ペンペングサ の山 3 月 2 週
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○自由な題名
○春を見つけた、種まき

○Eight, five, seven 英文のみのページ(翻訳用)
Eight, five, seven, three, one, two. If I asked you now to repeat these numbers, no doubt most of you could. If I asked you again after a long talk, you probably couldn't -- you will keep the memory for a short time only.
It seems to be the case that two quite different processes are involved in the brain in memory storage, one for the short-term -- that is about fifteen minutes to an hour -- and one for long-term memory. Many items of information find their way briefly into our short-term stores; most are discarded, and only a few find their way into the long-term store. While memories are in this short-term store, they are easily destroyed: by distraction, for instance -- do you remember the number sequence we started with? -- or by interference with the brain: by an epileptic fit, or concussion, for example. The film hero who wakes up after having been knocked out in a fight and asks "Where am I?" isn't joking; if the blow that knocked him out had been real it would have affected the electrical processes in his brain and so destroyed his store of short-term memories. But he will not have lost his store of permanent, tong-term memories -- indeed, it is extraordinarily difficult to erase them. Quite often in psychiatric treatment the psychologist tries to remove them by drugs, with electrical shock treatment, with insulin therapy, or psychoanalytic techniques, but usually with a very limited amount of success.
Indeed, when one comes to think about it, memory is perhaps one's most durable characteristic as an individual. I can lose limbs, have real organs replaced by plastic ones, alter my facial appearance with plastic surgery, but I am still "myself"--a complex of past experience, past memories, held tight and firm within my brain; only when I lose these do I cease to be myself.

★私はこの数年間テレビ、ラジオ(感)
 【1】私はこの数年間テレビ、ラジオ、新聞などを通じて意見を述べる機会に恵まれましたが、私のような外国人が日本の内閣総理大臣をはじめ要人や政治的なものを含む制度などを批判しても、当局からのおしかりもなければ愛国者といわれる方から危害を加えられたこともありません。【2】少なくとも私が知っている限りでは、日本における言論の自由はアジアはもちろん、世界でも例を見ないほど保障されていると思います。そして、今でも様々な国で行われている報道弾圧を思い起こすたびに、この自由を享受できないでいる海外の友人に対しある種の後ろめたさすら感じることがあります。
 【3】とはいっても、この言論の自由を謳歌している日本の言論機関に対し、疑問や注文がないわけではありません。確かに政府による厳しい検閲や特定の団体による弾圧は感じられませんが、言論機関による少数意見の抹殺や世論操作に近い誘導があるように感じてなりません。【4】これは自由であるからこそ生じているものであるといえるでしょう。ここではとりあえず新聞、テレビなどマスコミについて考えてみたいと思います。
 【5】まず不思議に感じることは、これだけの数の新聞と雑誌があるというのにとりあげているテーマがほとんど同じであるということ、しかもそのテーマは何を基準にして決めているのか、私たち外国人にとってはわかりにくいことです。【6】例えば国益を重視しての決め方であると思われる時がありますが、しかしこの国益という言葉はマスコミにおいてはタブー視すらされて、ほとんど死語に近いような概念であるようなので、どうもそうではないようです。【7】それでは社会正義なのかと考えてもみましたが、日本には確固たる正義の基準となるモラルや確立した規範があるようにも思えないのです。
 私の考えでは、マスコミの役割はまず現在の世の中の出来事を事実として客観的に伝えること。【8】そして社会に対し危機回避の役割を果たすことであり、個人的社会的に向上するための知識や情報を提供することです。
 しかし日本の報道については、ニュースの判断基準のあいまいさが気になります。【9】社説や論文はべつとして、その他の記事や報道では、何が客観的事実であり、またどんなメッセージを発しようとしているか分からないのです。
 そこで第一に考えられることは、残念ながら日本のマスコミを左∵右している商業主義、売れ筋なら何でもやるという競争原理です。
 【0】次に読者、視聴者の中毒的欲望を満たすためにいたずらに刺激的でドラマチックな演出を加えることです。
 さらに、マスコミ関係者は、特にテレビではある種の時代錯誤に陥っているようで、反国家的であることが正義であるときめつけ、庶民ぶることで自分の意見もあたかも国民の意見のごとく仕立てています。国家が弾圧的であるような時代であるなら別ですが、マスコミそのものが大きな権力になっているのに、庶民ぶることや反体制的であろうとするのはむしろ権力の乱用であるように私には感じられます。数千万、あるいは億単位の契約金をもらっているキャスターが、自分は庶民であるとことさらアピールする姿は、庶民を食いものにしているようにすら思われます。
 私は日本のマスコミに対し、三つの注文をしたいと思います。第一に、自分の意見と客観的な事実を区別すること。第二に、マスコミ人としての自覚とモラルに基づき、だれが正しいかよりも、何が正しいかを明確にしていくこと。第三に、世の中に対し麻薬患者に注射を打つような行為を改め、明白な警鐘と提言を行って欲しいこと、です。

(ベマ・ギャルポの文章による)