ゼニゴケ2 の山 1 月 1 週
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○自由な題名
○クリスマス、おおみそか、お正月
★ベンチャー、宗教

○たとえばいま
 【1】たとえばいま、ホームレスが地下街の通路で寝るのをやめさせたいとしよう。我々はもちろん法によってそれを禁じたり、それはよくないことだと社会規範に訴えて説得することができる。【2】地下街という公共の空間の価格を操作することはできないが、代替財である安アパートや簡易宿泊所の価格を引き下げることができれば、結果的に地下街で寝る人は減ることだろう。財の価格や供給水準を決める市場のあり方によって、人々の行動は左右される。
 【3】これに対し、たとえば妙な突起物を設置していくことによって、寝ころぶことのできる隙間を物理的になくしていくとすれば、それがアーキテクチャによる支配である。レッシグは「社会生活の『物理的につくられた環境』」をアーキテクチャと呼んでいる。【4】我々がその内部で行為を行なう空間のあり方それ自体に操作を加えることによって、我々の行動をコントロールすることが可能になるのだ。
 もちろん先ほどの地下街の例は、架空のものではない。【5】新宿駅の西口から都庁に向かう地下通路の目立たない部分、周囲から引っ込んで人々の通行しにくい部分、言い換えればホームレスたちが通行人に邪魔されることなく寝転がれるような部分には、青島都知事時代の一九九六年、オブジェと称する奇態な出っ張りが設置された。【6】斜めに切り取られた先端は、ホームレスをその領域から完全に排除することを狙っている。通路の反対側、動く歩道とのあいだに設けられたフェンスも、歩道とのあいだを仕切るだけでなく、一定の面積が確保されることを妨害しようとしているのだろう。
 【7】自然法則は誰かが決めたものではないから、我々が空を飛べないことは自由に対する制約ではないと、リバタリアンは言ったのだった。だが法則それ自体はそうだとしても、それが働く環境自体を操作することによって我々が何かをする可能性があらかじめ奪われているとすれば、それもまた自由の侵害にはあたらない、のだろうか。
 (中略)∵
 【8】ところがアーキテクチャは、そのような意識を必要としない。「鍵は、鍵がドアをブロックしているのを泥棒が知らなくても、泥棒を制約する」(『CODE』)。アーキテクチャの権力は、我々がそれに気付くことなく、我々の行為に先立って事前(ex ante)に、我々の行為を制約する。【9】法律や規範に対して何の知識も持たない存在も、アーキテクチャに従わせることはできる。いやそれどころか、人格なき存在であっても支配の対象にできることは、鍵のかかったドアの内側には誰も――人間だけでなく犬や猫も入れなくなることを考えればわかるだろう。アーキテクチャの権力は、「個人」を必要とはしない。
 【0】我々は知らないうちに、ある一定の行為可能性の枠の内側に閉じこめられているのかもしれない。その枠の内側では我々の行為選択に制約を加えるものはなく、我々は完全な消極的自由を享受できるとしよう。だがこれは本当に自由なのだろうか? もし我々がその制約の存在を知っていたとして、それでもなお我々の選択はそのような制約がない場合と同じだと知ることができるだろうか。我々は迷路に閉じこめられたマウスと、どこがどのくらい違うのだろうか?

 (大屋雄裕()『自由とは何か――監視社会と「個人」の消滅』)