黄イバラ の山 9 月 1 週
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○自由な題名
○読書

○鶏口のよさと牛後のよさ
★二十年ぐらい前から(感)
 二十年ぐらい前から、私は読書日記をつけています。それを見ますと、これまでに感銘を受けた本は、四書五経をはじめとして枚挙のいとまがありません。
 その中で一冊を挙げるとすれば、クリスチャンである私は聖書としたいところです。が、あえて推薦したいのは、家内と私が共に感銘を受けた遠藤周作の『沈黙』です。
 “沈黙”といえば、キリスト教徒は、即座に十字架上のキリストを思い出します。キリストは「何ぞ我を見捨てたもうや」と叫びますが、ついに神の救いは現れません。これを神の“沈黙”といっています。
 実は、私は若いころからこの“沈黙”に関して疑問を持っていました。その赤裸々で根源的な疑問に人間味のある答えを出してくれたのが、遠藤周作の『沈黙』だったのです。
 昭和四十七年に、私は住友銀行のロンドン支店に赴任しました。イギリスで、私は宗教上の悩みを抱えるようになったのです。英国の歴史を遡(さかのぼ)ると、宗教への疑問は増すばかりでした。
 一つは、女狂いで有名な国王へンリー八世です。彼は宗教上離婚が認められないということで、七人のお妃を次々と殺害して結婚を重ねたといわれています。彼のお城には、七人のお妃のドレスが今でも物悲しく陳列されていますが、彼はカトリック信者でありながら、なぜか罪を問われなかった。
 さらには、宗教上の対立が激しい、北アイルランド問題があります。私自身、駐在中に「汝の敵を愛せよ」といっているカトリックとプロテスタントが互いに刃を向け合っている事実を目のあたりにしました。次第に、私の中には「神は果たして人間を救ってくれるものだろうか」という思いが頭をもたげてきたのです。そうした問題と相まって、“沈黙”についても疑問は深まるばかりでした。そんなとき、タイトルに引かれてふと手にしたのが『沈黙』です。読むと、まさに目から鱗が落ちる思いでした。∵
 作者も主人公を通して「神は果たして存在するのか」と問いかけていました。遠藤さんは、キリスト教徒として、私と同じ問題を共有していたことを、ひしと感じたのです。
 小説は、「ローマ教会に一つの報告がもたらされた」という書き出しで始まります。鎖国の日本に、三人の若いポルトガル人の司祭が日本上陸を果たした、その報告の形をとっています。
 当時の日本は、キリシタン禁制で島原の乱が鎮圧されたばかりですから、命をかけた日本上陸でした。彼らは間もなく捕らえられ、過酷な拷問の責め苦に遭い、背教を強いられるのです。
 そして踏絵に足をかけるとき、
「その(キリストの)顔は今、踏絵の木のなかで磨滅し凹み、哀しそうな眼をしてこちらを向いている。(踏むがいい)と哀しそうな眼差しは私にいった」。「主よ。あなたがいつも沈黙していられるのを恨んでいました」
「私は沈黙していたのではない。一緒に苦しんでいたのに」
 作者は、キリシタン禁制という信仰のけわしさの中で、キリストは踏絵で踏まれつつ棄教者をゆるしていたのだ――という一つの答えを提示することでカトリックの「普遍性」を問いかけています。私にとっての宗教とは、生きるための一つの指針であります。その思いを強くひびかせてくれたのが『沈黙』だったのです。

 (月刊「致知」伊藤朝夫氏の文章より)