ネコヤナギ2 の山 2 月 2 週
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○自由な題名
○雪や氷
○なわとび、なみだがぽろり
★(感)相手あっての文章
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【1】相手あっての文章という考えに立つと、文章は料理のようなものだということがわかってくる。
料理は作った人も食べる。味見や毒味もする。しかし、料理は食べてくれる人がなくては張り合いがない。【2】料理の先生が、独り暮しの自分のマンションではインスタント・ラーメンを食べているという話がある。教わりたい人がいるから、先生にもなる。うまいと感心してくれる人がいるからこそ、腕を振るってめんどうな料理もこしらえる。【3】自分ひとりだけ食べるのでは、とてもそんな手間ひまをかける気がしないというのであろう。
文章は料理、とすると、まず、食べられなくてはいけない。何を言っているのか、わからない。これでは料理ではない。スープなのか、みそ汁なのかわからないのでは食べる方は迷惑である。
【4】若い人の書く文章に、誤字、脱字、当て字が多いと言われる。ご飯の中に石が入っているようなもので、石が歯にカチッと当たるのはたいへん気になる。そういう混ざりものをなくさないと、せっかくの料理も台なしになってしまう。【5】文章が料理だとすると、ある程度、栄養があり、ハラもふくれないといけない。見てくれだけの料理というのもあるが、本当に相手のことを考えていない。文章で言うと、しっかりした内容があることであろう。【6】いくら表現にこってみても、中身がなくては困る。何を言っているのかが読む側にはっきり伝わり、なるほどと納得するのがいい文章となる。
料理で、いちばん大切なのは、おいしい、ということである。いくら栄養があっても、うまくなくては落第。【7】つい食べ過ぎてしまうようなものが上手な料理というものである。もうやめておきたいと思いながら、つい、もうすこし、もうすこし、と後を引くようなご馳走を作るのが本当の名コックだ。
文章もその通り。
【8】いくら、りっぱなことが書いてあっても、三行読んだら、あとはごめん、と読者が思うようなのではしかたがない。先、先が読みたくなって、気がついてみたらもう終わっていた。ああ、おもしろかった。こういう文章ならいくら読んでもいい。【9】そういう気持を与えたら名文と言ってよい。∵
いまの文章は、多く、読者に対するそういうサービスの精神に欠けているように思われる。自分の書きたいことを一方的にのべる。身勝手なのである。同じことなら、おもしろく読んでもらおうという親切心が足りない。
【0】いま、クッキングスクールで料理の勉強をする人はたくさんいるが、文章の料理を教えるところは、ごくすこししかない。おもしろい文章を書こうと思う人がすくないからであろうか。
ちょっと断っておかなくてはならないのは、その「おもしろさ」である。
おもしろいというと、すぐ、おもしろおかしく、吹き出したり、ころげ回って笑ったりすることを連想しがちである。そういうおもしろさもないわけではないが、ここで言っているおもしろさは、相手の関心をひくもの、といったほどの意味。読まずにはいられない、放ってはおかれないという気持を読む人に与えるもの、それがおもしろさである。興味深いもの、知的な快い刺激を感じさせるものは、すべて、おもしろいものになる。どんなに固い学術論文でも、こういう意味ではきわめておもしろい、興味しんしんの文章でありうる。
文章は料理のように、おいしく、つまり、おもしろくなくては話にならない。
(外山滋比古(とやましげひこ) 「料理のように」 一部改変)