ピラカンサ2 の山 7 月 1 週
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○自由な題名
○コンピュータと人間の心
★得意分野と苦手分野、ウサギとカメ
○日の丸君が代、経験と知識、規則と自由
○現代文明が、石油、石炭、天然ガスなどの
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【1】現代文明が、石油、石炭、天然ガスなどの化石燃料に依存し、化石燃料を利用して成り立っているのに対して、江戸文化は、太陽エネルギーだけを使って成り立っていた。具体的にいうなら、徹底的に植物に依存し、植物を利用した時代だった。
【2】もちろん、植物以外の資源を利用する漁業や、鉱物を加工して金属や陶磁器を作る産業も発達したが、中心になるのはさまざまな形での植物の利用だった。【3】植物を育てる重要な作業にも、人力とわずかな家畜の力しか使わなかったが、考えてみると、人間は去年の太陽で育った穀物などを食べて動いているし、馬や牛も去年か今年の太陽で育った穀物やわら、草などで生きているから、結局は、産業も過去一、二年の太陽エネルギーだけを利用して成り立っていたことになる。
【4】今のように石油で暖めるハウス栽培をすれば、真冬でも胡瓜やトマトを出荷できるし、大きな船で遠洋漁業に出れば、日本では獲(と)れない魚を獲(と)って来ることもできる。【5】ところが、太陽エネルギーだけを利用して植物栽培や漁業をやっていた当時は、それぞれの土地柄に合った作物を育て、季節の海産物を利用するほかなかった。
【6】江戸時代の産業が今の工業と根本的に違うのは、さまざまな物産の生産から加工まで、すべて人手によっていた点である。つまり、原料を育てるのも太陽エネルギーだけなら、それを加工して製品化するのも、太陽エネルギーの範囲だけで行っていたのだ。【7】力仕事や面倒なことはほとんど機械が肩代わりしてくれる現代の作業に比べると、人力だけが動力の産業は、能率が悪く生産力も低い。
【8】しかし、手仕事による産業が、何でも機械で処理する近代産業に比べて、けっして劣っているわけではない。手仕事は、不便なのではなく「小さな便利さ」の上に成り立っている別の種類の産業であり、生産量だけで近代産業と比べるのは間違っている。
【9】もちろん、手仕事では大量生産ができないから利益も少なくて、大企業にはなり得ないが、手仕事では需要ぎりぎりの量しか作れないため、生産過剰になる心配がない。【0】ところが、大量生産を∵目的としている近代産業では、需要に合わせて生産するというより、生産しただけ売るのが基本だから、大量生産にともなう大量の廃棄物が出るという宿命を抱えている。大勢の福の神の後には、必ず大勢の災いの神がついて来るのだ。
手仕事の大きな長所は、製造の能率はきわめて悪いが、エネルギー効率がすぐれている点である。基本的には人間の労力だけでできるから、現在のエネルギー統計と同じように人間の労力を計算に入れなければ、エネルギー消費ゼロでできることになる。
但し、太陽エネルギーだけを利用して自分たちの土地柄に合った物産を作るのは、機械を使って工場生産するよりはるかにむずかしい。機械による生産は、大きなエネルギーが必要だが、どこに工場を設けても同じ製品を作れる。正確にいうなら、エネルギー効率がすぐれているというのを通り越して、仙台平のような高級な布だろうが、美濃紙だろうが、会津の蝋燭だろうが、練馬大根だろうが、太陽エネルギー以外には何も使わず、エネルギーゼロでできるのだ。ところが、手作業では、その土地の気候風土に合った原料しかできないし、運送能力が低かった時代は、原料生産地からあまり遠くない場所で製造しないと値段が高くなってしまう。
要するに、生産できるものがその土地の自然環境の影響を強く受けるのだが、江戸時代の人々は、このことも前向きに利用した。つまり、各地の人々が自分なりに工夫して自分たちの土地柄に合った特産品を作り、こんな番付にまで出るような全国ブランドとして育て上げたのである。各地の気候風土という自然の力が育てた名産品を見ると、日本の国がいかに多様性に富んでいたかよくわかるが、これらの特産品を生み出した人々も、今の日本人よりはるかに多様性に富んでいた。
(石川英輔氏の文章に基づく)