓練をしたものまでいたそうだ。ローマではローマ法王庁で「贖罪券」を発行したところ希望者が殺到し、入手することができなかったものがあまりの悲しみ故に自殺するという事例もある。こうしたように世界中が大喧騒となったこの年だが彗星による特殊なことはなにひとつ起こらず、安泰にこの年は終焉を遂げた。 天文学が未発達であった時代であるから十二分に起こりうる騒動であったといえるだろう。しかしこの騒動の根源にあるものを考えると捨て置けない問題でもある。
人々は非常にメディアなどの報道に惑わされる。かくいう私もニュースなどを目にしている際、特に頭を働かせることもなく全ての情報を鵜呑みにしている傾向にある。先のハレー彗星の報道の要因とはなにか。多くの人が唱えることとしてメディアのいたずらな報道が要因の一つであるそうだ。ハレー彗星に関する誤った知識はメディアによるものが数多い。そうとも、メディアは我々を惑乱させる元凶でもある。ことに我々は視覚的な情報に対して弱い。ニュースの映像を見てしまうとあたかもそれが事件の全てだと錯覚してしまう。ニュースも結局は断片的な映像しか報道しておらず、編集により視聴者に事件本来の姿とは全く違う印象を与えることもできるのだ。 こうした事実を知ったからにはなんらかの対策を取らねばなるまい。1910年のようなかくも恐ろしい事態をさけるにはどうすべきか。この事態の根源にある誤った情報に溺れないようにするにはどうあるべきか。それを考慮していく。
第一に「自我をしっかりと確立する」ということが挙げられる。 ゲド戦記という小説にこういう一節がある。「川にもてあそばれ、その流れにたゆとう棒切れになりたくなかったら、人は自ら川にならねばならぬ。」この川とは氾濫する情報であり、棒切れとはまさに現在の我々ではなかろうか。そしてこの台詞は我らの行くべき道を示している。そうとも、ただ情報を避けようとしていてはなんら意味はない。周囲を影響するほどの強い自我を確立すればいいのだ。人は何故、情報に惑乱させられるのか。その理由のひとつに自分のしっかりとした考えを持っていないということが挙げられる。どう判断すべきか、どうあるべきか、そういった考えが確立していないとニュースの情報を鵜呑みにしてしまう。こういった映像があるから、これは真実だといった按配で安易に判断する。それではいけない。真に自分が信じるものがあれば情報にも踊らされないだろう。
先のハレー彗星の話に一旦戻る。1910年の時点で彗星の尾には“シアン化合物”が含まれていることが知られていた(これは真実)。特にこの毒物が地球に害をもたらすということをフランスの科学者、カミ―ユ・フラマリンが唱えていた。大衆はこれに惑わされたともいえよう。確かな事実もあり、科学者も説もある。ハレー彗星はまさに吉兆だ。こう大衆は思ってしまったのだ。しかし心に信ずる一つのことを確立する。それを前提とした上で物事に接する。こうしていればこれを全て鵜呑みにせず多少なりとも騒動を軽減できたかもしれない。現に「“私は学問のみ信ずる”」といったある学者はハレー彗星の騒動の中で平然と「不吉の前触れなど迷信だ」と述べてさほどこの騒動の影響は受けなかったそうだ。“自我を精錬して立てる”これぞ真の道だろう。
また、第二に「与えられた情報を否定的に考えてみる」ということがある。「人を見たら泥棒と思え」ならぬ、「情報を仕入れたら虚言と思え」だ。情報をまず崩していこうと考えてゆくのだ。例えればこういった具合だ。自分の前に家があったとしよう。だが肯定的には考えない。疑ってみるのだ。これはハリボテかもしれない、ダンボール製の偽物かもしれぬ、いや小さな虫が集まって家に見えているのかもしれぬ、蜃気楼、もしや私は錯視をしているのでは・・・。こうしてみると情報がかなり広く多面的に見えてくるのだ。自分で情報のあらゆる組成を想像するといいだろう。次第に隠れていた陰の面がちらほらと姿を見せてくる。これもまた情報を対処する一つの方法だろう。
確かにメディアの情報は利便性に満ちている。情報も新鮮であり、分かりやすい。だが、物事とは複雑であり、多面体でもある。メディアも参考として見てはどうだろうか。眼前にある情報の陰になにがあるか。それをまず考える。そうした生き方こそ人間たるものがあるべき姿なのだ。
順位 | 題名 | ペンネーム | 得点 | 字数 | 思考 | 知識 | 表現 | 文体 |
---|
1位 | ●光と影 | おむふ | 87 | 2269 | 66 | 91 | 103 | 77 |
2位 | ●大切なこと | おのそ | 86 | 1560 | 64 | 73 | 72 | 86 |
3位 | ●情報をうまく使うこと | 嵐ちゃん | 80 | 1625 | 48 | 67 | 81 | 87 |
4位 | ●Are you ready to receive the i | arugebak | 78 | 2919 | 56 | 84 | 101 | 86 |
5位 | ●直感と論理 | 音楽大好き少年 | 78 | 908 | 46 | 67 | 72 | 93 |
6位 | ●情報のウラ | ポンピー | 77 | 1126 | 51 | 71 | 92 | 80 |
7位 | ●比喩はいかに大切か | なゆか | 77 | 893 | 53 | 58 | 68 | 87 |
8位 | ●絶滅(清書) | なりし | 76 | 693 | 51 | 66 | 72 | 90 |
9位 | ●真実 | 疾風 | 76 | 776 | 56 | 60 | 62 | 97 |
10位 | ●三分の一の授業 | トウモロコシ | 76 | 2876 | 38 | 48 | 49 | 83 |
★1位、2位の作品とも、要約の部分が多かったので、代表作品としては表示しませんでした。次回から、清書の場合、要約は省略するか、自分なりの説明に書き換えておいてください。
6月の森リン大賞(高1高2高3社の部143人中)
順位 | 題名 | ペンネーム | 得点 | 字数 | 思考 | 知識 | 表現 | 文体 |
---|
1位 | ●姿勢と品格 | いさせ | 88 | 1733 | 64 | 85 | 92 | 86 |
2位 | ●百年と十年 | きへあ | 86 | 1135 | 69 | 64 | 87 | 86 |
3位 | ●身体と心 | さくら | 86 | 1129 | 59 | 76 | 82 | 87 |
4位 | ●文化の吸収 | ゆうちゃり~ | 86 | 1179 | 51 | 70 | 74 | 96 |
5位 | ●自立できない人間 | いすも | 83 | 1233 | 48 | 64 | 75 | 90 |
6位 | ●「知る」ことの重要性 | ちこちこ | 82 | 981 | 54 | 91 | 87 | 92 |
7位 | ●人間の生涯は物事を 清書 | きれあ | 82 | 1101 | 64 | 58 | 65 | 90 |
8位 | ●身体と精神(清書) | PINK | 81 | 1073 | 53 | 84 | 94 | 96 |
9位 | ●現実的な分析 | いへゆ | 81 | 864 | 61 | 67 | 74 | 97 |
10位 | ●余裕とは何か | さきか | 81 | 1040 | 59 | 60 | 68 | 86 |
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6月の清書をもとにした森リン大賞です。
中学生は、作文が苦手になる時期ですが、みんな力作を書いています。代表作として表示されないものにも、優れた作品が数多くあります。
6月の森リン大賞(中1の部97人中)
学習よりも楽習
闇の女帝
人間はこの世に生まれた瞬間から人生が終わるまで学び続ける。物事を学ぶことができるのは、生物として優れた能力をもっているというしるしである。そして、物を学ぶということは、新しい知識を蓄えたり、新しい能力を身につけることである。人間が味わう充足感や感動の大半は物を学ぶことからうまれるのだ。私にとって学習は、かなり苦痛で悪魔のようなものである。しかし、本文では学ぶことは生物の優れた能力の証らしい。私はここを読んで生まれて初めて学習したいと思った。そして、やるなら楽しく学習しようと思い、私は楽しい学習がどのようなものかを考えてみた。
まず、楽しい学習の長所はなんであろうか。楽しく学習するというのは、個々の好奇心と探究心を大事にし、自分で疑問に思ったことや興味を覚えたものを自分の視点で解決することだ。つまり、楽しい学習に正解などないのだ。私たちが一般にいう学習とは、鉛筆を片手に、机に何時間も座り込んで応用問題とにらめっこしている、そんな風景である。しかし、そこで得られるのは何であろうか。多分、忍耐力であろう。誰かの作った問題、ちょっと暗記すれば、ちょっと知識を応用すれば解ける問題を解くよりも、もっといい学習方法があるはずだ。例えば花のつくりを勉強するのにも、プリントで葯、柱頭、花粉管などと覚えるよりも、実際に公園にでかけピンセットで花を分解して、名称を図鑑で調べる方がよっぽど頭に残るのではないか。また、プリントで行う学習は問題を解き終えればそれで終わりだが、実際に見た場合は、「受粉の様子はどうなんだろう」「虫媒花にはどんな特徴があるのだろう」と更に疑問に思うことができ、自分で実際に栽培すればより面白さが増す。つまり、楽しく学習することによって自発的に学習ができるようになるのだ。
また、逆に楽しくない学習はどうであろうか。プリントを延々と解き続ける。全然、頭に残らないはずだ。また強制された学習はどうであろうか。「さあ、やりなさい」と言われ、逆にやる気が落ちるのではないかと思う。でも、楽しい学習、楽習なら、自分で知識を得られるし、自分で調べる力が身に付く。私はこれからも楽習をとりいれていきたいと思う。
しかし、受験戦争が激しい今日では、こうした楽習を見下す人がおおいのではないかと思う。確かに楽習は時間も手間もかかるし、なにより、受験はたくさんの知識を詰め込むためにいかに時間を効率よく使うかが重要になってくる。でも、学校の登下校中や散歩中に、積極的に楽習するべきだと私は思う。
ゴールへの道は一本ではないように、学習は知識の量より質が大事になってくる。そんなとき、学習は必ずしも机に向かってやるのではなく、楽習の方法もありなのではないだろうか。
順位 | 題名 | ペンネーム | 得点 | 字数 | 思考 | 知識 | 表現 | 文体 |
---|
1位 | ●学習よりも楽習 | 闇の女帝 | 87 | 1136 | 74 | 71 | 79 | 89 |
2位 | ●考えイロイロ | ピルル | 85 | 1256 | 52 | 61 | 80 | 93 |
3位 | ●先入観にとらわれず | さおりん | 84 | 1352 | 49 | 63 | 77 | 92 |
4位 | ●自分の考え | あまぐり | 84 | 1174 | 52 | 62 | 73 | 86 |
5位 | ●学習の楽しみ | はるかぜ | 82 | 1083 | 57 | 81 | 95 | 90 |
6位 | ●自然との関係 | リザードン | 82 | 1062 | 52 | 78 | 85 | 92 |
7位 | ●学び続ける私たち | なつみかん | 82 | 1113 | 52 | 59 | 68 | 90 |
8位 | ●自然を守るために | Darren・Shan | 80 | 727 | 43 | 87 | 102 | 95 |
9位 | ●貴重な本のかたまり | カモミール | 80 | 1085 | 47 | 71 | 88 | 92 |
10位 | ●読解問題&清書 | まりあ | 79 | 970 | 43 | 70 | 81 | 80 |
6月の森リン大賞(中2の部71人中)
直感と理論
文鳥
理屈に縛られない直感は素晴らしいと思う。偶然の発見やひらめきから得られる考えの中には偉大な発見が数多くあるからだ。発明だけではない。とある漫画家はこのような漫画を思いついたのは偶然だ、と言っているし、あのハリーポッターの作者であるJK・ローリングも話を書くのは自分ではなく、考えなくても頭に話が浮かんでくる、と言う。なるほど、確かにそうかもしれない。
私はよく小説を書くが、自分が本当に書きたい作品を書いている時は特に考えなくても頭に話が浮かんでくる。そのような小説を書き終えて読み直すと読んでいて面白いし、字が光り輝いているように見える。そんな時、(嗚呼、この小説は良い物が書けたな)と思う。反対に、友達に書いて、と言われて書いた作品は読んでいてあまり楽しくない、というのが本音だ。故に小説を受け付ける時には必ず「テーマを決めないで!」と言うようにしている。少々身勝手なのかもしれないが、小説は自分が好きだから書いているのであって、別に人のために書いているわけではないのだ。話が、逸れた。私が小説のテーマや話が思い浮かぶのは本当に『偶然』である。授業中、犬の散歩の途中、部活の休憩時間、その他諸々。そもそものところ、暇さえあればいつのまにやら鳥のことか小説のことを考えているので必然といえば必然かもしれない。だが、その思考の中に『筋道』という言葉はないし、ましてや『論理的』などという言葉は存在しない。本当に突拍子もないものだ。いきなりUFOが地球に来てなんやかんやで地球人と仲良くなっていたり、スパイが出てきてドンパチしている。今までで一番突拍子もなかったのが電子レンジから未知空間に行く自分でも何故これを書いたのかよく意味が分からない小説だ。5年前ほど前の作品なので、今と比べれば文体もめちゃめちゃだし、描写も下手。未知空間の描写が『とにかく木が鬱蒼と茂っていてなんかよく分からない生物がウジャウジャたむろしていた』だなんて笑える。だが、本当にこんな話が書きたかったんだな、昔の私。と思えるような小説だ。画面に踊る文章は滅茶苦茶でも何故か面白い。多分、論理的にだとか筋道をしっかりと、などと考えていたらこんな作品は書けなかったのではないかな、と思う。自分が書きたいものを何も考えずに直感のままに書く。それが私のスタイルに合っていて、一番良い物が書けるような気がするのだ。
また、論理的な思考も必要とされるのも事実である。学校のテストでも論理的思考という項目があるし、やはり社会では論理的な思考が要求されている場面がある。会議や討論といった自分の意見を述べる場面では自分の感情だけではどうにもならない。それを証明する明確なデータを提示し、説得力のある意見を言わなければならないのだ。それには論理的な意見が必要不可欠とされ、自分だけの感情的な意見よりも説得力があるのは明らかだろう。また、その理論が間違っていても理論的であれば正しいような感じがするのも悲しいことにそうだ。ただ、間違っている、間違っていないは本人の価値観の部分もあるので一概には言えないのかもしれない。ただ、理論的な思考が少なくとも日本の社会で求められているのは確かなのである。また、理論的であれば自分を冷静に保つことが出来る。例えば家事が起きた時だ。感情的になってしまうと
「えええええ?!ちょっ・・火事―――っ!!どうすんのー!!お兄さん困るよ?!」
みたいな感じになるのは必至だろう。だが、理論的であればすぐに
「煙臭い。火事の可能性がある。早く外に出よう」
という冷静な判断が可能であり頭がそれほど混乱状態に陥っていないため、自分の中にも余裕が出来る。すると、周りがよく見えるようになる。どちらかというと良いこと尽くしである。私の父はよく、『ゆっくり落ち着いて』というがこのことなのかもしれない。焦った時は敢えて冷静になってゆっくり考えろということだ。理論的であることは自分にとってメリットが多い。
人間だけでなく、この世界は、生物は偶然や直感といったもので動いており、それを否定することは出来ないだろう。ここまで次はこうなるからこうしようと考えて行動する生物は人類ぐらいかもしれないし、それが良い方にも悪い方にも作用している。理論的に考え、直感で動くというバランスが大切なのだと思う。
順位 | 題名 | ペンネーム | 得点 | 字数 | 思考 | 知識 | 表現 | 文体 |
---|
1位 | ●直感と理論 | 文鳥 | 88 | 1785 | 64 | 72 | 75 | 89 |
2位 | ●フィクションとノンフィクション | たけたけ | 87 | 1416 | 59 | 70 | 73 | 92 |
3位 | ●これからのために | hikari | 86 | 1070 | 63 | 76 | 95 | 92 |
4位 | ●直感から筋道の通った考え | なまず大使 | 86 | 1498 | 63 | 65 | 70 | 89 |
5位 | ●豚の貯金箱 | こゆき | 85 | 1381 | 59 | 65 | 75 | 87 |
6位 | ●創作で彩る事実や真相 | きとみ | 85 | 1136 | 53 | 62 | 75 | 92 |
7位 | ●身近なところから興味がわく | 201系 | 83 | 1413 | 54 | 77 | 92 | 84 |
8位 | ●方法と内容 | チョコ | 83 | 1004 | 58 | 69 | 73 | 93 |
9位 | ●温故知新 | ひよこ | 82 | 975 | 56 | 61 | 75 | 90 |
10位 | ●ノンフィクションとフィクション | ゆうたん | 82 | 992 | 51 | 74 | 72 | 90 |
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△図は日本経済新聞より
7月20日の日本経済新聞に、「子の読書量、親に比例」という厚生労働省の調査が載っていました。
こういう傾向があるだろうことは、これまでだれもが漠然と感じていたと思います。それが3万6千件のデータの裏づけで明らかになったということです。
しかし、これだけでは、この調査の結果を現実に生かすことはできません。「子供に本を読ませるためには、親がまず読め」と言うに等しいからです。
親が読まないのは、そういう読まない状態で生活がこれまで滞りなく運営されていたからであって、その生活をすぐに変えるわけにはいきません。
「年収と成績」の調査についても同様です。年収と成績が比例していると言われて納得しても、それで現実が変わるわけではありません。
ここで大事なのは、調査における例外です。親の年収が低くても成績がいい子がいるように、親の年収が高くても成績の悪い子はいます。同じように、親が本を読むのに、子供が読まないケースと、親が本を読まないのに、子供が本を読むケースという例外があるはずです。この例外の中にこそ、現実を変える鍵があります。
実際、昔の父親や母親(今の親の親の世代)は、忙しくて本を読む時間などあまりありませんでした。しかし、それらの家庭でも、多くの子供は本を読むようになりました。それは、なぜかというと、夕方の食事の時間のあと、ラジオ、雑談、宿題などの時間が過ぎると、子供にとっては本を読むぐらいしか時間の過ごし方がなかったからです。
ところが、今では、テレビ、ビデオ、ゲーム、ケータイ、インターネットなど、家庭の中に時間つぶしの娯楽がふんだんにあります。本を読まない親は、その読まないことが問題なのではなく、読まない時間にテレビを茶の間で見ているということが問題なのです。親が惰性でテレビを見ている中で、子供が読書をするというのはほぼ不可能です。
この対策は、テレビを見ないことです。見るとしても、茶の間ではなく、個人用のテレビをイヤホンなどで親が自分だけで見るようにすることです。又は、テレビよりもインターネットを利用するということになるかもしれません。
テレビ以外に読書の時間を奪うもう一つのものは、子供のゲームです。ですから、ゲームの制限も重要です。これは、ある時間が来たら強制的に片付けるか、読書を1時間したらゲームを15分などというように、読書とゲームをセットにすることです。いずれにしても大事なことは、親の断固とした決定と実行です。
問題は、読書をするかしないかということにあるのではなく、テレビやゲームの時間をいかに制限するかということにあるのです。
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