タラ2 の山 6 月 1 週
◆▲をクリックすると長文だけを表示します。◆ルビ付き表示▲
○自由な題名
○スポーツをしたこと、たまごを使った料理
★私の父(母)、体育の時間
○絹の道、塩の道(感)
◆
▲
絹の道、塩の道
【1】塩は人間にとっても、ウシやウマにとっても、生きていくためにかかすことができません。食糧を保存するにも、みそやしょうゆをつくるにも、つけものをつけるにも、むかしからなくてはならないものでした。【2】「塩をそまつにすると、目がつぶれる。」むかしの人たちはそういって、塩をたいせつにしたものです。それは、外国でもおなじでした。ヨーロッパやアフリカの国々では、むかし、塩のかたまりが、お金として使われたほどでした。【3】王さまへのみつぎものにも、金や銀や宝石や、絹の布とおなじように、塩が使われたりしたのです。
その塩は、中国やヨーロッパやアメリカでは、地下からとることができました。地下からとる塩は「岩塩」とよばれ、鉄や石炭などのように、山をほってとりだすのです。【4】けれども日本では、塩は山からはとれませんでした。山国にすむ人たちは、よそから塩をもらわなければ、生きていくことができませんでした。
さいわい日本は、海にかこまれています。海は、むげんの塩の宝庫でした。【5】そこで海べの人たちは、海水から塩をつくって、山国の人たちにとどけたのです。それが、塩の道でした。
まず海岸のすなはまに、大きなすなの池をいくつもいくつもつくります。その池に海水をくんで、何日もかけて日にほします。【6】すると水分がじょうはつして、だんだんこい塩水(しおみず)になっていきます。それをさいごに大きな鉄のかまでにつめるのです。海水を日にほすためのすなの池は「塩田(えんでん)」とよばれました。【7】瀬戸内海や九州や、三陸の海岸など、日本のあちこちのすなはまで、塩田(えんでん)風景がくりひろげられていきました。
塩の道は、山の幸(さち)と海の幸とを交換する道でした。山国の人と海べの人とが心をかよわせる道でした。
塩の道は、日本じゅうのいたるところにありました。【8】日本列島の大部分は山国です。そして海岸ではいたるところで塩がつくられていたからです。∵
山と海とをつなぐ道ならたいていは、塩をはこんだ歴史があります。たとえば信州の山村には、日本海側からは、姫川にそった糸魚川(いといがわ)街道を塩売りのウシの列が、ぞろぞろとつづきました。【9】また太平洋側からは、富士川や天竜川をさかのぼり、峠をこえて塩がはこばれていきました。
みなさんは戦国時代、上杉謙信が、敵の武田信玄に塩を送ったという話をきいたことがありますか。信玄は甲斐の国(いまの山梨県)の武将です。【0】甲斐の国は山国なので、塩はいつも遠くの海べにたよっていました。ところがそのころ、太平洋側には、駿府(いまの静岡県)の今川氏ががんばっていました。一方日本海側には、越後(いまの新潟県)の上杉氏がにらみをきかせていました。
そしてとうとう、おそれたことがおこりました。信玄をこらしめようと考えた太平洋側の今川氏は、甲斐へつうずる塩の道を、国ざかいでつぎつぎにふさいでしまったのです。塩の道がたたれるということは、生きていけなくなるということです。甲斐の国の人たちはこまりはてました。これを知った日本海側の上杉氏はきのどくに思いました。上杉謙信と武田信玄とは敵どうしです。けれども謙信は、日本海側から甲斐へ塩を送ってあげたのです。
ふだんは敵どうしでも、相手がほんとうにこまったとき、たすけてあげることを「敵に塩を送る。」といいますね。それは、この話からきていることばです。
この話は、道というものがどれほどたいせつなやくわりをはたしたか、よく教えてくれます。
「道は生きている」(富山和子)講談社青い鳥文庫より