マキ2 の山 4 月 1 週
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○自由な題名
○失敗する前に教えるのはよいか悪いか
★あだなはよいか、私の目標
○脳の研究をしていて
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【1】脳の研究をしていてしばしば尋ねられることの一つが、頭の良さは遺伝で決まるのか、それとも環境で決まるのか、といういわゆる「氏か育ちか」の問題である。
一卵性双生児を対象とした研究などによれば、知能指数といった指標で測られる知性に与える遺伝子の影響は大体半分くらいらしい。【2】しばしば、保守的な人は遺伝子の、リベラルな人は環境の影響を重視する傾向があるが、そう簡単に政治的立場だけで決めつけられる問題でもない。遺伝子の影響が全くないはずはないし、育てられ方で変わらないはずもない。【3】天才科学者の子どもが必ず天才になるわけではないし、親が勉強嫌いでも、子どもは向学心に燃える、ということはある。氏と育ちは、半々くらい、というのは、私たちの常識的なセンスに照らしてみても、妥当な線である。【4】別の言い方をすれば、今の科学の水準では、そのような「常識的なセンス」を越えるような結論は得られないということになる。
それにしても、「頭の良さは、遺伝か、それとも育てられ方か?」と質問されて、「氏と育ちは半々である」と答えるだけでは、あまりにも芸がない。【5】何よりも、学問としての深みがない。何かもっとうまい答え方はないものか、と折に触れて考えていた。
先日、漫画家の萩尾望都さんと対談した時のことである。打ち合わせの時に、萩尾さんが、「今日は茂木さんに、遺伝子と環境、どっちが重要なのか、お尋ねしたいと思っています」と言われた。【6】さて、これは困った、と思った。何時ものように、「半々なのですよ」と答えるのでは、あまりにも芸がない。萩尾さんのようなカリスマ漫画家には、もう少し気の利いたことを言いたい。何とかしなければ、と思いながら廊下を歩いているうちに思いついた。【7】人間、追いつめられると何とかなるものである。
人間の知性の本質は、その「終末開放性」(open ended ness)にある。そのことが、「氏か育ちか」ということを考える上で、本質的な意味を持つと直覚した。【8】このアイデア一つの向こうに、様々な問題群が広がっていることもすぐにわかり、私∵はほっとすると同時に嬉しかった。「半ばは遺伝で、半ばは環境である」といった回りくどく「政治的に正しい」言い方の不自由さにはない、学問的広がりがそこにあるように感じたからである。
【9】人間の脳は、心臓と同じで、休むことがない。それに伴って、脳内の回路は一生学習をし続ける。大人になっても、脳の組織が完成して固定化してしまうことなどなく、神経細胞のシナプス結合のパターンは生涯の間変化する。ここまで回路ができあがったら、それで完成ということはないのである。【0】
従って、人間の脳の回路が、遺伝子によって決まっていたとしても、その「完成形」は原理的に存在しないことになる。たとえその最終的な「落ち着きどころ」(物理的に言えば、「熱力学的準安定状態」)が存在したとしても、せいぜい百年の寿命しかない人間の生涯では、そのような最終形を取るには至らない。人間の才能が、仮に遺伝子によって完全に決定づけられていたとしても、私たちはその最終的帰結を見ないままに、死んでいってしまう。内なるポテンシャルを十全に発揮しないうちに人生が終わってしまう無念は、アインシュタインやモーツァルトのような天才も、凡夫も変わることがないのである。
人間の知性は、いつまで経っても完成形を迎えることのない「終末開放性」をその特徴としています。だから、たとえ、遺伝子によってかなりの部分が決まっていたとしても、実際的な意味では決まっていないのと同じなのです。遺伝子によって決まっているという運命論など気にすることなく、前向きに生きれば良いのです。
対談中、そのように萩尾さんに申し上げたら、「ああそうですか」とおっしゃる。それから、「じゃあ、茂木さんのクローンを百代続けて作れば、遺伝子に書き込まれていた帰結が見えるのかしら」と畳みかける。それはそうかもしれないが、単純にクローンを作成するだけでは、脳回路はリセットされてしまうから、最初からやり直さなければならない。本格的にやろうとすれば、クローンをつくる時に百歳の私の脳回路を「コピー」しなければならないが、そんな技術はもちろん存在しません。そう申し上げて、対談を切り抜けた。
(茂木健一郎『欲望する脳』)