ライラック2 の山 4 月 1 週
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○自由な題名
○心
★ゴミ、長所と短所

○学問は世の役に立つかと
 【1】学問は世の役に立つかと考えるとき、よく私が思い浮かべるのは、天動説がくつがえされ、地動説が確立されるまでのヨーロッパの学者たちの探究です。地動説の萌芽は、すでに十四世紀にノルマンディの学者、ニコラ・オーレムの書いたものにあったそうですが、【2】十六世紀に入って科学的にこれを一歩進めたのは、ポーランドのコペルニクスで、けれどもキリスト教会の取り締まりを恐れて、七十歳の死の数日前までその論文を発表しなかったといわれています。【3】そしてドイツのケプラー、イタリアのガリレイなどがこの考えを継承してより実証に近づけますが、教会からは弾圧を受け続け、一六一六年には、教皇パウロ五世は地動説を聖書に反するという理由で、断罪しています。
 【4】いうまでもなく、太陽が動くか地球が動くかは、私たちの日常生活にとって、まさにどうでもいいことです。今でも人類の圧倒的大部分は、お日様は東から昇って西へ沈むと思っており、生活感覚としてそれはまったく正しい。【5】天動説、つまり地球中心主義をくつがえすために、教会の弾圧に耐え、ずいぶんお金も使いながら、大勢の学者が執念深く追究してきたことは、直接にはまったく「世の役に立たない」ことです。
 【6】けれども、地動説が確立されたことで、人間の世界に対する認識が根本的に改められ、宇宙科学をはじめとする科学や技術がどれだけ変わったか、その結果、地動説がどれだけ「人間の役に立っている」かは、改めていうまでもないでしょう。
 【7】英語で学者のことをスカラー、学校のことをスクールというのはご存じの通りですが、これはギリシャ語の「スコレー」「閑(ひま)」という言葉に由来しています。つまり、学者というのは元来「閑人」であり、学問は「閑人」のすることなのです。
 【8】小学校の就学率が一〇パーセントにも満たない、私が住み込み調査をしていた頃の西アフリカ内陸社会の村では、家族にとって大事な労働力である子どもが、畑仕事の手伝いもしないで、毎日朝から夕方まで学校に行っているなどというのは、とんでもないことで、学校はまさに「スコレー」の場なのだということがよく分かりました。【9】学校で教わることも、村の生活にとってすぐの役には立たない、公用語のフランス語の読み書きとか、それを使って習う、∵算数とか、歴史とか、地理です。日本でも、多くの人々の生活が貧しかった頃には、事情は同じでした。【0】それなら、家の仕事を手伝わずに「スコレー」の場である学校で、すぐ役に立たないことを勉強するのは無意味かといえば、決してそうではなく、そのことを理解して、家が貧しくても無理をして子どもを学校に行かせた親は、日本にもいたわけですし、アフリカの村にだっているのです。
 それに、何の腹の足しにもならない知的好奇心を満たすという、まさに「スコレー」と結びついた人間の営みは、「ヒトという、この不思議な生物」の、ヒト筋縄では片づかない本質をなすもので、それはアフリカの村の、生活に恵まれない人々にとっても同じです。
 ただ、だからといって、役に立たないことに甘んじていて良いとは、私はまったく考えません。たとえ役に立ち方が迂遠だといっても、学者が現実の社会にいま起こっていることに常に生き生きとした関心をもち、人々が求めていることに共感するのは、現地調査による体験知を重要な拠り所とする人類学者にとって、不可欠のことです。とくに、人間社会の草の根に生きる人々と共感をもった交わりをもつこと、そのことを通して、たとえそれが極めて長い迂回であっても、究極には役に立つことにつながる学問を、私たちはすることができるのだと思います。

(川田順造「人類の地平から」より)