ザクロ の山 4 月 1 週
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○自由な題名
★触れ合い、心
○野球で「二年目のジンクス」ということが
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【1】近代合理主義の精神は、思考の過程、あるいはものを考える過程で、さまざまな夾雑物、余計な要素を取り除き、いくつかの単純な原理にしたがって論理を進めようとする思考法をとる。【2】その過程で仕掛けられる判断の基準も、できうるかぎり単純であることが望まれる。そして、その考えられる単純な原理こそが、ふたつのものからそのいずれかを選択するという判断基準であった。
【3】すなわち、真と偽(ぎ)、善と悪、美と醜(しゅう)、正と否など二者択一の論理こそ、近代合理主義が旨とする判断の方法にほかならない。真なる前提から始まって、真なる判断を繰り返していけば、真理に到達すると固く信じられたのである。【4】デカルトが、数学的方法に思考方法のあるべき姿を認めたのも、伝統的な数学がこの真偽二者択一の方法に絶対的に依っていたからだ。
(中略)
【5】しかし、真偽の弁別を繰り返していって世界全体の判断に達するという演繹的な論理は、世界全体を判断の傘下に収めようとするのだから、当然のことに、判断の普遍妥当性を要求することになる。【6】つまり、ある部分では当てはまるが、べつの部分になると当てはまらない理論は、斉一的な世界像を求める近代の科学的合理主義のなかでは市民権を得ることはできないのである。【7】たとえば、科学実践の現場でも、理論にそぐわない実験結果や現象が現れたときに、それらを無視し捨象(しゃしょう)して理論の斉一性を守るということが日常茶飯におこなわれるのである。【8】しかし、そうした例外に属する現象が無視しえなくなれば、それを取り込むことのできない理論そのものを変える必要がでてくるわけで、こうして理論の転換がおこなわれるようになる。【9】これが、「科学革命」あるいは「パラダイム・シフト」と呼ばれる現象のひとつである。
こうした現象は、しかし、世界に対する理論の普遍妥当性という信念ないし確信にも似た意識に由来するものだということがわかる。【0】あらゆる理論は、数学の原理がそうであるように、∵いついかなるところでも当てはまらなくてはならないと固く信じられてきたのである。そうしたなかで、理論に妥当しない例外的な現象は、偶然的なもの、あるいは蓋然的なものとして貶められてきたのである。そして、不確定性原理の出現に見られるように、現象をもれなく網羅し説明する理論の普遍妥当性そのものが揺らぎ出してくると、方法としても、もはや確率統計的な方法をとらざるをえなくなってきたのである。つまり、現象の世界に対し人間の側がなしえるのは、一定の法則を世界に押しつけることではなく、現象のあるがままの姿を記述することと考えられるようになったわけだ。
理論や法則の普遍妥当性という近代科学の絶対主義的傾向は、相対性理論や量子力学など二十世紀の初頭に相次いで現れる新たな潮流によって、おおいに揺さぶりをかけられた。これらは、学問や理論の世界のなかだけで起こったことのように思われているが、そうではない。われわれの日常生活にも、少なからず影響を与えているのだ。影響を与えているというよりは、むしろ、同じ大きな流れが、理論的世界にも、また日常生活にも現れているというべきなのだろう。
とにかく、「すべての……は……である」といった論理学の全称判断のようなものに見られる、普遍性への意識をもった思考法は、個の意識が昂揚し、多様性が横溢するようになった社会的意識や日常生活のレベルにおいては、もはや妥当性を失いつつあると考えるべきだろう。
(山本雅男()『ヨーロッパ「近代」の終焉』より)∵
【1】野球で「二年目のジンクス」ということがよく言われる。一年目は好成績を残したのに、二年目はさっぱりダメという場合である。イチローのような特段に優れた選手は例外で、ほとんどが並の実力の持ち主だから、一年目は誤差でたまたまいい成績となっただけで、二年目からは平均に戻ったと考えた方が正しいだろう。【2】にもかかわらず、スウィングが悪い、モーションが悪いと指摘され、自分もそうではないかと思い込んでフォームを崩してしまい、結局大成しなかった選手が多くいる。数年間を見て実力を見極める度量が欲しいものである。
【3】以上、判断の各過程におけるエラーについて述べてきたが、それらに共通する心理を整理しておこう。
まず、「認知的節約の原理」がある。限られた情報から欠けた部分を経験や先入観や単純な類推によって補い、効率よく事態を処理しようとする心理のことだ。【4】本人にとって負担が少ない思考法だが、そこにエラーが生じてしまうのだ。
続いて、「認知的保守性の原理」を挙げよう。すでに持っているスキーマを保ち維持しようとする傾向で、反証を無視したり、無理にでも自分の描像に合わせてしまう心理である。【5】自分は一貫した考え方をしていると自認できるので心理的な安定感が得られることになる。だからこそ間違いやすいとも言える。自分が安心できる思考法でつい安住してしまうからだ。
【6】もう一つは、「主観的確証の原理」で、どちらともつかない証拠だけでなく明らかな反証であっても、自分の予期を積極的に支持していると勝手に解釈する心理傾向である。「いやよいやよも好きのうち」と身勝手に思い込んでセクシュアルハラスメントに及ぶ人間がその典型と言える。【7】自分の身勝手さに気づかず、全て他人のせいにして安閑としている人にお目にかかることが多いのはこのためだろう。被疑者に対して状況証拠しか見つかっていないのに犯人と決めつけ、すべてその仮定の下で解釈したがる例もある。【8】犯人が見つかっていないと不安だが、強引にでも決めつけてしまえば安心するのだ。(早く安心したいという気持が底に潜んで∵いることもある。)この心理には、思考の経済性や一貫性なども絡み合っている。こうなるともはや自省する気持を失ってしまう。
【9】さらに付け加えるとすれば、「偶然性を拒否したい心理」、言い換えれば「確固とした因果関係として説明したい心理」もある。偶然に起こったことであっても必然だと思い込み、それをきちんとした因果関係で説明しようとすると科学的な理由が見つからず、ついに超常的現象だと考えてしまうケースである。【0】予知夢がテレパシーしかないと解釈し、たまたま当たったのを透視できたと受け取り、そのまま信じ込んでしまうのだ。認知的エラーを自覚しない人ほど、自分の体験を絶対化して信じ込む傾向が強い。「しょせん、体験したことがない人にはわからない」として、他人の意見や忠告を受け入れなくなってしまうのだ。そして、自分の意見を強調すればするほどその信念はいっそう強くなっていき、もはや後戻りが不可能になる。
むろん、人間の認知エラーが多いと言っても、私たちは日常生活において大きな支障なしに生きている。それを無意識のうちに矯正したり、または大きな問題が起こらないので気づかないままやり過ごしている。ときには認知エラーが人間の生存にプラスにはたらいていることもあると知っておくべきだろう。あまりに気にし過ぎると神経症を病むことになりかねないからだ。
ただ、突発的な事件が起こって即座の判断を迫られたり、すぐに合理的な解釈ができない事象に遭遇したりしたとき、認知過程には誤りが多いことを自覚して、自分の推論を絶対化しないことが肝腎なのである。それは疑似科学に騙されていないか自らを点検することにも通じるからだ。
(池内了『疑似科学入門』による)