黄エニシダ の山 2 月 2 週
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○自由な題名
○雪や氷、なわとび
★私はいじめと、生徒のいさぎよく(感)
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私はいじめと、生徒のいさぎよくない行為に出くわしたときは、絶対許せなくなります。例えば、あることで他の生徒が白状しているのに、白々しく嘘を言い続ける生徒がいました。私は、バーンとテーブルを飛び越え、その生徒の横っツラを張り倒した。その折、何かの金具に手の甲が触れたのでしょう。私の手から血が流れ出しました。でも、殴るのをやめなかった。すると、周りの仲間がその生徒に言うのです。
「お前、早く謝れ。みんなバレているんだから謝れ、早く」
生徒は「なんだ、もうバレてしまってたのか」。実にあっけらかんとした表情で、すべてを白状しました。そんなことがあった後は、人間関係が逆に深まります。そして、彼らはさまざまな情報を私に提供してくれるようになるのです。
いまの学校現場には、こういう場面があまりにも少ないようです。若い先生などはヒステリックなまでの暴力反対の教育を受けてきているし、自分自身も受験勉強一筋でケンカをした体験がない。だから、小学校などではちょっとしたケンカでも教師がすぐ止めて、満足にケンカもさせません。
私は違います。こんなふうに生徒とやりとりをする。
「ケンカかあ、それともいじめかあ」
「ケンカです」
「そうか。じゃあ、机を隅に寄せて思う存分やらせろッ」
小学生、中学生のときのケンカは思いきりやらせればいい。そのなかで痛みもわかるし、それ以上やればどうなるかという頃合いも、自然と身に着いてきます。疲れたからもうやめたという具合にもなる。
「先生、頭にきたぜ」
「なんでだ」
「止めてくれればいいじゃないか」
私が止めないから、ケンカを続けなければならない。ケンカをしている双方が、「文句」をつけてくる。荒れる黒中時代はこんなケースがいくつもありました。
その荒れる子供たちが一番腹立たしく思うのは何か、ご存じでしょうか。それは教師に「シカト」されること、つまり「無視」されることなのです。ある男子生徒が卒業間際に話してくれました。一学期のある日の英語の授業で、教師が前の席の生徒から順番に質問をしてくる。「次はおれの番だ」と思った彼は、「わかりません」という言葉を用意して待っていたというのです。ところが、教師は彼をポンと飛ばして、次の生徒を指名した。瞬間、彼は逆上して、「ばかにするな、この野郎」と机をひっくり返し、教室を飛び出しました。以後、その教師の授業に出席することはなかったといいます。
愛情の反対は、憎しみではない。愛情の反対は無関心なのだ、と私は思うのです。机をひっくり返した生徒は「無視」という氷の刃をグサリと突き刺されました。彼は腹を立てるというよりも、悲しかったのです。
(「致知」九七年八月号 木村将人氏の文章より)