レンギョウ の山 1 月 1 週
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○自由な題名
○クリスマス、おおみそか、お正月
★内申点、本当の豊かさ

ある書物がよい書物であるか
 【1】ある書物がよい書物であるか、そうでないかを判断するために、普通私たちがやっていることは誰でも類似している。自分が比較的得意な項目、自分が体験などを総合してよく考えたこと、あるいは切実に思い患っていること、などについて、その書物がどう書いているかを、拾って読んでみればよい。【2】よい書物であれば、きっとそういうことについて、よい記述がしてあるから、大体その箇所で、書物の全体を占ってもそれほど見当が外れることはない。
 だが、自分の知識にも、体験にも、まったくかかわりのない書物に行きあたったときは、どう判断すればよいのだろうか。【3】それは、たぶん、書物に含まれている世界によって決められる。優れた書物には、どんな分野のものであっても小さな世界がある。その世界は書き手の持っている世界の縮尺のようなものである。【4】この縮尺には書き手が通りすぎてきた「山」や「谷」や、宿泊した「土地」や、出会った人や思い患った痕跡などが、すべて豆粒のように小さくなって籠(こ)められている。どんな拡大鏡にかけてもこの「山」や「谷」や「土地」や「人」は目には見えないかもしれない。そう、事実それは見えない。見えない世界が含まれているかどうかを、どうやって知ることができるのだろうか。
 【5】もしひとつの書物を読んで、読み手を引きずり、また休ませ、立ち止まって空想させ、また考え込ませ、要するにここは文字のひと続きのように見えても、実は広場みたいなところだなと感じさせるものがあったら、それは小さな世界だと考えてよいのではないか。【6】この小さな世界は、知識にも体験にも理念にもかかわりがない。書き手が幾度も反復して立ち止まり、また戻り、また歩き出し、そして思い患った場所なのだ。彼は、そういう小さな世界をつくり出すために、長い年月を棒にふった。【7】棒にふるだけの価値があるかどうかもわからずに、どうしようもなく棒にふってしまった。そこには書き手以外の人の影も、隣人もいなかった。また、どういう道もついていなかった。行きつ戻りつしたために、そこだけが踏み固められて広場のようになってしまった。【8】実際は広場というようなものではなく、ただの踏み溜りでしかないほど小さな場所で、そこから先に道がついているわけでもない。たぶん、書き手ひ∵とりがやっと腰を下ろせるくらいの小さな場所にしかすぎない。【9】けれどもそれは世界なのだ。そういう場所に行きあたった読み手は、ひとつひとつの言葉、何行かの文章にわからないところがあっても、書き手をつかまえたことになるのだ。
 私は、なぜ文章を書くようになったかを考えてみる。【0】心の中に奇怪な観念が横行してどうしようもなく持て余していた少年の晩期のころ、しゃべることがどうしても他者に通じないという感じに悩まされた。この思いは、極端になるばかりであった。この感じは外にもあらわれるようになった。父親は、お前このごろ覇気がなくなったと言うようになった。過剰な観念をどう扱ってよいかわからず、しゃべることは、自分をあらわしえないということに思い患っていたので、覇気がなくなったのは当然であった。われながら青年になりかかるころの素直な言動がないことを認めざるをえなかった。今思えば、「若さ」というものは、まさしくそういうことなのだ。他者にすぐわかるように外に出せる覇気など、どうせ、たいした覇気ではない、と断言できるが、そのとき、そう言いきるだけの自信はなかった。そうして、しゃべることへの不信から、書くことを覚えるようになった。それは同時に読むようになったことを意味している。
 私の読書は、出発点で何に向かって読んだのだろうか。たぶん自分自身を探しに出かけるというモチーフで読みはじめたのである。自分の思い患っていることを代弁してくれていて、しかも、自分の同類のようなものを探しあてたいという願望でいっぱいであった。すると書物の中に、あるときは登場人物として、あるときは書き手として、同類がたくさんいたのである。