メギ2 の山 1 月 1 週
◆▲をクリックすると長文だけを表示します。◆ルビ付き表示▲
○自由な題名
○クリスマス、おおみそか、お正月
★ポイ捨て、除夜の鐘
○見かけは科学のようだが
◆
▲
【1】見かけは科学のようだが実は科学ではない「ニセ科学」が蔓延している。代表的な例として血液型性格判断やマイナスイオンを挙げれば、なるほどその手の話かと合点がいくかたも多いのではないだろうか。【2】念のため述べておくと、前者は心理学の調査によってとっくに否定されており、また、いわゆるマイナスイオンが体によいという科学的根拠はほぼ皆無と言ってよい。
もちろん、この手のニセ科学が今に始まったわけではないが、最近の状況は以前よりはるかに深刻に思える。【3】大手電器メーカーがこぞって参入したマイナスイオン・ブームなど、熱に浮かされていたとでも表現するしかなかろう。
あるいは、水に「ありがとう」と声をかけると雪の結晶に似たきれいな結晶ができ、「ばかやろう」と声をかけるときれいな結晶はできない、という説はどうだろう。【4】そのようにして撮影したと称する結晶の写真集はベストセラーになった。
話だけなら単なるオカルトとしか思えないが、写真があまりに印象的なためか、これを「科学的事実」と信じ込んでしまう人は意外に多いらしい。【5】しかも、これが多くの小学校で言葉の大切さを教えるための道徳教材として使われているのだから、笑ってすますわけにはいかない。言葉づかいは水に教わるようなものではないはずなのだが。
こういったニセ科学は、あくまでも「科学」として受け入れられていることを強調しておきたい。【6】いや、それどころか、もしかすると多くの人にとって、ニセ科学のほうが科学よりも「科学らしく」見えているのかもしれない。
たとえば、「プラスは体に悪く、マイナスはよい」などという白黒二分法的な考えかたは、本来、科学から最も遠いところにある。【7】科学者に「プラスとマイナスのどちらが体にいいですか」と尋ねたとしても、返ってくるのは「マイナスといってもいろいろあるし、少量なら体にいいものだとしても、量が多すぎれば悪いだろうし……」といった歯切れの悪い答えであるに違いない。
【8】一方、パブリックイメージとしての科学は、そのようなあいまいな返事をせず、「さまざまな問題に対してきちんと白黒つけてくれる」ものなのではないだろうか。ところが、実はこれはニセ科学∵の特徴である。
【9】本当にニセ科学のほうが科学らしく見えてしまうとすれば、ニセ科学が受け入れられるのは、科学に対する信頼が失われているからではない。むしろ、科学は信頼されているのである。ただし、それは必ずしも科学的な考え方が浸透していることを意味しない。
【0】科学の結果だけが求められ、その本質である合理的思考のプロセスは求められていない。水の結晶の話が道徳教材になってしまうのも、あるいは、テレビゲームが脳を機能的に壊すというこれまた根拠薄弱な説が教育現場ではやるのも、結論だけに飛びついた人が多いからだろう。たしかに、しつけや道徳が科学で根拠づけられるなら、それほど楽なことはないのかもしれない。だが、それは思考停止にすぎない。
さて、昨今、先端科学の成果を一般市民に「わかりやすく」伝えることが強く求められている。ところが、そこには落とし穴が待ち受けている。科学を「わかりやすく」語ることに慣れていない科学者たちは、先端科学の成果がいかに不思議であるかを強調すれば「わかりやすい」のだろうと安易に考えがちである。しかし、不思議を語るだけでは、魔法の話をしているのとなんら変わりがない。
SF作家アーサー・C・クラークは「非常に進んだテクノロジーは魔法と区別できない」と述べた。この言葉は現代科学にもあてはまる。もし科学の成果をあたかも魔法であるかのように語るなら、それは、魔法に過ぎないはずのニセ科学を科学であるかのように見せることにもつながる。「こんなことが起こります」という結果だけではなく、その裏にある科学の「考え方」を伝える努力が求められている。
(菊池(きくち)誠(まこと)「かがく批評室」による。本文を改めたところがある)