黄エニシダ の山 3 月 2 週
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○自由な題名
○春を見つけた、種まき
★私たちはよくテイストという言葉(感)
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私たちはよくテイストという言葉を使います。好みといったような意味ですが、世間一般の言い方に従えば「センス」という言葉に近い意味に使っています。センスとは何かといえば「違いを見分ける才能」だと思います。
AとB、二つの選択肢があるとき、見た目はまったく変わらない。あるいはどうみてもAのほうがよさそうにみえる。そういうときでも背後に潜む微妙な違いのようなものを感知して、「Bがいい」というのがセンスです。いずれにしろ極上のセンスが常識的であることはめったにありません。
あるいはカンといわれるもの。これもセンスの一つです。勝負カンのある人は勝負センスがいい。いずれにしろ科学者はテイストがよくないと、なかなかよい業績が上げられません。「科学者の成否はテイストで決まる」という人もいるくらいです。
私自身は、自分が「テイストがいい」と胸を張っていうほどの自信はありませんが、ときにわれながら「いいのではないか」とうぬぼれることもあります。パスツール研究所とツバ競り合いをしていたときのことです。
こちらがまだ遺伝子の解読に着手もできないでいるのに、パスツールがすでに八割がた終わるところまで進んでいたことは前述しました。あのとき実はもっとすごいことになっていたのです。
パリからドイツに飛んだ私はハイデルベルク大学の友人を訪ね、話を聞いてみると、パスツールだけではなくアメリカのハーバード大学でも同じテーマでやっていることがわかりました。おまけに「うちもやってるよ」とハイデルベルクの友人にもいわれました。進み具合を探ってみると、私たちよりはるかに進んでいる様子。パスツール、ハーバード、ハイデルベルクと並んだら、この世界では横綱、大関クラス。こっちは十両からやっと幕内に上がったくらいなのです。
こうなると、もう絶望的です。そういう状況下で中西重忠先生に出会い、先生の協力を得たのですが、そのときのことをもう少し詳しく話しますと、中西先生は私の知らないあることを教えてくれたのです。
「実は遺伝子暗号というのは九分九厘読めても、最後でつまずくことがあるんですよ。それにいまさらパスツールがヒトだからって、こっちがサルでやってどうするんです。絶対あきらめないでやるべきです。なんなら私の研究室で……」ということだったのです。
問題はこの瞬間です。このとき私が「そういっていただくのはうれしいのですが、ここは潔く撤退して……」と断っていたら、それでおしまいでした。私はそのときどう思ったか。いま考えると不思議ですが、中西先生の応援を得たことで「天の味方がついた。これで勝った!」と直感したのでした。冷静に考えれば、不利なはずの選択肢をそのとき選んでいたことになります。
そして私は大急ぎで帰国し、それまでいくらやってもダメだったヒト・レニン遺伝子の取り出しに成功しました。これは中西研究室のおかげでした。
そうなるとみんなの目の色が違ってきます。筑波から京都に移った大学院生たちは下宿にも帰らず、昼夜兼行で研究に没頭。一種の興奮状態のなかで、三カ月で一挙に暗号を読み切ってしまったのです。
世界初のヒト・レニンの遺伝子暗号解読は、大学院生の不眠不休の努力とハイデルベルクの酒場で私が九九%の負け戦を「勝った!」と思ったことにあるのです。遺伝子ONの世界が火事場のバカ力のように出てきた例といえるでしょう。
(村上和雄著 「生命の暗号」より)