ペンペングサ の山 3 月 1 週
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○自由な題名
○ひなまつり
○大量の情報の中で、窓
○Bad luck always seems 英文のみのページ(翻訳用)
Bad luck always seems to strike at the worst possible moment. A man about to interview for his dream job gets stuck in traffic. A law student taking her final exam wakes up with a blinding headache. A runner twists his ankle minutes before a big race. Perfect examples of cruel fate.
Or are they? Psychologists who study unfortunate incidents like these now believe that in many instances, they may be carefully arranged schemes of the subconscious mind. People often engage in a form of self-defeating behaviour known as self-handicapping -- or, in simple terms, excuse-making. It's a simple process ゚ by taking on a heavy handicap, a person makes it more likely that he or she will fail at an endeavour. Though it seems like a crazy thing to do, it is actually a clever trick of the mind, one that sets up a difficult situation which allows a person to save face when he or she does fail.
A classic self-handicapper was the French chess champion Deschapelles, who lived during the 18th century. Deschapelles was a distinguished player who quickly became champion of his region. But when competition grew tougher, he adopted a new condition for all matches: he would compete only if his opponent would accept a certain advantage, increasing the chances that Deschapelles would lose. If he did lose, he could blame it on the other player's advantage and no one would know the true limits of his ability; but if he won against such odds, he would be all the more respected for his amazing talents.
Not surprisingly, the people most likely to become habitual excuse-makers are those too eager for success. Such people are so afraid of being labeled a failure at anything that they constantly develop one handicap or another in order to explain away failure. True, self-handicapping can be an effective way of coping with anxiety for success now and then, but, as researchers say, it makes you lose in the end. Over the long run, excuse-makers fail to live up to their true potential and lose the status they care so much about. And despite their protests to the contrary, they have only themselves to blame.

★もう一度、教室の光景へと(感)
【二番目の長文が課題の長文です。】
 【1】ひとりでいるときも、良心が働いている。誰も見ていなくても、道にごみを捨てようと思わない。そういう倫理観を、私たちは持っている。それは、自分の中に内在的な価値観があるからだ。遠い昔、父や母によって教えられられてきたしつけが、自然に自分の中に移しかえられ育まれて、自分自身の倫理観として育ってきたものだろう。【2】「天知る。地知る。子(し)知る。我(われ)知る」という言葉がある。ふたりだけの隠し事と言っても、天も、地も、あなたも、私も知っている、という意味だ。この内在的な価値観が、社会の安定の基礎になっている。
 【3】しかし、ここで問題になるのは、私たちが内在的な価値観に制約されることによって、真に自由な判断ができなくなってしまう場合もあるということだ。人がある宗教を信じる際の最も大きな要因は、その両親もその宗教を信じていたからだということが多い。【4】自分で選んだと思っていたものが、実は無意識のうちに刷り込まれた幼児期からの価値観だったとすれば、人間どうしの対話は根本的なところでやはり成り立たないだろう。
 【5】では、どうしたらよいのだろうか。一つの対策は、自身の内在的な価値観に自覚的であることだ。私たちの多くは、自分の国や自分の民族に誇りを持っている。しかし、それは、往々にして他の国や他の民族に対する蔑視に結びつくことがある。それは、私たちの価値観が、実は他から刷り込まれたものであることを示している。【6】自分の価値観の原点を探れば、そこに両親だけでなく、マスメディアや政治や文化からの影響を見ることができるだろう。大事なことは、価値観を持つことではなく、自覚した価値観を持つことなのだ。∵
 【7】もう一つの対策は、異なる価値観を持つ人どうしの間でオープンな対話を保証することだ。犬とサルが出会えば、喧嘩をするしかない。互いの相違を対話によって埋めるだけの共通の土俵がないからだ。【8】しかし、人間は、たとえ話す言語が異なっていても、異なる思想や価値観を共通の論理によって論じることができる。もしオープンな対話がなく、各人が自身の内在的な価値観だけによって生きていくだけなら、子供はのびのびと遊ぶべきたと考える人は、いつまでも子供を公共の場で騒ぎ回らせるだろう。【9】また、逆に公共の場では、子供もルールを守るべきだと考える人は、いつまでも騒ぐ子供を許せないだろう。この異なる価値観を対話によって止揚させるのが、犬やサルにはできない人間の知恵である。【0】
 確かに、今の世の中を広く見渡せば、価値観の対立の問題よりも、価値観の不在の問題の方が大きいように見える。しかし、ある人にとって価値観の不在と見えることが、実はその相手にとっては明確な価値観に根差していることもある。例えば、「そのようなことは重要だとは思わないので、どちらでもいい」というのも一つの価値観だ「天知る。地知る。子(し)知る。我(われ)知る」という故事は、そういう内在的な価値観を持っていたことに意義があるのではなく、その内在的な価値観が相手に伝わり共有できたというところに本当の意味があったと見なければならない。

(言葉の森長文作成委員会 Σ)∵
 【1】もう一度、教室の光景へと目を転じよう。子どもたちの身体の異変は近年、いっそう顕著である。その変化はいくつでも列挙できるが、たとえば、都市部の小学校の高学年では、かつての中学校のように、授業が成立しない。【2】かつての中学校と違うのは、教師への反抗ではなくて教師への無視であることと、その無視の主役が女の子たちであることである。中学校と高校になると、アパシー(無気力と無感動)が教室を支配している。無表情で沈黙した生徒が教室に置物のように座っている。【3】声をかけると一瞬、身構えて緊張が走るが、呼びかけて待っても口を開くようすはない。もっとすごい話がある。小学校の一年生というと、まず「はい、はい」とツバメの巣のような教室から出発するのが常識だが、四月から一言も口を開かない一年生の教室が、いくつかの学校で見られるようになった。【4】この沈黙の背後には、もちろん陰湿ないじめが潜んでいる。幼稚園ですでに高学年までの洗礼を受けているのだろうか。
 これら特異な現象だけでなく、教室における身体の異変は、もっと日常的に深く浸透している。
 まず他者への無関心がある。【5】たとえば一人の子どもが「先生、消しゴムがない」と何度も言う。「先生、消しゴム」を連発するだけで、となりの子どもに「ねぇ、ちょっと消しゴム貸して」と言って借りる子は稀である。となりの子もとなりの子で「これ使っていいよ」と言う子も稀にしかいない。【6】ほとんどの子が他人事として聞き流しているし、よくて「先生、この子消しゴムがないって言ってるよ」なのである。中学校や高等学校の教室だと「○○君はいる?」と休憩時間にたずねても、いっこうに釈然としない。「おい、○○きょう来てたっけ」「さあ?」という調子である。【7】はなはだしい場合にはもう半年も経っているのに「○○って、うちのクラスだったっけ?」という声を聞くこともある。
 他者への気配りがないわけではない。しかし、その気配りはすれ違っている。一つのエピソードを紹介しよう。【8】知人の教師が中学一年生の息子の授業参観に行ったときのことである。授業の最後に一人の女の子が挙手して「うるさくて先生の話が聞こえなくて、板書をノートにうつすことしかできなかった」と訴えて泣き出してしまった。【9】すると、そのとなりの席にいた知人の教師の息子∵が「先生、きょう、掃除はあるんですか」と大声で質問したと言う。知人の教師は、息子の行為に憤って授業のあとに詰問したところ、息子は、その女の子が窮地に陥るのを救出するためにわざわざ関係のない質問をしたのだと言う。【0】もちろん、彼の行為は女の子の窮地を救うどころか、ますます女の子の心の傷を深いものにしたのだが、そのことは、知人の息子にはわかっていなかったと言う。このようなすれ違いは、教室のいたるところで頻発している。
 他者への無関心は、大人に対しては根底的な不信の感情となって現れている。大人と目と目を合わせて話をする子どもが少なくなった。語りかけてきても、ちらっと目を合わせると、すぐにまなざしを背けて話している。教師のほうも同様の問題を抱えている。子どもがまなざしを背けるものだから、教師のほうも微妙にまなざしを背けながら話しかけている。そういう繋がりのなかでは「出会い」も「対話」も生まれようがない。
 モノとの出会いの経験も、著しく貧困である。商品としての「もの」が氾濫する一方で、自然と連なるモノの世界は、ますます子どもの生活から消滅しつつある。その端的な現れが道具の使用の経験の未熟さに見られる。小学校高学年でも、木工をやらせると、鋸(のこぎり)を立てるように持って木材を手前から向こうに向けて切ろうとする子どもたちが少なくない。金槌を持たせると金属のところを握って釘を打とうとするし、はなはだしい場合には、作業台があるのに板を宙に掲げて打って、「釘が打てない」と教師に援助を求める子どももいる。まっとうに道具が使える子どもは皆無と言ってもよい。モノと出会いモノを道具によって操作する体験や文化が欠落しているのである。
 言葉という道具においても同様の事情がある。「文字離れ」「活字離れ」は、いまや決定的と言ってよいだろう。小学校の低学年では読書は習慣化しているが、高学年になると活字離れが進行し、中学生や高校生になると六割から七割の生徒が月に一冊も本を読んでいない。読むことと書くこと(リテラシー)は自己を構成し世界を∵構成する基本的な作業だが、その文化は急速に衰退しつつある。郵政省の調査では、国民の七割が年賀状などの挨拶状を除いて一年間に一通も手紙を書かない状況を迎えているが、おそらく中学生と高校生に限定すると、その状況はもっと深刻だろう。一日平均三十分以上も電話をする彼らは、文字文化(リテラシー)の世界から遊離した世界を生きている。喪失しているのは、「私はこう思う(I think)」という一人称の語りであり、「あいつがこう言っている(He said.She said.)」というゴシップが、彼らの日常世界を構成しているのである。