黄ウツギ の山 12 月 1 週
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○自由な題名
◎水


★徳川譜代の暮臣鈴木重成は(感)
 徳川譜代の暮臣鈴木重成は三代将軍家光のころの人で、島原・天草の乱後、幕府の天領(直轄地)となった天草に代官として赴任しました。島原・天草の乱では三万七千人の民が皆殺しにされましたが、重成自身も乱のとき砲兵隊長として出陣したので、相当の人数を殺したはずです。天草に赴任したときには罪業感を抱いていたかもしれません。
 重成に課せられた任務は、天草の民が二度と乱を起こさないよう民心を安定させること、規定通りの年貢を収められるだけの生産力を回復させること、キリシタンを仏教に改宗させることでした。どれひとつとっても大変なことですが、重成の実力を見込んでの人事でした。
 天草の状況は悲惨でした。島原・天草の乱後、人口が激減し、多くの田畑が耕す人もなく荒れるに任されていました。しかもそこへ過酷な税金が課せられ、農民は木の根、草の根を食べて命をつないでいるありさまです。
 かねてから、天草の島全体の生産力は二万石ほどしかないのに、石高は四万二千石と査定されていました。そもそも島原・天草の乱が起こったのも、重税による生活の苦しさから逃れようと、大勢の農民がキリスト教に入ったことが原因でしたが、乱後も状況は同じでした。
 重成が民の生活を向上させるためにまずやったことは、神社仏閣、道路、港などの築造工事を行い、民に賃金を得させることでした。このために重成は幕府から巨額の資金を調達したようです。いまも天草には、二、三十億円ほどの価値があろうかという社寺が二十五か所ほど残っています。
 やがて重成の努力が功を奏して、荒れた田畑にも実りが戻り、島の生産力は徐々に上がってきました。民の生活にも多少余裕が生じてきたかに見えました。しかしそれでもなお、石高四万二千石の査定は天草には重すぎました。だが重成は幕府の代官です。いかに民の窮状を見るに忍びなくとも、税を徴収しなければなりません。
 ついに重成は石高半減の嘆願を決心しました。重成の心に菩薩心が起こりました。世のため人のためにわが身を投げ捨てようという覚悟です。
 重成は、自分が生きている間に嘆願が受け入れられないことを承知していました。なぜなら、重成の嘆願が認められれば、他の代官がわれもわれもと嘆願書を出すからです。そうなれば幕府の台所にひびが入ります。しかし、嘆願を実現しなければ天草の民は救われません。
 幕府を生かし民も生かす道は一つ。切腹です。
 もちろん、重成には他の道をとることもできました。年齢もすでに還暦を過ぎていましたから、病気を装って隠居を願い出ることもできました。あるいは平々凡々の場当たり的な政治を行って無難に切り抜けることもできたでしょう。しかしそれは、己の命を捨てて他の命のために尽くそうとする重成の菩薩精神が許しませんでした。
 ある年、肥後(熊本県)地方を大暴風雨が襲いました。天草は壊滅的な打撃を被り、農民は田畑も家も食べるものも失いました。
 民を飢えから救うには、米蔵を開放する必要がありました。だが米蔵を開くには幕府の許可が要ります。無断で開けば切腹です。しかし、天草と江戸の距離は往復二千五百六十キロ。普通に歩けば八十日かかります。使いの者の帰りを待っていては民が死にます。
 だが、重成の覚悟はもう固まっていました。「なに、わし一人腹を切れば済む」重成はすぐに米蔵の開放を命じました。承応二年(一八五三)旧暦十月十五日午前零時、重成は石高半減の上表書を妻重子に託して、切腹しました。
(「致知」九十七年四月号 黒瀬昇次郎氏の文章より)