ニシキギ2 の山 7 月 1 週
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○自由な題名
○わすれものをしたこと
★わたしのペット、お父(母)さんの子供のころ
○「ロシア語は取っ付きにくい
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【1】「ロシア語は取っ付きにくい、難しそう、つい敬遠してしまう」
そういう人たちが一番にあげる理由が例のロシア文字。【2】英語、フランス語、ドイツ語など圧倒的多数のヨーロッパ諸語が採用しているラテン文字、いわゆるローマ字ではなく、同じギリシャ文字をお手本につくられたものの、なじみのない形状のも混じったキリール文字である。【3】西ローマ教会(カトリック)圏に組み込まれた地域がラテン文字を採用したのに対し、東ローマ教会(正教)圏に入った国々(ロシア、ブルガリアやセルビアなど)はキリール文字を使う。
それにしても、ロシア語の場合、その数わずか三十三。【4】大文字小文字両方あわせても、たかだか六十三である。ひらがな、カタカナ五十字ずつに加えて、三千字前後の漢字を書けて、五千字以上の漢字を読めることになっている日本人が、怖じ気付き、覚えるのを億劫がるような数ではない。【5】その気になりさえすれば一時間で覚えられる量だろう。
それを思えば、むしろ同情と敬服に値するのは、日本語を学ぶ非漢字圏の外国人ではないだろうか。
(中略)
【6】表音文字だけの英語やロシア語のテキスト、あるいは漢字のみの中国語テキストと違って、日本語テキストは基本的には意味の中心を成す語根に当たる部分が漢字で、意味と意味の関係を表す部分がかなで表されるため、一瞬にして文章全体を目で捉えることが可能なのだ。
【7】アメリカ生まれの速読術なんて表音文字対応だから、ほとんど日本語には役に立たない。むしろ日本語のかな漢字混合文それ自体が実にみごとに速読に適していたのである。
【8】すっかりこの発見に有頂天になった私は、様々な種類の文章の、日本語版とロシア語版を時間を計りながら黙読してみた。【9】会議の同時通訳という仕事は、先週の前半は遺伝子工学のセミナー、∵後半は歴史学者のシンポジウム、今日は大統領の釈明演説、明日からは環境会議、という具合に日々くるくる顧客とテーマが変転していく。【0】そのたびに一テーマあたり一〜三冊の電話帳に匹敵する資料と格闘し、その専門分野の入門書を事前に読んでおくものだ。だから、千差万別さまざまな分野のテキストに日ロ両語で接するのは日常茶飯なのだが、それを実験対象にしたのである。それに、日本語の小説とそのロシア語訳、ロシア語の小説とその日本語訳をいくつか時間を計りながら読み比べてみた。
そして、活字にして断言できるほどの自信満々な確信を持つにいたった。黙読する限り、日本語の方が圧倒的に早く読める。私の場合平均七・六倍強の早さで、私の母語が日本語であることを差し引いても、これは大変な差だ。
子どもの頃から文字習得に費やした時間とエネルギーが、こんな形で報われているとは。世の中の帳尻って、不思議と合うようになっているんですね。いや、これからは収支を黒字に転ずるために、どんどん読まなくては損てことだろう、と意地汚く本を貪る今日この頃である。
(米原万里 著/日本エッセイストクラブ 編「漢字かな混じり文は日本の宝」(『九九年ベスト・エッセイ集「木炭日和」』
(文藝春秋)所収))