黄アカシア の山 4 月 2 週
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○自由な題名
○本


★私は最近、九十歳を越えて(感)
 私は最近、九十歳を越えていまなお活躍しているある人が書いたものを読んで、大変感銘を受けた。
 ご老人は功成り名遂げた人だから、多分日常は快適な環境の中で暮らしておられるのだろう。だが、ご老人は毎朝冷水を浴びることを一日も欠かしたことがないという。朝起きて、大気と十度以上も差のある冷水を浴びる。毛穴がすぼまり、血管が引き締まる。その刺激がその人の生物体としての適応能力をよみがえらせる。快適な毎日にあって、一時でも厳しい環境の中に身を置くことで、生物体としての適応能力を刺激する地道な営みが、ご老人が九十歳を越えてもなお元気に活躍している一つの要因になっているのだろう。
 いま、私は家で鯉を飼っている。鯉や金魚を飼っている人は多いが、聞いてみると、よく死なせている。私は自慢ではないが、鯉も金魚も信じられないほど長生きさせることができる。いや、自慢するほどのことはない。カレルの理論を応用しているだけなのだ。
 そのコツは餌を十分にやらないことである。ときには一週間わざと餌を与えなかったりする。いま飼っている鯉は、これで攻撃的なエネルギーを発揮し、元気いっぱいに長生きしている。
 餌を十分にもらえないことは、鯉にとって快適な環境ではない。いささかの飢餓状態に置かれている。これが鯉に攻撃的なエネルギーを与え、元気に長生きさせる要因なのだ。反対に十分な餌を与えると、適応能力が刺激されず、生物体の価値を低めてしまって、早く死んでしまうことになる。
 最近は犬でも猫でも栄養満点のペットフードを与えられ、満ち足りているようである。かつて猫と言えば高い木や塀に登り、鼠を獲るものと相場が決まっていた。ところが、いまの猫は木にも塀にも登らなくなったし、鼠も獲らなくなった。栄養満点で飢餓を知らず、空調冷暖房完備の部屋でヌクヌクと寝そべっているうち、∵適応能力が失われ、木にも塀にも登れなくなったし、鼠を獲ることもできなくなったのである。満ち足りた環境の中に長くいると、適応能力が衰えたまま、固有の能力も退化してしまうのである。
 そう言えば、盆栽の名人からいい盆栽を育てるコツは、「切りすぎずに切る」ことだと教えられたことがある。植物を限られた状況に置くのが盆栽である。だから、そのままにしておくと盆栽はすぐだめになってしまう。枝を切ることで適応能力が奮い起こされ、いい盆栽になるのである。
 人間もまた、同じである。アレキシス・カレルは要旨、次のように言っている。「食うだけ食って、寝たいだけ寝て、人間の向上などはあり得ない」
 まさにその通りだと思う。
 眠たいのを振り切って起き上がったことのない青年が、将来物の役に立つ人間になるとは思えない。眠りというのは生物の個体にとって極めて重要で、これが極度に妨げられると、生命の危険にさえ立ちいたる。逆に眠りたいだけ眠って満ち足りると、生物の個体はそれ以上は眠れない。生物体は生物学的に必要があるから、必要な分だけ眠るのだから、「惰眠」などということはないはずである。それなのに「惰眠をむさぼる」などと言う。なぜか。
 眠りたいだけ眠ることは、生物体の適応能力を刺激しないだけでなく、精神の適応能力にも、響いてくるのである。眠りに満ち足りると、生物の個体は何かに向かって努力するという気持ちを失ってしまうのだ。従って、眠りたいだけ眠ることは「惰眠」なのである。
 眠いのを振り切って起きた経験がなくて、向上した人間はいない。これは肝に銘ずべきことである。向上して将来大いに世の中の役に立つ学生は、いま眠いのを振り切って机に向かい、勉強しているはずである。 (「致知」渡部昇一氏の文章より)