二番目の長文が課題の長文です。
1そういう「定着文化」というか、うごかないことがよしとされる日本で育ったわたしは、長じてアラビアでのフィールドワークをするようになったとき、そうではない文化、「移動文化」ともいえるものにぶつかり、ある種のショックを受けた。2といっても、それは異文化からきたわたしだから「ショック」なので、その人たちにとってはごく当り前のこと。おどろきでもなんでもない。3わたしのフィールドのように自然条件・社会条件がきびしいところでは、しんどいことの連続なのだが、こういうおどろき、異質さの魅力というものに惹かれてなんとか今日までやってこられたようにおもう。
4アラビアの砂漠では、昼間の暴君である太陽が、夜のやさしさにその支配権を渡し、やっとおだやかな夜がおとずれると、わたしもみなといっしょにほっとしたものだった。5砂の上に横たわり、ねぶくろから顔だけ出してアラビアの星たちと交信するのも、楽しみのひとつだった。研究の対象はもちろん天の星ではなく、地上の遊牧民、ベドウィンだったが、かれらの移動について調査していて、どうもよくわからないことがでてきた。6なぜ移動するのだろう。うごく必要はないではないか。水、草、子どもたちの学校、そのほかの生活の条件は同じ、あるいは悪くなるかもしれないのに、うごくことがあるのだ。
7このあたりのことは、先に「アラビア・ノート」(NHKブックス、一九七九年)で少しふれたが、「どうしてなの」ときくわたしに、「なにもかもよごれてしまったからね」という答えがかえってきた。これだけではどういうことかよくわからなかった。8フィールドワークをしていると、言葉のやりとりだけではわからないことがたくさんあった。当然のことである。人は、言葉だけでわかりあうわけではない。
一年ほどいっしょにくらすうち、砂のまじった食事も気にならなくなるのと同時くらいにかれらの「移動の哲学」がわかってきた。9体系的なものを哲学としてもっているわけではないが、かれらは人間がひとつのところにじっとしているのは退行を意味すると感じているのである。
ひとつのところで生活をしていると、ごみが出てくるとか、死人が出たというような物理的なよごれもあるのだが、人間の心のほうもよごれてくる、よどんでくるように感じているようなのだ。0うごくことによって浄化されるという感覚をもっている。これはセム族の中に古くからあるものとつながっているようでもある。「旧約
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